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ウォーキングデッドの殺人に見る倫理と道徳

ウォーキング・デッド

 

2010年にスタートしたウォーキング・デッドは、ゾンビ作品として、それまでには無かった壮大なスケールだ。その中身は、しばし西部開拓時代のメタファーといった言われ方もされながら、ゾンビアポカリプトにおける人間社会の倫理と道徳を、どう文化的に最概念化するか?という人類の試みを描いている。ポストロメロから脱却し、現代的な非人間性の概念を探究するサバイバルムービーを、改めて読み解く記事としたい。

 

 

 

ゾンビ映画とは何か

 

ゾンビ映画ゾンビ映画たる所以とは、社会問題のメタファーである。ゾンビが壊滅するとか、治療薬ができるとか、元の世界に戻るとか、そういった根本的な解決には意味がない。

 サイコスリラーでもバイオレンスアクションでも無く、ゾンビ映画だからこそ、もたらす価値とは、我々の社会と地続きの問題定義がされ、ときに政治批判、社会批評がなされることにゾンビ映画の特異な性質がある。

 

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もともとゾンビとはブードゥー教の『生ける死体』にルーツがあるが、創作物としては1932年の『ホワイトゾンビ』が最初と言われている。1968年に故ジョージ・A・ロメロ監督によるナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(Night of the Living Dead 1968)で噛まれた人がゾンビ化する吸血鬼的な要素が加えられ、現代のゾンビの原型が出来上がる。     この作品は、ベトナム戦争公民権運動が現実社会問題のバックグラウンドとしてあった時代で、主人公の黒人が白人を指揮し、歯向かった白人を殴るなど、当時としてはある意味革命的な表現方法をとり、議論され支持を集めた。

彼はその後も、『死霊のえじき』(Day of the Dead 1985)では当時のレーガン大統領の新自由主義に対する批評として描き、『ランド・オブ・ザ・デッド』(Land of the Dead 2005)は富裕層と貧困層に分かれた覇権主義を問題定義にしたりと、ジョージ・A・ロメロ監督により、ゾンビが蔓延る世界を、社会問題のメタファーを表現するツールとして確立されていった。

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ウォーキング・デッドは2021年現在、シーズン11まで公開が予定されており、合計時間は130時間を超える。もはや映画の2時間程度とは比べものにならないほど長尺で、一つの問題定義やコンセプトでは全く間が持たない。逆に言えば、ゾンビが蔓延る終末化した世界での文化的再構築を徹底的に描く新たな挑戦でもあった。

 

話は必然的に、危険な都市区域から新たな新天地を求めて森へと向かう。無法化し山賊が現れ、平安を求めコミュニティは孤立し、部外者を強く疑う。異なる思想や価値観を持つコミュニティが出会えば対立が起き暴力的解決策が強行され、どちらかが破滅、あるいは支配される。一方で、合併や協力関係を築きながら、拡大していくコミュニティもある。まさに人類史である。

そして、

誰がこのフロンティアでルールを作るか?それがウォーキング・デッドの核心的なテーマである。西部開拓時代さながらな物語の推進力は、このテーマに終始している。そして、この大規模で壮大なエピソードは、文明の再構築作業の中でありとあらゆる問題に直面し、その多くが道徳観・倫理観である。

 

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https://www.reddit.com/user/JonnyZiB/

殺害の合法性

 一つ目に大きな問題点として取り上げるべきなのが殺害の合法性である。ドラマの中で行われる殺害は大きく3つある。一つがウォーカーの殺害と、二つ目に侵略者への殺害、そして最後に慈悲の殺害である。特徴的なエピソードを取り上げながら考察していく。

 

ウォーカーの殺害

 現在シーズン10終了時点では、ウォーカーを死人とし駆除することが常識である。しかし初期のパンデミック間もない頃には、それが殺人か?という問題定義が行われた。視聴者も、ゾンビを駆除する光景には今や慣れたもんだが、死の定義はなるべく早く定義する必要があった。

まずシーズン1第6話でジェンナー博士が登場し、被験者の映像を見ながら変異記録を説明する。ウォーカーに噛まれた後、感染者は髄膜炎のように脳の主要組織が破壊され一度死亡する。その後に、脳幹だけが活動を再開し反射中枢に信号を送り、本能しか残っていない状態となる。

このトピックは死亡判定法に基づいた死の定義を暗に取り上げたものだった。

 死亡判定法とは以下の内容である。

1981 年に出された大統領委員会報告書、および同年に出された米国統一死亡判定法(UDDA: Uniform Determination of Death Act)では、「(1)心肺機能の不可逆的停止か、(2)脳幹を含む脳機能全体の不可逆的停止の状態になった個人は、死んでいる」とされている。

https://plaza.umin.ac.jp/kodama/bioethics/brain_death_survey.pdf

まず 科学的根拠をもってウォーカーとは何か?を定義する。これだけで判断すればウォーカーは死人であり、人権も存在しない。しかしながら、法や秩序、宗教を経験してきた人類にとって、物質的な判断だけでは終わらない。

 

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この問題を色濃く描いたエピソードがハーシェルとリックの対立である。そしてこれに最も早く決断し行動した人物がシェーン・ウォルシュである。ハーシェルとリックの対立構造から読み解く。

 リックという存在は、文明崩壊後を描くウォーキング・デッドにおける最初の道徳的権威であり、規則である。リックの見解は基本的に適者生存(生物は、環境に最も適したものが生き残り、適していないものは滅びるということ)である。ウォーカーが人間を襲い殺すという事実は、人類が生き延びる上での危険因子でありウォーカーを駆除すべきという立場だ。さらに、もともと人類が築いてきた文化的な規則が支持されるべきであると考える。ウォーカー駆除すべきと考えながら、ハーシェルの理解を得てから行動すべきとする文化的道徳観も持ち合わせている。そしてウォーカーを『死に囚われた人』と捉えており、その惨めさから開放してあげるべきだとも語っている。

 ハーシェルは堅固な宗教家であり、宗教的主張と合わせてウォーカーは基本的人権をまだ持っていると考えている。ルカの福音書(ハンセン病患者を納屋に匿い奇跡を望むサマリア人羊飼い17:11-19)を引用し、自身をサマリア人だと比喩的に表している。また、何が起こっているか、これから何が起こるか(政府などによる文明や医療の回復)わからない以上ウォーカーを殺す権利などないと主張する。

 リックの発言には明確な意味があり、状況を考えると議論は決定的に見えるが、議論の着地点を見出す前に強引に行動してしまうのがシェーンだ。

 シーズン2第7話『死の定義』において、リックらをかくまったハーシェル一家が納屋の中に閉じ込めていたウォーカーが外に逃げ出した時、リックは駆除するのをためらう。対して「病人だと?もう死んでる」と声を荒げ駆除しようとするシェーン。そして、ウォーカーに胸に3発発砲すると、「生きている人間はこれでも歩くか?肺と心臓を撃っても倒れない」と興奮状態で言う。

呆然と何も言えなかったリックは何を考えていたか。繰り返しになるがリックは、道徳的権威である。道徳とは人が従うべきルールである。法でも定義でもない。リックは、それがどんなもので、どれだけ理解できない価値観でも、協調によって平和を維持する、根本的な道徳的価値観がある。しかし、シェーンが納屋のウォーカーを強制的に放つと、リックも目の前の出来事の現実には逆らえない。

こうしてリックとシェーンは対立構図が取られたことで二人は対立し悲劇的な結末を迎える。

ここまでに定義されたのは、ウォーカーが死人であることを誰も否定できないと言うことである。

 

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侵略者への攻撃

人類史には、数多の戦争の歴史がある。現在も戦争や内紛が起こる国や地域もあるが、肝心なのはウォーキングデッドを楽しむ視聴者は、そのほとんどが紛争や武力衝突とは縁のない恵まれた地域で住む人たちだと言うことだ。ウォーキングデッドは我々に問いかける。

綺麗事だけで成立するか?話し合いで本当に解決するか?見せられるのは、認め合おうとしたり協力し合おうとする度に、裏切られ仲間が死に、悲しみ、憎しみを持つ。もうこんなことなら殺される前に殺した方がよっぽどいい。

 

このように、法律や社会的秩序の中で日常生活をする我々、一般市民は、極限の状態に陥った時にどのような判断をするか、その人間の行動を具現化している。繰り返される対立の中には、我々がこのドラマの中に無意識に自分自身を探していることも事実であり、視聴者への問いかけである。

世界終末化し、法と秩序が失われた極限の状況の中で、襲ってきた相手を殺すか?という問いには善と悪が曖昧になり複雑な道徳観が求められる。無論、象徴的な存在としてのリック・グライムスは、文明崩壊前は保安官であり、ある時点までカウボーイハットを被っていた。ドラマの最初の段階で、リックという人物は、地獄のような世界で生き延びる術と、人間が築き上げてきた法と道徳の対比をするのに重要な役割を担っていた。しかし、シェーンの殺害で一線を超える。「俺じゃない、お前がこうさせた」と泣き叫ぶが、これ以降、侵略者や反体制的人物に対し冷酷な判断を行うようになる。

 リックはドラマが進むにつれ普遍主義(あらゆる事例に適用できる普遍的な道徳原理)から道徳的個別主義(全ての場合について正しい行い・正しくない行いを規定してくれるような一般的な規則はない)へと移り変わっていくのだ。

ニーガンとの争いの辺りまで、戦争状態な構図を繰り返し、野蛮さは過激し、道徳的衰退は進む一方であったが、後期では少しずつ賢い道徳的探究に取り組み始める。象徴的なのは囚われたニーガンを処刑することなく独房に入れたことである。

 これはコミュニティに対して行われた犯罪が今後どのように扱われるかというモデルになる。野蛮ささえ超越し、誰かを追放したり単に殺したりすることはできない。彼らは法を必要としている。そこには、カールの考えや、グレンの衝撃的な死などを経て、たどり着こうとする文明的な規範を求める新たな道徳的探究だ。

 新たな道徳的中心になりつつあるミショーンは、マギーに対し"他の人が生きるか死ぬかを決める権利を誰も持っていない"と伝えている。

また、マギーとリックによる二つのコミュニティの二人のリーダーが起こす相互作用は今までよりも深く“善悪のジレンマ”から解放される可能性を模索している。

 

 

 

慈悲の殺害

最も重いテーマの慈悲の殺害。慈悲とは相手に対して苦しみを取り除き楽にさせてあげたいとする心の表現である。

通常は噛まれたことにより生存が不可能になった人を、苦しみから解放するため慈悲の行為で他の生存者が殺す。しばし本人の要求によって行われることもあり、転化を防ぐため頭にとどめを刺すことが多い。慈悲の殺害は、ウォーキング・デッドで繰り返される最も深刻なテーマである。

 極限まで資源が枯渇した状況下の中でトラブルに見舞われた場合の生存率は極めて低い。誤解されやすい事項として、ウォーカーに噛まれたことによる体調の悪化は、ゾンビウイルスのようなものではない。そもそも全員が感染している状態であり、感染は空気感染か、あるいは別のルートによって起こっている。咬傷によって起こるのは、ウォーカーが保有するあらゆる細菌症や別のウイルスなどである。不特定多数の死体を貪るウォーカーが何を持っているか。結核HIVなどを保有していたとして、たとえ治療可能な病気だったとしても、アポカリプスでは完治不能に陥る。

 こういった状況下について理解があるほど、両者の合意のもとに慈悲の殺害は行われる。ある意味、彼らができる最後の治療なのかもしれない。この場合について、第三者のキャラクターによる違法性の指摘はほとんど行われない。

 

最も難しい場合の、慈悲の殺害

 

慈悲の殺害というテーマを最も大きく背負っているキャラクターはキャロルである。キャロルはシーズン4第3話においてコミュニティ内の感染症の蔓延を防ぐため、感染したカレンとデヴィットを焼殺している。あまりに極端な方法で、公になればキャロルは公開処刑されてもおかしく無い。しかし、キャロルが犯人だと突き止めたリックは、キャロルを100%否定することもできていない。未来の大きな利益のために、目の前の問題を殺害という方法で解消する。キャロルは生きる方法とすべきことを知っている。時にそれは慈悲という言葉で片付けるには難しい。リックは妥協案のようにキャロルを追放することとなる。倫理観が究極に問われていくシーズン4は、さらに不安定になりながら深い闇へと入りこんでいく。

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“お花を見て”

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シーズン4の第14話、刺されたばかりのミカの死体のそばにリジーが立っている。その横には赤ん坊のジュディスがいる。これほど衝撃的で悲しいシーンが、テレビ放送で行われることを見たことが無い。この最も病的なエピソードではリジーという子供に焦点が当たる。

 ウォーカーに対して正常な恐怖心を持っていた妹のミカに対し、姉のリジーはウォーカーを正常に認識できていない。それは線路に引っかかったウォーカーを生きさせることを選んだときに、何らかのパーソナリティ障害的な一面を決定的にしている。彼女がもともとそうだったか、あるいは世界がそうさせたかはわからないが、過酷な精神的苦痛を受け続けた故の、子供の精神的な退化を感じさせ、それが最悪な結果で現れてしまったことに間違いはない。

 キャロルは何をすべきかわかっていた。落ち着かせたリジーを外へ連れ出すと、「お花を見て」と、背後から撃ち殺す。リジーは救いようの無い悲劇を生み続ける可能性があり、彼女の精神的な治療方法も環境も持ち合わせていない。リジーがしてしまった悲劇の責任よりも、リジー自身が幸せになる方法は無い状況下での、最良の決断だった。この時同行していたタイリースは、恋人のカレンを殺害したことを自白するキャロルを許す。

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