スグループ

モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

シュガー・ラッシュ:オンラインが彩る現代的な論争 批評・レビュー・考察

ポスター画像

 

ヒロインのヴァネロペはアドレナリン依存症で、広く知らない世界と刺激を求めていて欠乏感を感じている。一方主人公のラルフは、一作目で恵まれなかった自身の境遇に変革を起こし悪役としての仕事にもやりがいを見つけ夢の日々を送っているが、ヴァネロペに異常に依存している。

そんな中、ヴァネロペのホームゲームであるシュガー・ラッシュの筐体が壊れたことがきっかけで二人はパーツを手に入れるための旅へと出る。

 

と、あらすじや展開に関してはインターネットに溢れた他の記事を参考にしてもらって個人的な感想と考察のみ書いていく。

 

言わずものがな、父親にとって自分の子供が自分自身で外の世界に飛び出していくことについて共鳴的な象徴として描かれている。二人がぶつかり合い、わかり合うシーンで語られるセリフはほとんど親離れ子離れについてそのまま応用できるものだ。そのメタファーとも言えない明らかなメッセージ性は、嫉妬の仕方や解決するための強行的な手段が非常に男性的な思考プロセスであって父親と娘という姿に強く結びつく。

子供を映画館に連れて行ったお父さんが、ラストのヴァネロペと通話するシーンなんかはそのまんま何十年後かの自分と子供と重ね合わせて見てしまうんだろうと思う。

とはいえ、トイ・ストーリーのウッディとアンディの役割を思い出したら、やっぱりピクサーってすげえなと思う。トイ・ストーリーにアンディのお父さんがいない理由はウッディが父親としての暗喩であったわけで、ウッディがアンディに対して思う思いや行動はあまりにも感動的で普遍的だったからだ。だから今になってヴァネロペとラルフの関係を通して親と子供を語られることについてあまり興味はない。

 

とにかく気になったのはスターウォーズからマーベルスーパーヒーロー、ピクサーキャラクター、ディズニープリンセスまでカメオ出演するこのビジネス的手法。もう5年後くらいには“複数の作品の登場人物が一同に会す”ことをアベンジャーズ手法とか呼ばれそうな気もしなくもない。Fast and the Furious技法でもいいしレディ・プレイヤー方式でもいい。ん?よく考えたらどれも違ったパターンで、これはこれで考察したい気もしてきた。ただ今作は同じ世界に存在する理由として、インターネットだからという本当に安易な発想のもとで、あれもこれも登場させているから浮かぶ疑問『一つ一つのキャラクターに対して本当に愛があるのか?ただのビジネスではないか?』ってのは、大好きな大好きなトイ・ストーリーのバズが見世物的に登場したのが悲しかったからである。それに様々なキャラクターを同じ作品内で登場させるのはフランチャイズとしてのキャラクターの重要性をかなり意識してのことだと思うし、大人の思考プロセスが垣間見えるのは面白くはない。ただ、ディズニープリンセスが『自分自身を見つけられる場所は水がある場所で顔を写すの』と話すところは、ディズニープリンセスステレオタイプ的なジョークで少しいい気分になった。3歳児くらいの見た目のヴァネロペをずっと見せられているから、魅力的な女性が10人くらい一気に登場したのが目の保養だったというのも、このシーンにSEIYUの皆様のお墨付きマークをつけたくなった理由である。

 

アーケードゲームの住人がインターネットの世界へ飛び出すという設定で、インターネットが視覚化されて描かれるが、多数の実名企業のサインボードが並び、楽天なんかも並んでいた。とはいえ無限の可能性を秘めているようで制限され、解放されているようで企業統制されていることについて表現されていて、ディープウェブ(ダークウェブ)の存在や迷惑なポップアップまで擬人化されていて、複雑な表現をしようとしているように見えてデジタル世代には理解するに容易い。とはいえゲームのキャラクターのラルフがいったいどうやって動画投稿するか、足場が崩れるのはプログラム的にどういった作用が起きたか、などそういったリアリティの追求はもはや不毛の域で、そこが子供向けなんだなと思わせてしまう、ピクサーと線引きしたいポイント。

こういったプログラムを視覚化したり擬人化したりするものはどうしてもマトリックスを思い出してしまうが、マトリックスって本当にすごい。あれから25年立つのに今だに比較され考察され称賛されリピートされている、マジで未来人が作ったんじゃないかマトリックス

 

 

そして、シュガー・ラッシュ:オンラインがどこへ向かったのか。これは現代社会でも議論される保守的なものと革新的なものの共存と、その間とはなにかというところだと考える。インターネットが古典的なものを存続、あるいは継承させる橋渡しになっていることはもちろんだし、これから起こる革新的な技術や時代の進化が必ずしも我々が待ち望んていたものではないかもしれないということ。現代的な論争を彩った映画のように思えた。

ここまで言わずに我慢したが、非常につまらなかった映画であった。