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映画『もう終わりにしよう。』がわけわからなかった人へ。解説・批評・レビュー

 

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チャーリー・カウフマン監督による、Netflixオリジナル『もう終わりにしよう。』(I'm Thinking of Ending Things)。作家イアン・リードが、2016年に発表した同名小説の映画化である。

 

この映画は、孤独な老人が、猛吹雪の車の中で凍死していく直前、最後に見る夢が本編となっている。

 

 

 

基本的に映画の構成は、「設定」「対立」「解決」の3幕構成で描かれる。この映画の場合、まず農場まで向かう行きのドライブが第一幕であり、設定が説明される。主人公は誰か、名前は、仕事、関係、状況は...。関係を終わりにしたい女性が主人公で、良い人だけど欠点がある男と、両親に会いにいく。単純な設定で、警戒心を抱かない。

 

しかし、この一幕で説明されたことを何の疑問も無く飲み込んでいればいるほど、第二幕で起きることが理解できなくなる。でもこれは、映画の読解力を試されているわけではなく、2時間を経て明らかになった、あるいは観賞後に解説などを調べてたどり着いた時に、この映画の本質が自分にとって価値あるものだったかを、感じ取るか、取れなかったかがミソである。

何の予備知識を持たずに観賞すると、確実にパニックになる。最後の最後まで理解ができないシークエンスの連続に嫌気がさし、のちに『そういうことだったのね』と理解しても、本編を見ている時間が楽しくなければ面白く無いという感想も正解だし、『なるほど、もう一度見よう』と深みに魅せられるのも人それぞれだ。

 

大体、理解に苦しむ展開に遭遇したときに、画面の中で起きていることの本質を見抜くにはパターンがある。『怪奇』『狂気』『空想』である。

シーンごとに年齢が変わる登場人物、複数の名前で呼ばれること、間で挟まれる学校の清掃員はどうリンクするのか、職業が言うたびに変わり、不可解な会話が連続する、これらはいったい怪奇現象か?それとも妄想か?

 

最初に彼女はルーシーと呼ばれるため、この女性には決まった名前が無いが"ルーシー"と呼称する。

 

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まず最初のヒントはルーシーのナレーションについて、ジェイクが「何か言った?」と反応することだ。そして時折、彼女はカメラ目線で話すこと。この時点では、こういう表現方法をとる映画なのか、とも取れるが、気に留めておくべきだ。なぜなら『怪奇』的なスリラーでも『狂気』的なスリラーでも、映画の壁を超えた反応(映画の外への意識)はよっぽど特殊な映画でない限り起こらない。となれば、映画の外では無く、この映画事態が『想像』的な何かに内包されている可能性があるからだ。

 

母親と父親、そして犬のジミーに会うと第二幕に移行する。ここから一気に不可解な展開になる。

映画の第二幕は基本的に対立・葛藤・困難が描かれる。この場合、表面上は、ルーシーが不可解な空間から逃れ、家に帰ることが目的であり、そこに対立・葛藤・困難が生まれる。しかし、非常に理解し難い出来事が連続する。地下室を嫌うジェイクの態度に始まり、様子のおかしい母親と父親は、何度も年齢が変わり、状況も変わる。

 

夕食

夕食のシーンでは異常なほど、ジェイクの人格が肯定されていく。ジェイクは常に他の子供たちよりも賢く、友情や人間関係に悩む時間がなかったし、読書やアートを通じて静かに育ってきており、自分の部屋で一人で人生を過ごし、フィクション、詩、哲学などの素晴らしい作品に囲まれていた、と。

 

ここにきて、一幕で行われた会話のほとんどがジェイクが知っているものだけを自慢するためにあり、彼女が何か尋ねれば、常にジェイクが論理的に説明する機会を与えられていたことに気づく。映画も、詩も、本の話も。

 

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学校の用務員という存在が度々割り込み、この二人の帰省旅行とどうリンクするのかについて、ジェイクの子供の頃の寝室と、地下室に入ることで決定的に明らかになっていく。

"子供の頃の寝室"には犬のジミーの骨壺がある。つまり、ジミーは存在しないということがわかる。

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となると、母親と父親の存在の有無について怪しくなる。すでにここにはいない人たちなのか、そもそもこの空間事態が無い物なのか。この"子供の頃の部屋"は、さっきまで子供だったジェイクがそこにいたかのような状態である。そもそも、ドアに"子供の頃の部屋"と張り紙がしてある時点で現在存在するものではないことが伺える。一つの核心が見える。ジェイクが子供だった頃と、年齢の違う複数の母親と父親、これらはどう考えてもジェイクの中にしか無い物だ。受身である彼女の想像からは生まれない存在であることから、これはジェイクの想像か、夢か、妄想であるとわかる。 

 

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そして開かれたままの本は、"Rotten Perfect Mouth" 。

これはカナダ・トロントの詩人Eva H. D.の本であるが、彼女が車の中で"骨の犬"としてよんだ詩は、この本に書かれていたものだった。ほとんどが、ジェイクの頭の中にあることで起きている。

 

 

地下室には、用務員のユニフォームが洗濯されていて、彼女が書いていたはずだった絵が置かれている。ここで話の縦の線が繋がる。ジェイク=用務員であるが、ジェイクすら、年老いた用務員の想像・理想・妄想の自分である。

この地下室には用務員の、最も内層的,深層心理的な部分の象徴であることがわかる。ドアが爪で引っ掻かれているのは、この用務員が妄想の中で生きている人生に、抵抗しているということなのかもしれない。

家、両親、犬、彼女、全てが存在しない。我々が見ているのは用務員の妄想、あるいは夢である。

そしてこの用務員は、この妄想からわかるように、誰にも認められず、暗い世界で生きてきた人生だったと言うこと。人と繋がることをせず、友情や恋も経験せずに、年を取り、妄想の中に生きている。登場人物全てが彼を肯定するために存在し、最終的には全員が彼にむけて拍手を送ることを、自ら妄想する。なんとも滑稽である。

 

非常に悲しい人生の中に、少ない経験から構成された自己肯定のための妄想。

そして、用務員はジェイクを探す彼女にさよならをしてバレエのシーンになる。二人のダンサーは同じ服を来た別人である。彼らは本人たちよりもスタイルがよく、劇中に何度もキーワードとして登場したミュージカル、オクラホマ!』(Oklahoma!)の夢のバレエのシーンのサンプリングだろう。二人はハッピーエンドを感じさせるような踊りのあと、愛を誓う。次に清掃員と同じ格好をした男が二人を引き裂こうとし、男は刺されてしまう。これを、スタイルの良い自分の分身と彼女への嫉妬と見るか、清掃員自身が見続けてきた幻想を終わりにさせようとしたか、どちらも含まれていると思う。

この幻想が崩れると、掃除をし、暗い学校の中をとぼとぼと歩き、服を着替える現実が映し出される。

車の中に戻ると、精神的に衰弱している用務員本人である。服を脱ぎ、アニメーションのウジの豚に誘われるように車の外へ出ていく。

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ウジの沸いた豚は、彼が子供の頃に経験した死の象徴である。その豚に連れて行かれる、裸の自分。死へと向かう、全てを終わらせようとしていること(自殺)を意味する。これも象徴的に描かれており、実際は車の中で自殺のために服を脱ぎ、神経衰弱に陥っているのだろう。

 

最後の式典のようなものは、自分を不当な扱いにしてきた全ての人たちが自分に拍手を送ることを余儀なくされる人生式典である。しかし、思えばこれは映画ビューティフル・マインド』(A Beautiful Mind)のラストそのままである。

彼の子供の頃の部屋にビューティフルマインドのDVDが置いてあったのに気づいた人も多いのではないか。DVDレンタル世代は、棚に陳列された大量の背表紙だけで映画を探してきたはずだから、この細い背面だけで何の映画かパッとわかるはずだ。

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この妄想の中には、清掃員が見た、聴いた、読んだ、映画や本の内容が、当然ながら非常に強く出ることから、彼の深層心理として革新的な手がかりとなる。

この映画は統合失調症で天才数学者のジョンが葛藤や困難を乗り越え、最後にノーベル賞を受賞するという話だ。清掃員本人が、自分の不幸さ(それは自業自得かもしれないが)と重ね合わせ最後に拍手喝采を浴びる理想、あるいは夢ということだろう。

 

 

 

そして最後のこのショットは、動くことなく雪に覆われた彼の車である。

彼は映画の最初から最後までこの車を出ていない。この車の中で最後の夢(あるいは妄想)を見て、凍死していく。

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神経を集中させ読み解きながら見れば、 この映画の本質に少なからず共感や秀逸さも感じ取れると思う。しかし表面的に起きていることは退屈なので、こういった散りばめられたパズルの辻褄を合わせながら見るような映画が不得意な人はかなり疲労感があるかもしれない。

ただ、見終わったあとの余韻は映画の醍醐味であり、もしつまらない映画だったと、あなたが思い、そして偶然にもこの記事にたどり着き、少しこの映画への見方が少しでも変わったならそれはこの映画の余韻である。

ちょっと思い返して見てほしい。こんな空想の夢物語や妄想をせずに、ただ現実だけを見て生きている人はどれくらいいるだろう。おそらく、ほとんどいない。我々誰もが理想を描いた妄想を度々、時々、想像しながら生きているはずだ。いつまでも現実化されない妄想を膨らませながら眠りに落ち、ただ単調な毎日を繰り返す。

自分が絶対に、"年老いた用務員"にならない確信など持てるだろうか。