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LOOP HR 「孤独の鳥居」のレビュー・考察

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LOOP HRというバンド(ユニット)が、島村楽器主催のライブコンテストに出場した際に「孤独の鳥居」という曲を披露した。この映像は島村楽器が記録したものなのか、はたまた客席からか定かではないが、ニコニコ動画に転載されたものを数年前に初めて目にした時、それはもう、笑った。

インパクトが強すぎて、どこに突っ込めばいいかわからない。<コードの機能>をまるで無視したように展開し続け、ギアチェンジしていく車のエンジン音のようなメロディーと、奇想天外な歌詞と語呂合わせ。

これがYoutubeに転載されると250万再生だ。そのほとんどが「下手くそだから」と面白おかしく笑っているのだろう。自分も最初はそのうちの一人だった。

今年に入ると、なんと余計なアレンジは一切なくレコーディング、MVの公開という面白い動きがあった。見てみると、映像のクオリティはそこそこ高い。外国人が取るJapan filmographyといった感じのグレーディング、バックグラウンドはヤれた“和”、シュールなスローの使い方、冒頭のボロアパートと軽自動車、二人の<世間一般的>から極めて逸脱しているような雰囲気。撮影はかなりシンプルに行われているはずなのに、それと全く比例せず不明瞭な情報量が多く、非常に思考させてくるのだ。

 

『孤独の鳥居』とはアートなのか?

 

無論、これはアートである。

マルセル・デュシャンが1917年に制作した芸術作品、『泉』(いずみ、Fontaine)というものがある。最古の<現代アート>として世界的に有名なこの作品は、磁器の男性用小便器を横に倒し、"R.Mutt"という署名をしたものに「泉」というタイトルを付けただけのものである。

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つまり何の変哲もない、ただの便器でしかないから「これはアートではない」と一刀両断される。しかし、それが美術館に並ぶと「これはアートか否か?」と観客は議論する。ただの便器とどう向かい合うべきか、その意義を考察する。『泉』の持つアート性とは、人々に議論させるという一点に尽きるのだ。

 

それでは『孤独の鳥居』を全く前情報無しで、観た時に人々はどんな感想を持つか。一体彼らが何故こういったスタイルなのか、これは天然なのか狙いなのか、二人は何者でどんな関係なのか、歌詞は何と言っているのか、真面目なのかふざけているのか。誰かに見せて感想を聞きたい、そして「面白いでしょ?」と誰かと考察したい。何も無い場所に議論する意義を生み出した時点でアートだ。

 

『泉』が巻き起こしたアート性のギミックはシンプルなものだが、『孤独の鳥居』を体感した人々の反応は、Youtubeコメント欄をフィールドに繰り広げられ、それらは3層に分かれている。

まず1層目は、シンプルな酷評。ポピュラーミュージックとすれば音楽的感性からかけ離れているし当然の反応である。

2層目は、「ドラムとベースが最高」などと面白おかしく酷評する。

3層目は2層目の流れを汲んで評論家然としたスタイルで筆とる大喜利合戦。

 

YouTubeコメント欄抜粋

“人類には早すぎる動画”

“人類が理解できる範囲の遥か彼方にある。 5億年後くらいに流行ってそう”

“現代音楽よりも先”

“これが現代音楽の最先端か。 人は日々進化してると感じさせてくれるいい動画、曲に出会えた。”

“なんか、普遍的なロックポップスをやったあとにこの形に行き着いたのだとしたらもの凄く興味深い”

“この人たち見てから一生懸命な人を笑うなって言わなくなりました”

 

人に考えさせる機会を与えるものはアートなのである。そして、<どう皮肉るか>というある種の娯楽性を与えていることが彼らが彼らである理由なのだ。それを意図しているかは別として。

 

音楽的に言って美しいか?と問われると、ギターも歌も美しくは無いが、もちろん美しく聴きやすいものだけがアート(音楽)ってわけでもないのも事実だ。『孤独の鳥居』について何よりも考察すべきなのはこのメロディー(歌)だ。まるで音階が無く、エンジン音のようにうねうねと繰り返す。日本語として訳のわからない語呂合わせで聞き取れず、真面目に聞くのは非常に堪え難い。しかし、なにもこのような<メロディーを軽視する音楽>が今までに無かった訳では無い。そもそも<メロディーを軽視する音楽>とは登場する度、音楽史を変えてきた。それらはFUNK、HIP-HOP、PUNKだ。それらがどうポピュラーミュージックの歴史を作り、時代を作ったかは長くなるため割愛するが、新しいものが生まれる時には何かが壊されるという構図は繰り返されており、『孤独の鳥居』でも例外では無いはずだ。

 

 

果たして、『孤独の鳥居』は新しい何かになりうるのか?

 

 

非常に難しい問いである。FUNKもPUNKもHIP-HOPも社会問題、人種問題、貧困、マイノリティーなどあらゆるバックグラウンドと絡み合いながら発展してきた。しかし彼らに、それらしき社会的メッセージやメタファーは見られない。ただただ、わけのわからない音楽なのだ。ある意味、似たり寄ったりビジネスライクな<閉鎖的なJ-Popというフィールドを皮肉っている>という見方もあるかもしれない。

 

はるか昔、人間は完全8度,5度だけが協和音と認識していて、3度を足すと不協和音とされていた。時代と共に3度を用いたマイナー・メジャー(短調長調)が用いられ、いつのまにかセブンス(7度)が足され、テンション(9,11,13度)が足され、不協和音とされていたものが今は心地良くなっていることを見ると、人間の耳は進化しているという事実を否定できない。

70年代以降は打ち込みーグルーヴの無い音楽ーが現れたことによりポピュラーミュージックは主にリズムの再解釈で発展している。それが現在進行形であるこの現在に、リズム・メロディー・ハーモニーの音楽三大要素を崩壊させギリギリ音楽だと言える次元で放つ彼らの音楽をどう楽しむべきかが人類の課題かもしれない。