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映画『#生きている』酷評する前に見方を変えよう。批評・解説・レビュー

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『#生きている』(#살아있다,2020)は韓国で6/24に公開され、その後Netflixを介して全世界に配信された。

 

ゾンビスリラーのこの映画の特徴は、非常に現代的な若者が主人公であることだ。ゾンビ映画の元祖、ジョージ・A・ロメロ監督(1940-2017)は自らが生み出したゾンビというキャラクターに権利を求めなかった。以降、ゾンビはあるゆる人の手で再解釈、再構築、アップデート、利用されながら映画表現の幅を広げてきた。

ジョージ・A・ロメロが言ったように、ゾンビ映画はゾンビそのものの解決に意味はなく、ゾンビが蔓延る世界の中で新たに構築される人間関係・組織、その中で引き起こされる人間同士の争いや駆け引き、またはゾンビへの価値観など、社会・宗教・哲学などあらゆる社会問題のメタファーとして描く。

 

『#生きている』の主人公、オ・ジュヌは団地で暮らす若者で、水冷式のゲーミングPCでオンラインゲームで遊び、ドローンを持っていたりと非常に現代的な若者である。

水・武器・食糧が無い状況だが、そこには強い緊迫感は無く、ただ家の中で何かが起きるのを待っているだけである。

孤独が襲い、突発的に自殺をしようとすると、キム・ユビンという可愛い女性が向かいの棟に姿を表す。この女性が非常に可愛い。

 

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ゾンビ映画では、ショッピングセンターで偶然居合わせた他人同士との人間関係が社会の縮図として描かれたり、ウォーキング・デッドのように西部開拓時代からメタファーとして描く作品もあり、新感染 ファイナル・エクスプレス』では悪役として非常時の人間の醜さが徹底して描かれたりと、あらゆるメッセージ性を内包してきている。

この『#生きている』では一人の若者が、非日常に陥った時、いかにしてヒーローになり得るか?という現代の若者の心の空洞を埋めるような映画だ。

2010年代は、"個性"というものへの価値観が大きく変わっている。人は学校や会社の中で、いかに人と違い、個性を見出し、自分らしさを求めるかを追求してきた。しかし、インターネットの発展・情報化が進むと、それまで狭い世界で認識してきた「自分らしさ」とはいくらでも世に溢れていたと気づく。どれだけ個性を求めても、インターネット社会からは、"そのような人"として一括りにされるだけである。

劇中でも、生き延びて助けを求める若者はSNSに溢れている。

 

この映画のゾンビは特徴が無い。ウォーキング・デッドに習ったようなメイクと戦い方、『28日後』アイアムアヒーロー』のように生前(発症前)の記憶が残っているということ、ワールド・ウォーZのように走るが、どの要素も掻い摘んだ程度で、物語に特徴や推進力を与えるようなものでは無い。むしろ、そういった要素はご都合主義的に利用されるだけである。走る割には大群の中でも飛びかかってこないし、ゾンビの"個性"発揮したのは消防士だけである。

 

そして、彼らにとってのフィールドはこの団地の一画だけである。非常に狭い世界での出来事だ。広大な世界観や、そとの世界への希望や興味は排除され、「生き延びること」それだけが理由だ。つまり、ジョージ・A・ロメロ監督以降、数え切れないほどのゾンビ映画は生まれ、あらゆる角度からゾンビというキャラクターが利用され社会風刺してきた今日に、映画史にとって重要な個性を持ったゾンビ映画を創ることを最初から目指していない。普通の若者が小さな団地だけで奮闘する。容姿の整った男女が出会うが、恋に発展もしない。ゾンビが蔓延る世界の中とはいえ、映画界の出来事としては日常的で普通なのである。

 

若い世代が普通であることを認めている現代に、どんな非日常的な普通があるか?

そんな、普通の映画であった。でも、この普通さが時代なのである。研究者、政府関係者、専門家、警察官など、物事の中心にいない一般人が主人公であり、精神的にも身体的にも頭脳的にも普通である。ゾンビ映画としても、ピックアップできるような新鮮さもない。携帯やインターネットが使えないことも、世界が終末化に向かっているならば普通のことである。コアな映画ファンは、物足りなさでいっぱいになるだろう。ゾンビ映画とは、もっと絶望的で、醜くて、無情な世界だと。しかし、そんなものをこの映画は求めていない。

世に出た無数のゾンビ映画の中でも、多大な影響を残してきた作品がある。そういった映画が創ってきた土台を借りて、ありふれたゾンビ映画を撮っているのだ。映画としての前衛的な個性は求めず、若い世代が、自分と重ね合わせることが簡単なキャラクターとバックグラウンドで、"今"のゾンビ映画、それもある一画の小さな出来事をジブンゴトとして描いた作品である。

 

 

 

映画『もう終わりにしよう。』がわけわからなかった人へ。解説・批評・レビュー

 

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チャーリー・カウフマン監督による、Netflixオリジナル『もう終わりにしよう。』(I'm Thinking of Ending Things)。作家イアン・リードが、2016年に発表した同名小説の映画化である。

 

この映画は、孤独な老人が、猛吹雪の車の中で凍死していく直前、最後に見る夢が本編となっている。

 

 

 

基本的に映画の構成は、「設定」「対立」「解決」の3幕構成で描かれる。この映画の場合、まず農場まで向かう行きのドライブが第一幕であり、設定が説明される。主人公は誰か、名前は、仕事、関係、状況は...。関係を終わりにしたい女性が主人公で、良い人だけど欠点がある男と、両親に会いにいく。単純な設定で、警戒心を抱かない。

 

しかし、この一幕で説明されたことを何の疑問も無く飲み込んでいればいるほど、第二幕で起きることが理解できなくなる。でもこれは、映画の読解力を試されているわけではなく、2時間を経て明らかになった、あるいは観賞後に解説などを調べてたどり着いた時に、この映画の本質が自分にとって価値あるものだったかを、感じ取るか、取れなかったかがミソである。

何の予備知識を持たずに観賞すると、確実にパニックになる。最後の最後まで理解ができないシークエンスの連続に嫌気がさし、のちに『そういうことだったのね』と理解しても、本編を見ている時間が楽しくなければ面白く無いという感想も正解だし、『なるほど、もう一度見よう』と深みに魅せられるのも人それぞれだ。

 

大体、理解に苦しむ展開に遭遇したときに、画面の中で起きていることの本質を見抜くにはパターンがある。『怪奇』『狂気』『空想』である。

シーンごとに年齢が変わる登場人物、複数の名前で呼ばれること、間で挟まれる学校の清掃員はどうリンクするのか、職業が言うたびに変わり、不可解な会話が連続する、これらはいったい怪奇現象か?それとも妄想か?

 

最初に彼女はルーシーと呼ばれるため、この女性には決まった名前が無いが"ルーシー"と呼称する。

 

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まず最初のヒントはルーシーのナレーションについて、ジェイクが「何か言った?」と反応することだ。そして時折、彼女はカメラ目線で話すこと。この時点では、こういう表現方法をとる映画なのか、とも取れるが、気に留めておくべきだ。なぜなら『怪奇』的なスリラーでも『狂気』的なスリラーでも、映画の壁を超えた反応(映画の外への意識)はよっぽど特殊な映画でない限り起こらない。となれば、映画の外では無く、この映画事態が『想像』的な何かに内包されている可能性があるからだ。

 

母親と父親、そして犬のジミーに会うと第二幕に移行する。ここから一気に不可解な展開になる。

映画の第二幕は基本的に対立・葛藤・困難が描かれる。この場合、表面上は、ルーシーが不可解な空間から逃れ、家に帰ることが目的であり、そこに対立・葛藤・困難が生まれる。しかし、非常に理解し難い出来事が連続する。地下室を嫌うジェイクの態度に始まり、様子のおかしい母親と父親は、何度も年齢が変わり、状況も変わる。

 

夕食

夕食のシーンでは異常なほど、ジェイクの人格が肯定されていく。ジェイクは常に他の子供たちよりも賢く、友情や人間関係に悩む時間がなかったし、読書やアートを通じて静かに育ってきており、自分の部屋で一人で人生を過ごし、フィクション、詩、哲学などの素晴らしい作品に囲まれていた、と。

 

ここにきて、一幕で行われた会話のほとんどがジェイクが知っているものだけを自慢するためにあり、彼女が何か尋ねれば、常にジェイクが論理的に説明する機会を与えられていたことに気づく。映画も、詩も、本の話も。

 

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学校の用務員という存在が度々割り込み、この二人の帰省旅行とどうリンクするのかについて、ジェイクの子供の頃の寝室と、地下室に入ることで決定的に明らかになっていく。

"子供の頃の寝室"には犬のジミーの骨壺がある。つまり、ジミーは存在しないということがわかる。

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となると、母親と父親の存在の有無について怪しくなる。すでにここにはいない人たちなのか、そもそもこの空間事態が無い物なのか。この"子供の頃の部屋"は、さっきまで子供だったジェイクがそこにいたかのような状態である。そもそも、ドアに"子供の頃の部屋"と張り紙がしてある時点で現在存在するものではないことが伺える。一つの核心が見える。ジェイクが子供だった頃と、年齢の違う複数の母親と父親、これらはどう考えてもジェイクの中にしか無い物だ。受身である彼女の想像からは生まれない存在であることから、これはジェイクの想像か、夢か、妄想であるとわかる。 

 

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そして開かれたままの本は、"Rotten Perfect Mouth" 。

これはカナダ・トロントの詩人Eva H. D.の本であるが、彼女が車の中で"骨の犬"としてよんだ詩は、この本に書かれていたものだった。ほとんどが、ジェイクの頭の中にあることで起きている。

 

 

地下室には、用務員のユニフォームが洗濯されていて、彼女が書いていたはずだった絵が置かれている。ここで話の縦の線が繋がる。ジェイク=用務員であるが、ジェイクすら、年老いた用務員の想像・理想・妄想の自分である。

この地下室には用務員の、最も内層的,深層心理的な部分の象徴であることがわかる。ドアが爪で引っ掻かれているのは、この用務員が妄想の中で生きている人生に、抵抗しているということなのかもしれない。

家、両親、犬、彼女、全てが存在しない。我々が見ているのは用務員の妄想、あるいは夢である。

そしてこの用務員は、この妄想からわかるように、誰にも認められず、暗い世界で生きてきた人生だったと言うこと。人と繋がることをせず、友情や恋も経験せずに、年を取り、妄想の中に生きている。登場人物全てが彼を肯定するために存在し、最終的には全員が彼にむけて拍手を送ることを、自ら妄想する。なんとも滑稽である。

 

非常に悲しい人生の中に、少ない経験から構成された自己肯定のための妄想。

そして、用務員はジェイクを探す彼女にさよならをしてバレエのシーンになる。二人のダンサーは同じ服を来た別人である。彼らは本人たちよりもスタイルがよく、劇中に何度もキーワードとして登場したミュージカル、オクラホマ!』(Oklahoma!)の夢のバレエのシーンのサンプリングだろう。二人はハッピーエンドを感じさせるような踊りのあと、愛を誓う。次に清掃員と同じ格好をした男が二人を引き裂こうとし、男は刺されてしまう。これを、スタイルの良い自分の分身と彼女への嫉妬と見るか、清掃員自身が見続けてきた幻想を終わりにさせようとしたか、どちらも含まれていると思う。

この幻想が崩れると、掃除をし、暗い学校の中をとぼとぼと歩き、服を着替える現実が映し出される。

車の中に戻ると、精神的に衰弱している用務員本人である。服を脱ぎ、アニメーションのウジの豚に誘われるように車の外へ出ていく。

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ウジの沸いた豚は、彼が子供の頃に経験した死の象徴である。その豚に連れて行かれる、裸の自分。死へと向かう、全てを終わらせようとしていること(自殺)を意味する。これも象徴的に描かれており、実際は車の中で自殺のために服を脱ぎ、神経衰弱に陥っているのだろう。

 

最後の式典のようなものは、自分を不当な扱いにしてきた全ての人たちが自分に拍手を送ることを余儀なくされる人生式典である。しかし、思えばこれは映画ビューティフル・マインド』(A Beautiful Mind)のラストそのままである。

彼の子供の頃の部屋にビューティフルマインドのDVDが置いてあったのに気づいた人も多いのではないか。DVDレンタル世代は、棚に陳列された大量の背表紙だけで映画を探してきたはずだから、この細い背面だけで何の映画かパッとわかるはずだ。

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この妄想の中には、清掃員が見た、聴いた、読んだ、映画や本の内容が、当然ながら非常に強く出ることから、彼の深層心理として革新的な手がかりとなる。

この映画は統合失調症で天才数学者のジョンが葛藤や困難を乗り越え、最後にノーベル賞を受賞するという話だ。清掃員本人が、自分の不幸さ(それは自業自得かもしれないが)と重ね合わせ最後に拍手喝采を浴びる理想、あるいは夢ということだろう。

 

 

 

そして最後のこのショットは、動くことなく雪に覆われた彼の車である。

彼は映画の最初から最後までこの車を出ていない。この車の中で最後の夢(あるいは妄想)を見て、凍死していく。

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神経を集中させ読み解きながら見れば、 この映画の本質に少なからず共感や秀逸さも感じ取れると思う。しかし表面的に起きていることは退屈なので、こういった散りばめられたパズルの辻褄を合わせながら見るような映画が不得意な人はかなり疲労感があるかもしれない。

ただ、見終わったあとの余韻は映画の醍醐味であり、もしつまらない映画だったと、あなたが思い、そして偶然にもこの記事にたどり着き、少しこの映画への見方が少しでも変わったならそれはこの映画の余韻である。

ちょっと思い返して見てほしい。こんな空想の夢物語や妄想をせずに、ただ現実だけを見て生きている人はどれくらいいるだろう。おそらく、ほとんどいない。我々誰もが理想を描いた妄想を度々、時々、想像しながら生きているはずだ。いつまでも現実化されない妄想を膨らませながら眠りに落ち、ただ単調な毎日を繰り返す。

自分が絶対に、"年老いた用務員"にならない確信など持てるだろうか。

 

new balance MR2002が復刻か?

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"WTAPS®"や"JJJJOUND"とのダブルネームも話題を呼び、new balanceのフラッグシップラインが再び大きな注目を集めている。2012年頃の盛り上がりに似たような感覚もありながら、更にnew balanceのMADE IN USA,Englandがハイブランド化していく気配がムンムンである。

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関係者・インフルエンサーに提供されInstagramを中心にその姿が目撃されておりステマ感が強まるMR2002。復刻するようだが、どうやらオリジナルではない。

 

2010年にデビューしたMR2002はお披露目されるや否や、おじさんのウォーキングシューズのような見てくれには賛否あった。

しかしMADE IN USAかつ、『スーパーチーム33』というトップクラフトマンの手で生産され、チャコールヌバックレザー、当時で35,700円という驚きの高価格、なにより異次元すぎるはき心地は次第にストリートを魅了し、みんなが欲しい!と思った時には既に品薄になっていた。

NIKEと同様、自社プロダクトのアーカイヴの育成に長けたnew balanceはちょうど10年という区切りにMR2002チョイス、M993やM990の上位互換となる4万円弱のスニーカーが売れればさらにUSAプロダクトのブランディングにも拍車がかかる。

 

 

今回話題になっているMR2002は"MR2002R"というスタイルネームで、ソールユニットが2011年発売のML860V2のものとなっている。これは、ストリート仕様へのアップデートなのかデチューンなのか捉え方に迷うが、海外では価格は1万6000円ほどと記載されている。

 

このMR2002Rがインラインなのか限定となるのかは不明だが、果たしてML860V2とMR2002のハイブリッドとは、どこまで本気なのだろうか?

完全に想像の話をすれば、MR2002Rが比較的安価なマスアイテム役で後に控えているかもしれないオリジナル復刻のプレミア化をブーストさせるためという楽しい展開も期待したい。

2022.4.26 以下の記事にて追記

sugroup.hatenablog.com

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PATRICKブランドイメージ戦略

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PATRICKの歴史は1892年に始まり、128年の老舗ブランドだ。日本での販売が始まったのは1978年だが、この時のPATRICKの戦略は当時の日本の1970年代のシーンとは一線を画すものだった。

 

1978年、この当時はアメリカから『ジョギング』という言葉が輸入され日本でもジョギングブームが起こっていた。

それまでスポーツ選手でない一般人が、街をランニングするということは、あまり無かったが、健康的な側面からのアプローチで一気に人気が加速した。言葉の妙というか、ただ走ることに変わりはないのに、ジョギングという言葉を産んだアメリカ人はネーミングセンスが良い。ライフスタイル提案の元祖とも言えるかもしれない。スポーツブランドにとってはジョギング需要で新たな市場が開拓されたタイミングでもあり、今現在街に並ぶ数多のランニングシューズ・クラシックランスタイルの元祖とも言える名作が数多く生まれた。

その70年代後半には、PUMA/イージーライダー、オニツカ・タイガー/エンデューロアディダス/TRX、NIKE/ワッフルトレーナーやナイロンコルテッツなどが人気を博していた。

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当時のPOPEYEの13号は、ジョギング特集。カリフォルニアでランニングする一般人をスナップしたり、ジョギングシューズ解説などが特集されている。

 

そんな時代にPATRICKがイメージ戦略としたのは、ファッションアイテムとしてのアピールである。おそらく、1970年代の日本では例の無い戦略。そのキャッチフレーズが『ー足元にもメイクする』。この時の、ハイファッションの世界に入り込んでいく最初のブランドとしての立ち位置が、現PATRICKのハイセンスでラグジュアリーなスニーカーブランドイメージに繋がっているだろう。

 

MADE IN FRANCEこそ今は無きものの、現在のMADE IN JAPANの創りは非常に精巧である。スポーツブランドのスニーカーは本当に創りが雑なものが珍しくない。ステッチのずれ、接着剤のはみ出しなど当たり前であり、見慣れてしまうくらいだが、PATRICKは安心してじっくりと観察できる。作りの良さもありながら、素材の選定、カラーリングと、時代には全く媚びないスタイル、素材は姫路の50〜60社のタンナーが切磋琢磨し提供する。

老舗ブランドの質実剛健なモノ、もやはトラディショナルと言っても過言ではない。

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東日本大震災以降は、長く楽に歩ける靴の重要が増え、ライトウォーキングやビジネススタイル+スニーカーソールなど、各社あらゆるアイテムを打ち出してきた。年々フォーマルスタイルもカジュアル志向へと移り変わりながら、コロナウイルスによって社会活動の様式は劇的なスピードで変化する。そもそも会う必要が無くなってしまえば、私服に近いスタイルへと移行するビジネスマンは増加し、靴は何を履くべきかというテーマが浮かび上がる。

 

もはやウォーキングシューズや革靴っぽく見えるスニーカー、メッシュだけど真っ黒で目立たない...そんな中途半端に安牌を探そうとするのも終わり、モノのいいスニーカーでファッションを楽しめばいい。

 

いいスニーカーと言うならばnew balanceのMADE IN USA、M996やM1400もあるが、やはりスポーツブランドとしてのイメージが強すぎる。new balanceにジャケット×スラックスはハズシで履くからかっこいい。

adidasのスタンスミスもジャケパンスタイルに合うことは合うが、老若男女ギネスにも載るほど売れている定番スニーカーは果たしてビジネスカジュアルとしてどうなのか。スーツにノースフェイスのバックパックを背負ってしまうようなイメージに近い。

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ウォルシュもMADE IN ENGLANDのクラフトマンシップに溢れた一足で最高にオシャレだが、仕事に使うとして定期的な慎重を見越すなら、比較的手の出しやすいプライスのPATRICKなら、ヨーロッパスタイルでスタイリッシュなラスト、そしてMADE IN JAPANの確かな作り、やはりフォーマルスタイルにキマる。

カラーや素材もバリエーションが効いて、流通も安定していて、定番のレザーモデルならオフィシャルでソール交換も出来る希少なメーカーになる。

日本で展開されて以来40年以上、一貫して時代や、いっときのトレンドに流されないデザインとラインナップは、ブランドへの信頼感と直結する。

 

 

『マリッジ・ストーリー』考察・解説・レビュー

ノア・パームバック監督によるNetflixオリジナル映画のマリッジ・ストーリー。

主演はアダム・ドライヴァースカーレット・ヨハンソンアダム・ドライヴァースターウォーズシリーズで、日本でも2015年以降一気に知名度があがったが、個人的にはローガンラッキーへの出演でグッと記憶に残った。キアヌのような顔立ちなのに、それほど整ってなく、常にどこか裏腹な感情を持ち合わせていそうな表情が魅力的だ。

スカーレット・ヨハンソンも、『LUCY/ルーシー』(Lucy)やブラック・ウィドウ役で忘れ去られていた超演技派な一面が今作では爆発し、今作『マリッジ・ストーリー』(Marriage Story)はスカヨハの女優としての新たな幕が上がったような気もする。

 

『マリッジ・ストーリー』(Marriage Story)はパームバック監督の、自身の離婚経験が元にされた映画である。故に、非常に奥行きのある男女関係の終わりが描かれていて、トピックにしたいシーンも数えきれない。

 

 

結婚をした全ての人たちが、"決してしない"と誓ったことを正当化するには、難しい。

"男女関係"と"家族"というものを切り離し、理性的に、そしてロジカルに答えを導き出そうとするも、男女関係の上に成り立ち積み上げてきた、家族だった事実は複雑に絡み合い、例え本当に守るべきもの(子供)がお互いに分かっていても正解だと言えるような答えは見つからないし、譲歩も妥協もできない。限界を超えながらぶつかり合ってみても、幸せだった頃の残り火に風を送るようなことをしてみても、全てが裏目に出てしまう。

 

ニコールとチャーリーはどちらも、間違いを犯す欠陥のあるキャラクターでありながら、お互いに強い競争力を持ち、そしてお互いに勝ちたいと望む。でもそれはお互いに息子のことを一番に思っているからである。

結局我々は、どちらかに感情移入するのでなく、二人のことを応援してしまう、そんな不完全な二人。お互いが引き起こした痛みであるのにもかかわらず、彼ら自身の幸せを願いながらその行先を見守る。

 

一番の見どころである、長回しの争いのシーン。徐々に沸沸とこみ上げる感情を、お互いに刺激し合いながら、言ってはならない言葉まで振り回し、戦う。そしてすすり泣き、抱きしめ、謝る。この複雑さの表現は、スカーレット・ヨハンソンアダム・ドライヴァーの真の演技力が輝いた瞬間だった。

 

映画がエンディングへと向かう頃、ニコールと新しいパートナーと、チャーリーとヘンリーが同じ空間に登場する。

紆余曲折しながらも、戦いの末が穏やかに描かれ、時の流れと、争った意味を見つけようとする二人の姿がある。

二人が変わらず、第一に大切にしたかったヘンリーは、一つの証明をする。

読み上げて、とチャーリーに求めるのは、冒頭のそれだった。

リストで表現された愛情が、今もなお生き残る愛の現実を明らかにしていく。

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new balanceの時代と世代、何を履くか。

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数あるスポーツシューズブランドの中でも、今もなお母国生産を続けるブランドは少なく、new balance1906年にボストンでスタートして以来MADE IN USAのラインナップを数多く生産し続けている希少なスポーツブランドだ。

スニーカーも、機械で作る工程が増えたとは言え、まだまだ手作業の工程は多い。自分が履く靴は、どんな人の手で作られたものがいいか?

 

そんな自問自答を繰り返しながら、買い続けてきたmade in usaのnew balanceについてを自分なりの目線で話したい。

 

んな人か、によって変わる名品版

1000番台、900番台、500番台が主にUSAメイドで生産されているが、日本で特に知名度が高いのはM1300,M1400,M996だと思う。2011年頃にアジア生産版の996が発売されると知名度は一気に増した。その後のベストセラーMRL996や、現行のCM996の浸透度も考えれば、996というワードは一番認知度が高いと思う。ただし、MADE IN USAのM996の存在を認知している人はある程度スニーカーやファッションに感度の高い人たちに絞られることは間違いない。

 

 人気品番は世代やファッションへの関心度でも大きく変わるが、例えばヴィンテージウェアやラグジュアリーブランドに造詣が深ければM993やM990 V3をピックアップするだろつし、プレミア好きな人はM1300に一番価値を感じているかもしれない。はたまた、追い求めすぎてM2040を忘れられない人もいるだろうし、40代〜50代だとM576のコードバンが真っ先に浮かぶ人も多いと思う。

ここ最近ではアジア生産でも、トレイル系への注目も高まっておりML850、ML801などの復刻と再評価、"the Apartment"のML850GTXの盛り上がりも記憶に新しい。

 

NEW CITY BOYとM1400

ここ10年での日本のnew balanceブームの中でも特に盛り上がっていたのは2011~2012年頃だと実感している。約10年前のそれが、現在につながっているのは言うまでもないから外せない話だ。

その頃はnew city boyブームで、老舗ブランドのアイテムに、丸メガネ、白ソックス、トラッドを着崩すようなスタイルの人たちが溢れた。

この2012年に雑誌のPOPEYEが大きなリニューアルを決行し、ラグジュアリースタイルだったそれまでから、シティー・ボーイを提唱し始めたことがキッカケだったと思う。

ファッションアイテムに"質実剛健"という言葉が多く使われるようになったのもこの頃からのような気もするが、質実剛健な洋服...老舗ブランドの、モノも値段も格別なものを、ハタチそこそこのボーイが惜しみなく買っていく。靴だったら若い子が10万超えのオールデンを履いているのも見慣れてしまったくらいだし、new balanceのUSAなんて恰好の的だったわけだ。

 

それで、一番売れていたのがM1400

あれは1985年のM1300の後、技術上量産不可で企画倒れしたモデルを、1994年に日本のファンの要望でまず日本での発売に至ったという経緯がある。流れとしてはM1300の後、1989年にM1500が発売されているが、ハイテクよりなデザインになりNマークが小さくなったことと、ラストが細身だったことで日本のファンからは不評だった。とはいえM1500はアメリカでもデザイン面で不評だったようで、最終的にはワゴンで投げ売りされていたらしい。伝説のM1300の後継品番に、ふさわしいモデルとして日本人に合うSL-2ラストのゆったりした作りのM1400はぴったりの存在で、1994年に復活販売された、という流れだ。

この当時に発売を望んでいた世代は2012年頃で言うと、40代から50代になるだろうから、トレンドを動かす力のある世代になっていると考えると、M1400の発売から約20年後にシティーボーイのマストアイテムとして脚光を浴びているのも辻褄が合うような気がする。

Beginが2012年の10月号で『オールデンVSニューバランス』なんて企画をやってたのも印象的。もちろん表紙はM1400

 

 

どこか1400への手放しの価値観が蔓延していたような気がする。みんながみんな、1400を試着するなり悩みを持ち帰りもせず買っていく。

ただのステータスみたいな言い方になってしまっているが、履き心地の素晴らしさは格別で、当時初めてゲットした時には先輩に『まるで毛布に包まれているような足あたりだ』とラルフローレンになりきって感想を伝えた。

 

ャケット×スラックス×new balance

次に話したいのは、前項のシティーボーイスタイル全盛の時代にバッチリハマったアイテム。

new balance USAの大ブームの2012年に発売した名作、M990 V3だ。

少し前の2010年に、M1300の5回目の完全復刻が発売され、すでに盛り上がりを見せていたnew balanceだが、シティーボーイスタイルでM1400が人気を博し、さらにブーストをかけるように、名作M993のアップデートとしてM990 V3は発売された。

2020年現在、"M990"とナンバリングされるモデルが5つあるが、2020年現行のM990 V5のデザインのベースは、このV3から始まっている。

2006年のM992まではヒールクッション部分の厚さ・デザインにとにかくボリュームがあり、スタイリッシュとは言えなかった。視覚的ハイテク感が頭打ちになった時期だと考える。

 

M993になると、素材の進化により衝撃吸収だけでなく衝撃を分散させることが可能になり、ミッドソールの厚みを押さえつつも、クッショニング性能は上がり、かつ軽量になった。

当時はランニング界でもソールの薄さとは大きなテーマになっていて、2009年に4mmオフセットのサッカニー KINVARAがデビューしたりと、ソールは厚ければいいわけでないという試行錯誤が一番行われていた時期だ。2010年代に入ると"ナチュラルラン"や"ベアフットトレーニング"などがブームになったのも印象的だった。new balanceでは996のデザインにベアフットラインのミニマスをハイブリッドしたML72なんてモデルもラインナップされていた。

 

アッパーデザインはM992ですでに完成されたが、さらにミッドソールは厚すぎず薄すぎず、ミリタリーラストのようなスタイル、発色の良いスウェードで、2008年発売のM993はnew balanceのフラッグシップラインの分岐点になったモデルだと言える。

 

そして2012発売のM990 V3は、M993の正統なアップデートとしてデビューした。

2000年以降になり900番代シリーズも、本格的にハイテクランニングシューズの枠を飛び出していく。それはラグジュアリースニーカー。それも最新の技術を盛り込んだ、車に例えればフラッグシップセダン、グランドツーリングという確固たる地位である。

このM990 V3から現行のV5まで大きなアップデートはされておらず、いかにV3が完成された"スニーカー"だったか、改めて実感する。

当時これを記念してnew balanceで初めて"ブランドブック"が発売され、徹底してM990 V3がプロモーションされていた。ちなみにブランドブックの価格は税込み"990円"だった。

 

M993からの900番代が普遍的と言える一つの大きな存在位置は、他のブランドのスニーカーが持たないフォーマルの中に、"はずし"で落とし込めるスニーカーだということ。2008年発売のM993からユナイテッドアローズの栗野宏文さんに代表されるようにジャケット×スラックス×new balanceというスタイルが定着し始め、2012年頃のトラッドスタイルを着崩すシティーボーイスタイルにも大共鳴し、真っ只中にデビューしたM990 V3は、この時代のアイコンとなった。

 

現在のM993,M992の復刻がやたらプレ値がつくのもこの頃に根付いた普遍的なデザインの使いやすさと機能美を覚えているファンが多いからだろう。

M990 V3が復刻される日は来るのだろうか。正直、M15009やM9919がリリースされた時は、990 V3のソールが使えることに、ヤキモキした。いやM990 V3作れるんじゃないの?って。

 

 

ちなみに当時のプロパー価格は¥23,100だった。今だったら即買いどころの騒ぎじゃない。M996なんて¥19,000の消費税5%だった...

 

 

M995という脇役

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手に入れてから3年目のM995という脇役

2018年頃、M996が一時生産終了し、代わりにM995が復刻し様々なショップに姿を表した。M995というナンバリングに馴染みが無い人も多いと思うが、なんせ初復刻である。時代のせいか、さほど話題にはならず、未だにひっそりとセール価格で出回っていたりする。(2020.8現在)

 

M996登場の2年前、1986年にデビューしたこのモデルは、そのM996の存在感に埋もれてしまっているが、ファンからすると結構グッとくるポイントが多い。

M996と言えばSL-1というラストが採用されたことにより、細身かつスタイリッシュな"形の良さ"で900番台の優秀さを決定づけたことが大きい。

対してM995はM1400に近いが横から見ると爪先のふっくらとした印象はM576っぽく、少しボリューミーだ。M996よりも、ここ何年かのパンツもトップスも大きめのサイズ感な時代にマッチするのかな、と個人的には思う。

かかとのライニング、内側の生地が革なのもいい。new balanceはソールが減りにくいしアッパーも持ちがいい。言っちゃえばオフィシャルでソール交換もできる。

なのにかかと部分のライニングがダメになると、どうも履けても気分が上がらない。

革なのでかかとがスルスルと動きやすいが、耐久性を考えるとありがたいポイントだ。

アウトソールはビブラム、カラーもMADE IN USAのグレイと識別できる色感、そしてミッドソールはC-CAP(圧縮版EVA・耐久性◎)というファン心くすぐる、すごく気に入ったモデルで、900番台でもうM996を買うことは無いな...と思わせた一足だった。

2018年と言えばNIKE,adidasなどのプレミアアイテム大時代なので、ひっそりと...という印象があるモデルだが、見逃すのはもったいないモデルM995。

 

さて、結局3つのモデルを語るだけでも5000文字に到達しそうで、キリがなくなるので次のことは、いつかまた書くとして、本稿は終わりとする。

ボストンという町、MADE IN USA議論、タンナーの話、あらゆる角度からもっと追求した記事を書くときに、もう何個かモデルを紹介したい。

 

 

 

【映画】あと1センチの恋をめっちゃ適当に考察する。

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『いつでも好きって言えたのに...』

 

 

もはやあんな美女の幼馴染がいるだけで羨ましい。はよ好きって言えや、いつまですれ違っておるねん、あと1センチじゃろが!と突っ込みながらも、夢中で見ているのはなんでだ。

 

外から見ていればもどかしいが、本人たちはすれ違っている感覚すらないんだろう。

誰しも『あんたのことさー、あん時好きだったんだよね』とか『お前の事、前に好きだった』みたいなこと言われた経験があると思う。無い人は知らない。自分を恨め。

結局みんな、すれ違いながら生きているし、後々にも、すれ違っていたことにすら気づけたなら、それでもラッキーってことで。

 

それにしても、すれ違いあるあるみたいな映画なので、過去に自分が出会ってきた魅力的な人たちがチラホラと脳裏をよぎる。

あの時、あの人の、あの言葉の意味に気づいていれば違ったのか?

とにかく実体験と重なり、記憶が蘇る。無い人は自分を恨め。

 

タイミングとは、ほぼ偶然が作り出している。理屈で計算や準備では、あと1センチは絶対に埋まらない。それなら、偶然が連鎖するキッカケさえ自分で起こしてしまえばいい。答えは一つだ。言いまくれ。本人だろうが、周りの人だろうが、SNSだろうが、とにかく言うんだ、そこから何かは起きる。

それすら出来ないなら、また後悔することになる。

 

『いつでも好きって言えたのに...』