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モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

何故料理が下手かを考察した。

 

答えから先に申し上げよう。

技術や知識に伴わないアドリブだ。

 

私は料理の技術、知識が全くない。不条理なのが、そんな人間でも料理から逃れることはできない。何故なら食べないと死んでしまうからだ。毎日毎日、総菜や弁当などの出来合いのもので間に合わせるわけにもいかないだろう。コスト面、健康にも及ぶ問題は多い。

 

 

料理弱者の私が偉そうに料理を語っていくが、怒らないでほしい。

 

まず料理は、切ったり煮たり焼いたりするだけではなく、ありとあらゆる選択によって完成する。つまりだ、『ご飯、何にしよう...』を考え始めた時点からすでに料理は始まっているのだ。

 

深刻な料理弱者はメニューを決めることから失敗をする。まず料理弱者は、その食べたい物が出来上がるまでのプロセスが漠然としているのだ。その食材が何故その料理になるか、理解していない。料理弱者が想像しているコストや所要時間と、実際にかかるコストと所要時間とで大きな差異がでる。想像したコストとその日に使える時間では到底不可能な料理でさえ、漠然と『出来るだろう』と誤った判断をしてしまうのだ。

 

そしてスーパーにたどり着くと、メニューのための食材選びを始める。ここで行われるのが料理弱者の一番危険なアドリブだ。そもそも、想定した予算や時間に見合わない料理をしようとしているため、食材選びの際に突然『NO』を突きつけられるのだ。値段が高い、時間がかかりそう、などのリアルだ。これに対し、知識や技術が無いにも関わらず方向転換をアドリブでしてしまう。

これを予測できていれば、その料理は選ばなかったし、突然の方向転換もしなかった。メニュー選びから失敗しているのだ。

 

ここで実際に私が行った料理を例に説明していこう。

この日私は、『ハンバーガー』が食べたかった。近所のマクドナルドに行けばいい。しかし、お腹いっぱいに食べたかった。マクドナルドでお腹いっぱい食べるには1000円は必要だ。そこで間違った閃きを起こしてしまった。

 

『自分で作ればいい。』

 

1000円分食材を買ったらマックで1000円分買うよりもっとたくさん食べれると閃いた。ハンバーガーなんて重ねるだけだろう。この甘えた過信と傲りだ。これが料理弱者の典型的な思考プロセスなのだ。

もし技術や知識があったならば、バンズは?パティは?味付けは?量は?野菜は?と、ありとあらゆる選択を頭の中で迅速に行うはずだ。そしてハンバーガーを断念すること、あるいは的確なコストと所要時間を割り出しスーパーへ向かうだろう。

 

料理弱者の私は、『量いっぱい、重ねるだけ』、たったこれだけでスーパーに向かってしまうのだ。

 

スーパーで現実に直面する。予想していなかった壁に直面するのだ。想像していたものが売ってない、あるいは値段が高い。そして、代用や変更を行わざるを得なくなる。何度も申し上げるように、知識や技術のない料理弱者にとって一番危険なアドリブである。

 

私の場合、ハンバーガーらしいバンズが売っていなかった。170円のイングリッシュマフィンにしておけばよかったが、ここで『食パン』を選択したのだ。理由は100円で買えて、目に余る量があるからだ。パン一斤を全てハンバーガー化しようと考えた。ハンバーガーらしいバンズが無かったハプニングを、量で元を取ろうとしたり、コストを度外視して良いものを選んだりするのも弱者特有の思考性だ。

アドリブで、ハンバーガーの要素で最も影響力の強いバンズを食パンにしてしまった。

 

次に、パティだ。ここで気づくのだ。『パティの作り方がわからない』

 

ハンバーグを焼けばいいのかと精肉コーナーに向かうが、ハンバーグを1から作るなんて想定の所要時間からは到底許容できない範囲を超える。焼くだけハンバーグもあったが、食パンに対して見合う量にするには6個は必要だ。一人分なのにハンバーグを6個焼くことに、凄まじい違和感を覚えた。それにハンバーグだけで1000円を超える。念のため言っておくが、パン一斤を使い切ることが大前提となっている。

 

代用するしかない、これが2回目のアドリブだ。ハンバーガーにある肉モノはベーコンしか思い浮かばなかった。ベーコンを2パック買った。

 

次に野菜だ。トマトだけあればそれだけで美味いはずだ、と高を括る。パン一斤ベースなのでトマトは2個買った。

ここで買い物カゴの中を見つめ、想像した。

具がベーコンにトマト...だけだと寂しい。

 

ハンバーガーには卵が入っていることを思い出した。卵を買う。10個入り1パック買う。

 

あとは味付けだ。ケチャップもマスタードがあれば美味いだろう、と想像した。確かに間違いはない。ケチャップは家にあることを覚えているがマスタードが無いため、買う。

 

 

勘の良い読者はお気づきだろう。これで美味しいハンバーガーが出来るわけがない。無論、予算オーバーもしている。

 

上級料理人はスーパーで具材を選ぶ時から楽しいらしいが、料理弱者にとっては不甲斐ない選択を迫られることが多く、苦痛以外の何者でも無い。いざ、料理に取り掛かる時には半ば投げやりになり、早く食えれゃいい状態である。

 

具材を乱雑に積み重ねて行くだけだ。時間がかかることが何よりもストレスだ。パンはトーストなどしない。ベーコンは焼くが、味付けなど興味もない。卵を丸く焼くなど、もってのほかだ。フライパンに落とした卵は、3秒ほど目玉焼きの造形を保ち、たちまちスクランブルにされる。

 

そして重ねてゆけ。

 

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数時間前には想像すらしなかったことに気づく。食感だ。焼いてないパンを重ねて食べると、塊感がすごく、酷く疲れる。味よりも、食感にノックアウトされた。料理を奥深さを知った。味だけではない。見た目が良ければいいわけでもない。食感も美味しさの一つなんだ。

 

食べ続けることに耐えられなかった。いかに楽に食べ進むかを考え始めた。もはやハンバーガーでは無いものをハンバーガー風に食べ続ける意味がどこにあろう?

分解し、6枚切りのうち3枚を闇に葬った。挟むのではなく、具を上に乗せた状態で1枚づつ食べ始める。食べながら、食べ方の方向転換だ。苦し紛れで、出たアドリブ。皮肉にも最後のアドリブが功を奏し、胃を満たすには足りた。

 

食べ終わり、引き千切られたパンの耳や、とっ散らかったスクランブルの破片が混在する皿を見つめ思った。

 

『なんか顔に見える〜』

 

これが弱者だ。この自覚の無さである。

場当たり的な行動は、偶発的に取らざるを得なかったという間違った認識故だ。実際には全て因果関係が成り立って失敗しているが、要因や根源をアナライズすることなく、体の消化器官に任せきりだ。

 

しかし、誰にでもいつか気づく時が来る。人生にはつきものだ。それは突然に、不意なキッカケで身に降りかかる転換期だ。

その時に、帳消しにできない過去を意味あるものとして、より良い未来のマイ美食ライフの糧と出来るよう振り返り立ち返り考察してみる。

それが、一歩踏み出すことなのかもしれない。