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『このサイテーな世界の終わり』ちゃんと考察してよ!俺はちゃんと考える!考察・解説・レビュー

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腹立たしいのは『このサイテーな世界の終わり』と検索すると「サイテー水準なドラマ、酷評」なんて書くサイテー水準なブログ記事が真っ先にヒットしてくること。サイテー水準と感じるのは自由だが、なぜそう感じるかきちんとアナライズせず否定的な単語だけだけで語る。「プロットが意味不明すぎる」「悪趣味極まりない」と書くのはいいけど、何が何でそうなのか、全く考察されていないし、“混沌”とか“プロット”とかそれらしい単語は使いたいだけで、必要無い文書にねじ込むだけの偏差値の低さである。どんな見方をしたらこんな低レベルなレビューが出来上がるのか?もしかして書いている人は笑えるものだけがコメディだと思っているのか?こんな素晴らしいドラマを、ビギナークラスの小遣いブログで判断されてしまい鑑賞を躊躇ってしまう人がいたらそれは本当に勿体ないし悔しい。こんなもの評とは言わない。F***ing小遣いブログって感じだ。

 

 

Netflixにて製作された、『The End of the F***ing World(このサイテーな世界の終わり)』という随分過激なタイトルは、イギリスのグラフィックノベルのドラマ化だ。17才のジェームスとアリッサの逃避行を描いたもので、20分前後のエピソード全8話で描かれた。犯罪を繰り返しながら男女二人が逃避行するロードムービーと言えば、やはり名作『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde/1967)』トゥルー・ロマンス(True Romance/1993)』を思い起こす

『このサイテーな世界の終わり』は二人がティーンエイジャーなのがミソだが、メリッサが「これが映画なら、私たちはアメリカ人ね」と語ったように、環境に恵まれず大人や法に対して反抗的なメリッサと、サイコパスだと自己診断しているジェームズの旅は、反体制的な心情を描くアメリカンニューシネマ的な側面も持ち合わせている。メリッサの母親と義父はあの通り利己的で虐待体質で愛情が無いし、ヒッチハイクで二人を拾った男はチャイルド・マレスターで、モダンな家の住人は猟奇殺人者、それを嘘や隠蔽で守る母親といった具合に、非道徳的な登場人物に象徴される少しばかりの社会風刺だ。ジェームズやメリッサのうような青年少女が生まれてしまう原因は何かという考察も行われている。それと付随して、こんなサイテーな脇役たちは、二人が逃避行で重ねる罪を情状的に軽くする役割も担っている。

しかし、「このサイテーな世界の終わり」が描こうとしているものはそういった反体制的な社会風刺がメインではない。といっても、はっきりと「これはこうだ!」表現するのが非常に難しいドラマなので、回りくどく聞こえる事はご理解頂きたい。

ジェームズが猫を殺したり、アリッサを快楽殺人のターゲットにしていたことや、車を盗み住居侵入や盗みを繰り返していくこと、そして一つの殺人に関わる事、これらはものすごく誇張された行動だが、実はティーンエイジャーにとっては普遍的な、誰しもが向き合う青春期ならではの不安定な心の闇である。

メリッサは言う。「こう言う時大人はどうするの?」。彼らは未熟だし、感情を反射的な行動に移してしまう。でも車を運転したりセックスをしたり酒を飲んだり、大人のような振る舞いはできる。子供と大人が混在している不安定な年頃は道徳的能力を欠いているのに、大人と同じようなパワーを持ってしまっていて、自分が何を目的に生きて、そして何者であるかに悩む。そうした不安定な時期には共嗜癖共依存に陥りやすく、その中で行われる盲目的な行動がその後の人生に大きな影響を及ぼしたり、人格を形成したり、トラウマが生まれる。

確かに、ジェームズとメリッサの行いは、彼らの生い立ちに問題があったにせよひどく法から逸脱している。でも、ここまで行かなくとも、自分たちの思春期の恋愛にも通づるものがあったと思う。あの時の恋愛は大人になった今、自分にどんな影響を与えているか。何を不満に何に縋り付いて生きていたか。あの時の行動を今の自分も同じようにそうするだろうか。それは犯罪や悪の可能性を秘めていたのではないか。

10代の頃、大人になった今よりも生きづらいと感じてた人にとって、あのむず痒い記憶に触れてくるのようなドラマであることは間違いない。