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ブラッド・スローン レビュー・考察・批評・ネタバレ

 

ゲーム・オブ・スローンズ』のニコライ・コスター・ワルドー、『ウォーキング・デッド』のジョン・バーサル、『バーン・ノーティス』のジェフリー・ドノヴァンが一同に会し、海外ドラマキャラクターの強いイメージからいち早く抜け出せ合戦みたいな形になっている『ブラッド・スローン』。

 

ジョン・バーサルは『ベイビー・ドライバー』や『ザ・パニッシャー』もそうだけど本当にヒゲとタトゥーと柄の悪い役が似合う。主役のニコライのギャングルックもいかつい。ジェフリー・ドノヴァンはいかにも元締めっぽい風貌でナイスである。

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さて本作はエリート金融マンが飲酒運転死亡事故を起こし刑務所に収監、ギャングの世界でどう生き延びるかという話で、それ自体は単純な話であるものの、とにかく刑務所のリアリティが凄まじく、受刑者と看守関係性や人種間グループ、外と中との繋がりなど刑務所社会がわかりやすく描かれている。

そのほとんどがギャングで、中に入ればおもちゃにされ死ぬか、サバイバルするかしかない。そんな場所でエリート金融マン、ジェイコブのウォール街で活躍した脳みそがどう再利用されるかが面白い。舐められたら終わりってことでちょっとした小競り合いでいきなり黒人をぶん殴りホワイトパワーギャングの仲間入りとなるわけで、ここでやっていくには殺しも厭わず受けるしか無い。特別こういった体質の刑務所なのか、アメリカの多くの刑務所がそうなのかは知らないけど、刑務所がいかに一般市民を犯罪者に変える生産ラインかを示していて、日本の更生を目的としたそれとはだいぶ文化が違う。主人公の彼が飲酒運転で投獄された一般人だったということが根本的な部分でアメリカの刑務所制度の問題を強く強調していた。

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家族だけはという願いと原動力を持ちながらも犯罪者のボスに変わっていく様は『ブレイキング・バッド』のウォルター・ホワイトを思い起こさせ、同じように一般人に眠る潜在的なエネルギーを表現している。

ジェイコブはあまりにも不遇だったが、一度足を突っ込めば外に出ても犯罪から抜け出せない。「ここから出れば縁が切れると思ったか?外に出ても俺たちはブラザーなんだよ」というセリフがずっしりと重かった。

ポスター画像

 

 

ブラックミラー『クロコダイル』考察・批評・解説

ドラマのカテゴライズは話が続くストーリードラマと、一話完結型のコンセプトドラマがある。で、この『ブラックミラー』は一話完結型でもコンセプトドラマというよりアンソロジー。詩集のように様々な登場人物と舞台設定のエピソードがあり、それら全てが『近未来テクノロジーがもたらす予期せぬ結末』っていう一貫したテーマに沿って描かれている。

 

今回のエピソード“クロコダイル”は人の記憶を映像化できる装置を、しかも民間企業までもが使用しているという近未来。エピソードではデルモ保険のシャジアという保険調査員が事故の検証のため目撃者の記憶を映像化された証拠として利用するため使用している。その装置は持ち運びできるほどに小型で、対象の人物の頭にニコチンガムくらいの大きさのチップを付け、あとは対象人物に記憶を思い出してもらい手元のモニターで映像化される。近い未来にここまで実用化されるとは思えないが現実でも脳の記憶を視覚化する実験は成功しているので、ありえなくもない世界だ。

しかしこの装置がリアリティかどうかを議論するのは不毛で、議論すべきは我々が生きる現代社会の延長線にどんな問題や危険性が生まれるか、そういった地続きの未来である。

現代でも町中の防犯カメラやドライブレコーダーで犯人や真相が特定されることが当たり前になっているが、今回はその監視社会の行く末みたいなエピソードなわけだ。

このリコーラーという機械、自身の潔白を証明するためなら喜んで使用を望むだろうが、自分とは無関係の事件事故のために証言として覗き見されるというは非常に抵抗のある話だ。

イエローの女性、歯医者、彼らはシャジアが言う大多数のパターンだったのだろう。歯医者の男は向かいのホテルの窓に見える裸の男の写真を撮っていた。シャジアにはもちろん守秘義務があるが、公にされないとしても本人は辱めを受けたり不快に感じていて、プライバシーの侵害のような案件としての危険性を見せていた。

で、最悪のパターンでミアの殺人を知ってしまうことだが、このことによって後に起きる悲劇はどうすれば防げたか?

「ブラックミラー」シーズン4、「ワニ」

やはり、一つしかない。リコーラーを使う際にシャジアがミアに見せた「利用許諾契約EULA(エンドユーザーライセンス)」である。実際に何が書いてあるかはわからないが、本来、利用許諾契約には双方の責任範囲、免責事項などが書かれているはずだ。

よく考えればシャジアはそもそも、ミアがリコーラーの利用を拒否するかもしれない覚悟の上で訪れており、ミアと対面するなりとにかく記憶さえ見れればという営業トーク的なノリで物事を進めようとしていた。ミアが協力を拒む姿勢を見せれば「証言は法的義務、拒否をしたら通報しなければならない」などと半ば脅しかけるようなセリフで家に入ることを許され、リコーラーが何かきちんと説明するのではなく「言葉より印象の方が確かな証拠になりやすい」などとはっきり言わずにリコーラーを使用しようとする。営業や接客で仕事ができるタイプの人は頭の回転が良く、こういう立ち回りができるのだろうが、やはりリコーラーを使用する上では大きなリスクが伴うことにもう少し危機感を持つべきだった。シャジアに落ち度があったとまでは言わないが、そういったマンパワーの押しでやりきる仕事人にも保険をかけるため「利用許諾契約」があったはずなのである。その長すぎるEULAをミアは「これ読むの時間かかるわね」と読まずに同意していまっているのだ。もしミアがこれをきちんと読んでいたら、同意しなかったかもしれない。EULAがあるのだからリコーラーは法的義務ではなかったということになる。「早く解決するとボーナスが2倍になる」と言われれば多少危ない橋でもなんとか渡ってやろうという気になるが、相手が悪かった。素直にマニュアル的に対応していればボーナスは少なくても命は落とさなかったかもしれない。「black mirror crocodile rob」の画像検索結果

アイスランドの風景の美しさと、鬱々しさ、ノワール調で繰り広げられる心理スリラー。ロブが15年前に犯した人身事故は、あまりにも非人道的である。死亡事故、死体遺棄の事実が明らかにならないまま、15年間帰りを待ち続ける被害者の妻がいる。共犯したミアは、禁酒に成功したロブの「真実の手紙を書きたい」という言葉に激昂し、ロブを殺す。その記憶を覗き見たシャジアを殺す。シャジアが行き先を告げていた夫を殺す。自分を守るために嘘をつき殺人を重ね、15年たった今、サイコパスになっていたのはミアのほうで、最後には目撃されたかもしれないという理由で子供を殺す。盲目だった子供を殺す必要はなく、モルモットの記憶が回収され、4人の殺害は意味がなかった。誰も救われない話である。「black mirror crocodile iceland」の画像検索結果 

 

 

 

 

 

 

 

ブラックミラー:バンダースナッチを考察する。レビュー・批評

「ブラックミラー バンダースナッチ」の画像検索結果Netflixより『ブラックミラー:バンダースナッチ』。なにも知らずに見始めたもんだから、選択肢が現れた時はわけがわからなかった。最初の『どちらのテープを聞くか?』という問いで、選択したほうのテープがBGMになった時Netflixすごい!と小学生みたいな感想を抱き、チャプターごとに選択肢が現れるたび自らの選択でストーリーが変わって“いくかのように感じる”わけで、そらもうわかりやすく頭の中には「ゲームと映画の境界線」っていうパワーワードが思い浮かぶ。

急に話が変わるけど、ブログ界で映画の話をしているその7割がグダグダと事細かくストーリー書き起こし、肝心の感想は「すっごくおもしろかった!」みたいな薄っぺらいアフィリエイト思考の作業的記事ばかりなので、そういった情報関連はそいうところで確認していただいて個人的な意見や考察のみを書いていく。

 

で、このいわゆる『インタラクティブ型』と言われる、いかにも新時代映画とも呼んでくれと言わんばかりのゲーム性を取り込んだ『ブラックミラー:バンダースナッチ』という映画、たくさんの頭のいい人たちが集まって制作されているのは間違いない。

映画館では実現できぬ、映画の進行を選択するという行為。誰もがゲームのようだと感じるし、選択次第で鑑賞できないシーンがあるしエンディングも変わる。このインタラクティブ型というのは、どんなカテゴリーにおいても現代の消費傾向にマッチしていることは言うまでもない。劇中の中で「選択することでストーリーが変わるゲーム」を作ることが話の軸であり、インタラクティブ型を利用することで見ている我々にも選択させることで従来映画が提供してきた「追体験」ではなく「体験型」となるわけだ。インバウンド需要の高い現代の日本企業でも必ず語られる『モノ消費からコト消費へ』と極めて近い視点ににあり、現代は誰もが体験することに価値を感じていて、Instagramには何を買ったかよりも何をしてどんなことをしたかをシェアしたい。現代に求められる体験型であるからこそ話題性が非常に高く、その上、体験するためのハードルが低いため(みんなが持ってるスマホでできる)、『ブラックミラー:バンダースナッチ』が当たればそのまんま新しいマーケットが出来上がってしまうかもしれない可能性を秘めているわけだ。

そこで求められるのはこの試作的「体験型映画」というものの“体験”するという部分についてのわかりやすさ。これはもうそのまんま劇中で説明されているが、主人公が作りたいゲームの内容にある。主人公が世に送り出そうと開発するのは“選択することでストーリーやエンディングが変わる新しいゲーム”、とまぁ今我々がやっていることそのまんまであって、「選択すること」が持つ“体験”と“新しさ”をストーリー上からも強く植え付けるわけである。そして主人公が「誰かに操られているような」感覚に陥りパラレルリアリティ的にゲームオーバー・コンテニューを映画上に成立させる。

そうするとみんなが同じことをブログに描く。

『ゲームと映画の境界線を越えた!』。Netflixからしたら狙い通りなんだろう。さらには『ストーリー攻略!』『攻略フローチャート!全分岐一覧!』『イースターエッグ!』『裏ルート!』とありとあらゆるライターたちのゲーム的な見出し。つまりインタラクティブな映画ってそれだけの話題性があったということでNetflixすごい。

 

ただ作品としてどうなのかってのが肝心で。確かに起こりうるシーンを撮り切ってあらゆるプロットをあらゆるストーリー展開できるように構成しなければいけない労力はすごいものの、やはりどうしても本筋と関係ないチャプターがあるのは否めない。ゲームのようにキャラクターを動かす自由意思があれば攻略するために行ったり来たりを繰り返しても苦にならないが、違うエンディングを見るために同じシーンを何度も見なければいけないのは正直苦痛だ。コンテニューするたびに飛ばせないムービーを見せられるようなもんだろう。それに映画に最も求められる主人公の目的意識。映画の根本的な構成は「行って帰ってくる」こと。日常から非日常へ、そして日常へ帰ってくる。その中で主人公には明確は目的意識がある。その行動の中で試練に出会い、高い壁にぶち当たり葛藤する。それを乗り越え成長していく。確かに主人公にはゲームを世に送り出すという目的意識はあるのだろうが、主人公にとって都合が良さそうでいかにもスムーズに展開しそうな選択肢を選んでいくのもつまらない。奇抜な選択肢や展開の予想が付かない選択肢を選びたいに決まってる。しかし、大抵衝撃的な展開になるものの、やはり本筋から逸脱してゲームオーバーになり、もとの選択肢に戻ってやり直す。どうなるかわからない選択肢を選ぶのは普段映画に求める予想外な展開を楽しむことと変わらないはずなのに、エンディングに辿りつくにはある程度作品側の都合を考えながら選択しなければいけないゲーム的な攻略性が「ゲームの境界線」というワードで考えれば悪くもあるってことになってしまっていた。

とは言え、何十年も前から“選択する映画”なんてアイデアは世界中でいろんな人が思いついてきたことだと思うが、Netflixという視聴環境が正にそれをやるにマッチした環境であり、しっかり先駆者となるところがサブスクリプション界の王者たる所以。試作的・実験的な一作であるし、これでも十分な完成度だとも思う。こういった形態の作品がたくさん創造されていけば、今後カテゴライズされ、呼び名がつき新たなマーケットとなるかもしれない。これから10年先、20年先と試行錯誤がなされ技術が進化し、現代とは比べ物にならないデータ量が扱えるようになった時、映画制作としては並行世界を全て撮影するかのようなインタラクティブ型作品が登場するかもしれない。

ランペイジ 巨獣大乱闘に突っ込みたいーレビュー・考察・ネタバレ

Netflixに『ランペイジ 巨獣大乱闘』が追加された。AVタイトルみたいなこちらの映画にはドウェイン・ジョンソンジェフリー・ディーン・モーガンが出演しており、映画館で見たかったかと言われるとそうではないが、Netflixで見れるぞと言われるとサラっと再生してしまうくらいの微々たる興味はあった。

『字幕か吹き替えか?』というミーハー映画マニアの間で永遠と語られる不毛な問いにはうんざりしていて、はっきり言ってしまうと個人的には吹き替えの方が字幕よりも楽に映画を読解できる。だからさほど期待してないB級映画やアクション映画なんかは吹き替えを選ぶ。逆にホラーとか『ダークナイト』や『マンチェスター・バイ・ザ・シー』なんかは字幕で見たいと思うのである。なんとなく伝わるだろうか。で、どっちがこうで、どっちがああだ、みたいな論争には宇多丸×三宅隆太監督「日本語吹き替え映画特集!でどちらをもリスペクトした上で結論付けられているのでこの議論はもうやめにして巨乳大乱交の話。

 

でなぜ吹き替え字幕云々の話から入ったかというと、『ランペイジ 巨獣大乱闘』は吹き替えで見たものの、この選択はハズレで逆に集中力を欠いてしまう原因となった。今作には海外ドラマフリークにはおなじみのジェフリー・ディーン・モーガンの出演している。『ウォーキング・デッド』のニーガン役の彼だ。『ウォッチメン』の時のジェフリーも強烈に印象には残っていても、現実での時系列上ニーガンのほうがもっと強烈な印象である。

「ニーガン」の画像検索結果

 

いや、つまりそれがなんなのかというとラッセル役ジェフリーの吹き替えが若本規夫さんという大混乱事件。若本規夫さんで一番有名って言ったらドラゴンボールなのかもしれないが、海外ドラマフリークには『プリズンブレイク』のティーバッグにしか聞こえない。全くマッチしないから、ジェフリーもラッセルではなくニーガンに思えてしまうし声もティーバッグに聞こえてしまうしなんかこう喋られる度に集中力が切れそうになる。

このラッセルという登場人物が悪いやつかと思いきやストーリーの進展の非常に協力的で後半は仲間化しているしキャラクターも奇抜なわけではないし、大げさに言えば若本さんの副音声が同時に流れてた〜みたいな感想になってもおかしくない。字幕だったら全く違うキャラクターに思えるだろうか?むしろ字幕版で見ればなぜ若本さんになったか理解できるかもしれないのか?

 

さて、本編に関しては都合良すぎる展開のアソートボックスみたいになっており気になったら負け映画」ってところ。そもそも中指ポーズでジョークかましてケタケタ笑うゴリラがいるかよって話だし、低周波に集まるってなによ?って感じだし解毒剤も体はそのまま気分は元どおりみたいなそんなんストーリー上ジョージが助けてくれる用の解毒剤だし、クレアってあの女だけ都合よく投げ飛ばされるじゃなくてカニみたいに食べてくれるし....って気にしたら負けなところも重々承知の上だけど、どれもこれも後付け感が強くて流せない。都心に集めるためにはどうしましょう?低周波っていうのはどうでしょう?コウモリの細胞が入ってるとかの設定で...みたいな。

 

みんな大好きセレブのドウェイン・ジョンソンは対した肉弾戦は無く、CGの瓦礫の中を駆け回るアクションが大半であった。それでも絶命の危機に必ずハイパワー重量級の銃火器を見つけ操るドウェイン・ジョンソン感はほどほどにあったし、腹部を撃たれても「急所は外れたんだよね」って普通に走り回り飛び回るのもドウェイン・ジョンソンだから気にならない。ついでにヘリコプターに乗り込んで「操縦できるの?」って聞かれたんだからそこは「前にカリフォルニアがダウンしたからね」って答えても誰も怒らなかっただろうに。監督も同じなんだから。地上で必死で逃げ回る恐怖に怯えた一般人をヘリコプターから高みの見物するってのは監督の趣味なんですかね。

 

さて巨獣とは言いつつもアルビノのゴリラ、ジョージは心を通わせるどころか会話しちゃってるわけだから、世紀のクソ映画アイアムレなんとかの犬ばりに動物的お涙頂戴があり、自分だってちょっとは寂しい気持ちになるのかなと待ちに待ったラストシーンも、やっぱりゴリラが中指ポーズでケラケラ笑ってんの違和感しかない。昔手話するゴリラとかテレビでやってたけども。制作費は$120,000,000だそうです。

「ポーラー 狙われた暗殺者」の考察・レビュー

Netflixの映像コンテンツ事業拡大化は止まらない。というか王者だ。今や全世界で会員数は1億人を突破...1億人が約1000円を毎月払っているってことは、そりゃハリウッド顔負けのドラマや映画が量産できる。それにスポンサーが無ければ攻めに攻めた内容もやれちゃうわけだし配信されたら今すぐ見れて何度も見れる。次から次へと良質なオリジナルコンテンツが提供されワクワクが止まらない中Netflixは、またもやブチ上がりそうなプロモーションムービーをアプリを開いた途端勝手に見せてくる。「なんだこれ面白そう、見たいな」って呟く暇も無く食い気味に「いや今すぐ見れんじゃん!」って再生視聴開始したのは『ポーラー 狙われた暗殺者』

 

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1月25日配信スタートなので見て2ヶ月くらい経ってからの考察。計2.5回ほど見ました。内容はいたって簡単だしさほど考え込む必要の無い設定。

つまり、暗殺を請け負う会社の凄腕暗殺社員が定年するけど、定年後の年金が高すぎて会社が払いたく無い、だから定年する凄腕暗殺社員殺してしまえ、ていう狙われた暗殺者が主人公。設定にこれ以上の奥行きははないし、あの何かと画面に登場する女の子もレオン的な流れになりそうではあるけど、あまり可愛く無いのでどうでもよかったり。

その暗殺を請け負う会社の社長(会長だっけ?)も命令を受けた暗殺部隊もぶっ飛んでいて奇抜なキャラクターで非常に良い。彼ら彼女の紹介シーンもポップでキャッチーで楽しい。この会社にジョン・ウィックのあの組織的な深みは全くなさそうだが、キャラクターのキャッチー加減で記憶に残る。

 

しかしだ、こんな良いキャラクターがたくさん出てくるのかとニヤリと画面を傍観していたら、まぁ次から次へと狙われたほうの暗殺者に殺される殺される。つまりこの主人公強すぎる。ガンアクション、殺陣、スナイプ、肉弾戦、となんでも一流レベル。そのくせ、旧友とは警戒なく握手をし、意識を失ってしまう薬品に簡単に引っかかって監禁・拷問。ただこれは彼が鈍臭かったわけではなく、我々に彼がどれだけ堅忍不抜で肉体強固かと見せつけるための説明シーンが必要だっただけである。あげくの果てには拷問で体にめり込んだガラスの破片を自ら取り出し、それで縄を解くというプロ根性。

 

ここまで強いとハラハラドキドキのアクション映画なのに主人公が強すぎて安心して見ていられる、でもアクション映画の主人公には無敵で強くあるべき、いわゆる強すぎる主人公が見たいのに強すぎるの安心しちゃうアクションスター的ジレンマってのが発生してしまうんだけど、この映画はそのジレンマを割と大胆に回避する。っていうのも敵のキャラクターがあんだけ魅力的なのに早い段階でバンバン殺されていくから、海外ドラマのに慣れていたりすると、びっくりする。「え!?もう死んじゃうの?」って。

さすがに主人公は殺されないだろうけど、いやでもわからないぞこの映画...なんてちょっとばかりの一抹の不安は拭えずある程度緊張感が続くわけだ。続くわけだが、その緊張の糸を引きちぎるかのようなクライマックス。大勢の敵が主人公に襲い掛かり、1vs数百人って絵面、どう乗り切る!?と考える隙もなく指からレーザーを出して背後からガトリングガン2台が暴乱射。15秒ほどで敵陣全滅、エンディング。

 

あとは映画の進行と時折邪魔してたフラッシュバックにはこんな過去がありました、ってありがちな説明を終えたらドローンを使った俯瞰ショットでエンドロール!

 

仲間と家に集まってフライドチキンとビールでワイワイ鑑賞なんて楽しい映画かも。

LOOP HR 「孤独の鳥居」のレビュー・考察

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LOOP HRというバンド(ユニット)が、島村楽器主催のライブコンテストに出場した際に「孤独の鳥居」という曲を披露した。この映像は島村楽器が記録したものなのか、はたまた客席からか定かではないが、ニコニコ動画に転載されたものを数年前に初めて目にした時、それはもう、笑った。

インパクトが強すぎて、どこに突っ込めばいいかわからない。<コードの機能>をまるで無視したように展開し続け、ギアチェンジしていく車のエンジン音のようなメロディーと、奇想天外な歌詞と語呂合わせ。

これがYoutubeに転載されると250万再生だ。そのほとんどが「下手くそだから」と面白おかしく笑っているのだろう。自分も最初はそのうちの一人だった。

今年に入ると、なんと余計なアレンジは一切なくレコーディング、MVの公開という面白い動きがあった。見てみると、映像のクオリティはそこそこ高い。外国人が取るJapan filmographyといった感じのグレーディング、バックグラウンドはヤれた“和”、シュールなスローの使い方、冒頭のボロアパートと軽自動車、二人の<世間一般的>から極めて逸脱しているような雰囲気。撮影はかなりシンプルに行われているはずなのに、それと全く比例せず不明瞭な情報量が多く、非常に思考させてくるのだ。

 

『孤独の鳥居』とはアートなのか?

 

無論、これはアートである。

マルセル・デュシャンが1917年に制作した芸術作品、『泉』(いずみ、Fontaine)というものがある。最古の<現代アート>として世界的に有名なこの作品は、磁器の男性用小便器を横に倒し、"R.Mutt"という署名をしたものに「泉」というタイトルを付けただけのものである。

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つまり何の変哲もない、ただの便器でしかないから「これはアートではない」と一刀両断される。しかし、それが美術館に並ぶと「これはアートか否か?」と観客は議論する。ただの便器とどう向かい合うべきか、その意義を考察する。『泉』の持つアート性とは、人々に議論させるという一点に尽きるのだ。

 

それでは『孤独の鳥居』を全く前情報無しで、観た時に人々はどんな感想を持つか。一体彼らが何故こういったスタイルなのか、これは天然なのか狙いなのか、二人は何者でどんな関係なのか、歌詞は何と言っているのか、真面目なのかふざけているのか。誰かに見せて感想を聞きたい、そして「面白いでしょ?」と誰かと考察したい。何も無い場所に議論する意義を生み出した時点でアートだ。

 

『泉』が巻き起こしたアート性のギミックはシンプルなものだが、『孤独の鳥居』を体感した人々の反応は、Youtubeコメント欄をフィールドに繰り広げられ、それらは3層に分かれている。

まず1層目は、シンプルな酷評。ポピュラーミュージックとすれば音楽的感性からかけ離れているし当然の反応である。

2層目は、「ドラムとベースが最高」などと面白おかしく酷評する。

3層目は2層目の流れを汲んで評論家然としたスタイルで筆とる大喜利合戦。

 

YouTubeコメント欄抜粋

“人類には早すぎる動画”

“人類が理解できる範囲の遥か彼方にある。 5億年後くらいに流行ってそう”

“現代音楽よりも先”

“これが現代音楽の最先端か。 人は日々進化してると感じさせてくれるいい動画、曲に出会えた。”

“なんか、普遍的なロックポップスをやったあとにこの形に行き着いたのだとしたらもの凄く興味深い”

“この人たち見てから一生懸命な人を笑うなって言わなくなりました”

 

人に考えさせる機会を与えるものはアートなのである。そして、<どう皮肉るか>というある種の娯楽性を与えていることが彼らが彼らである理由なのだ。それを意図しているかは別として。

 

音楽的に言って美しいか?と問われると、ギターも歌も美しくは無いが、もちろん美しく聴きやすいものだけがアート(音楽)ってわけでもないのも事実だ。『孤独の鳥居』について何よりも考察すべきなのはこのメロディー(歌)だ。まるで音階が無く、エンジン音のようにうねうねと繰り返す。日本語として訳のわからない語呂合わせで聞き取れず、真面目に聞くのは非常に堪え難い。しかし、なにもこのような<メロディーを軽視する音楽>が今までに無かった訳では無い。そもそも<メロディーを軽視する音楽>とは登場する度、音楽史を変えてきた。それらはFUNK、HIP-HOP、PUNKだ。それらがどうポピュラーミュージックの歴史を作り、時代を作ったかは長くなるため割愛するが、新しいものが生まれる時には何かが壊されるという構図は繰り返されており、『孤独の鳥居』でも例外では無いはずだ。

 

 

果たして、『孤独の鳥居』は新しい何かになりうるのか?

 

 

非常に難しい問いである。FUNKもPUNKもHIP-HOPも社会問題、人種問題、貧困、マイノリティーなどあらゆるバックグラウンドと絡み合いながら発展してきた。しかし彼らに、それらしき社会的メッセージやメタファーは見られない。ただただ、わけのわからない音楽なのだ。ある意味、似たり寄ったりビジネスライクな<閉鎖的なJ-Popというフィールドを皮肉っている>という見方もあるかもしれない。

 

はるか昔、人間は完全8度,5度だけが協和音と認識していて、3度を足すと不協和音とされていた。時代と共に3度を用いたマイナー・メジャー(短調長調)が用いられ、いつのまにかセブンス(7度)が足され、テンション(9,11,13度)が足され、不協和音とされていたものが今は心地良くなっていることを見ると、人間の耳は進化しているという事実を否定できない。

70年代以降は打ち込みーグルーヴの無い音楽ーが現れたことによりポピュラーミュージックは主にリズムの再解釈で発展している。それが現在進行形であるこの現在に、リズム・メロディー・ハーモニーの音楽三大要素を崩壊させギリギリ音楽だと言える次元で放つ彼らの音楽をどう楽しむべきかが人類の課題かもしれない。

500日のサマー/彼女は小悪魔じゃない 考察・批評・レビュー

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映画が本当に好きなんです、と言っても、いつになっても手をつけてない名作映画が沢山あって、“え?観てないの?”みたいな劣等感に駆られながらもその映画を観るタイミングは出来る限りナチュラルに訪れるほうが自分にとっていい映画になるはず。観たい時にふと、観たいものを観ると、実生活とどこかリンクし易くて自分の迷いや不安にヒントをくれる。何かに強いられず出会うのがいい映画生活だと思ったりする。

 

もう10年近く前の映画になる『500日のサマー』。ジョセフ・ゴードン=レヴィットの主演する映画で観てなかったのはこの映画だけで、今になって10年前のジョセフ・ゴードン=レヴィット観ると、撫で肩で草食系な出で立ちに少し違和感があったりして。『素直になれなくて(2010/フジテレビ系)』の、俳優ー瑛太を思い出したりした。当時はすごい草食系ブームだったのも同時に思い出す。

 

さて、映画の話。

iTunesのダウンロード配信で観た。f:id:sugroup:20181119213909j:image

iTunesの映画詳細には“時間軸を錯綜する複雑な構成ながら”とあったが、時間軸が変わる前には必ず『◯◯◯日目』と表示が出るから、額縁の角度で時間軸を予測しなければいけない『裏切りのサーカス』に比べたらベリーイージー

そんなことよりもヒロインのサマーがリアルすぎるでしょう。

サマーを観て、「小悪魔だな」なんて言っている男がいたらそいつは本当に鈍感で受け身で単純な男だと思う。

女の子にとって、自分のことを好きな人がいて、だけどこっちは好きじゃない、でも生理的に受け付けないわけじゃないしLIKEではある。それなら仲良くしたいに決まってる。そんなふうに女性として自信を保たせてくれるような人を拒む理由も無い。故に、LIKEな関係が続けば続くほど永遠に平行線なLIKEな関係。

でも男はどんどん熱を上げすぎてあらゆるLIKEの要素の中にLOVEを探し続けてしまう。なんでなの?どうしてなの?の繰り返し。

気づいたら女の子はサラッと恋人が出来たりして男は絶望の淵。「でも、こんなこともあって、あんなこともあって」って誰かに相談しても「それもLIKEのうちだよ」って納得できない答えを乗り越えられない。サマーのように大胆にキスしたりセックスしたりがLIKEのうちなのかは人それぞれ違うけれど、いや、LIKEとLOVEと境界線というのは本当に複雑なんでしょう。男はそれをシンプルに考えすぎなのである。

あんなに思わせぶりしてしてきたのに叶わない。彼女は小悪魔だ。違う。彼女は仲良くしたかっただけ。自分のことを好きだとわかっている相手に恐怖心なんて無いし、嫌われることもない。「私のこと好き?」みたいな質問もできるし、大胆に触れ合ってみたりもできる。だってLIKEだから。

そんな風に自分にゾッコンの男の子から女性として思われる時間は楽しいはずだし、自信にも繋がって悪気があるわけじゃない、ただ仲良くしているだけ。

もっとゆっくり、慎重に、タイミングを見て嫌われないように接して、照れたり緊張したりするとしたら、それは本当に好きな人だから。トムが知らないサマーの顔なわけですよね。

 

こんなふうな関係、今も世の中のそこらじゅうにあるでしょう。男女問題の根本は何年経っても色褪せない。いままさに渦中にいるそんな人が『500日のサマー』を見てみたら、あの子が好きそうな髪型も服装も少しだけ自分らしく戻してみて、トムがオータムに出会ったように、前に進めるのでは?

 

っておもいました。