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モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

走ること、老人になった自分を創造する。

“老人になった自分を創造する。”

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運動公園とか森林公園にあるジョギングコースは大変ありがたい。信号や歩行者に気を使わずタイムをとってベンチで休憩する。遠くに目をやるとありえない高さまで竹トンボを飛ばす老人が今日もいた。それも3,4人と複数いることが多い。ふと左に目をやると、80歳前後の5人のお爺さんがベンチを囲んでいる。中心には一回り年下くらいのお婆さんがその場を回している。小籔千豊風に言わせれば、我覇者なりだ。オタサーの姫的なあれにも見えた。

こんな朝早く、公園のベンチに一人で座って休憩することなんてランニングを始めるまではなかった。5キロ全力で走って、良いタイムが出た朝の出来事である。止まらぬ汗がアスファルトに染みていくのを眺めながら考えた。彼らのコミュニティーは狭い。狭い世界の中で、あの年になっても自分は何者か?を探し続けている。70になっても80になっても。自分の未来を少し想像した。——お金に、時間に終われながら毎日をひたすら消費していく終わりのころ、老人になった時に自分に残るものはなんだろうか——。もう一度5キロを走ってサウナに行こう。nike runアプリでスタートボタンを押し走り始めた。すぐに自分を後ろから追い越して行ったのは全身アシックスのランニングウェアにアシックスを履いた老人だった。この人も70歳に見えてもおかしくない。自分が靴に詳しいから、履いているのがアシックスのフラッグシップ、プロ向けのMETASPEEDだってのがわかった。だからサブ3は無理でも、あの年にしてはすごいタイムかもしれない。ランニングシューズにそこまでお金をかけられるなら相当走り込んでいるのもわかって想像を掻き立てた。すごいな、あの年でも割と早いペースで走るんだな。ちょっとまて、こっちは全力5キロ走った後の2本目なんだぞ、と頭の中で言い訳する。ベンチで生産性の無い会話を続ける老人たち、小さい折りたたみのイスを持ち込みひたすら竹トンボを飛ばす老人、屋根の下でまるで意味なさそうなオリジナル体操を取り憑かれたように続ける老人より、そのどれよりも、若者を追い越していくアシックス老人ランナーがカッコよく見えた。多分、先に出てきた談笑する老人たちとも、竹トンボ老人とも、この老人ランナーとの世界線は交わらない。歩んできた人生が絶対に違う。正解不正解はない。それに自分がランニングをしているからポジショントークなのもわかっている。でも、アシックス老人ランナーの世界線のほうが、豊かな人生に見えてしまった。ランニングは行動力を試されるし、逆に言えば行動範囲を広げてくれる。旅行先でも走りに出てしまう自分が証明である。そういえば、御殿場近くにあるランニングコースはとにかく気持ちが良かった。走りきった後は、信じられないほど澄んだ空気(に感じる)を目一杯吸い込みながら、芝生に寝転んだ。汗が染みる目をこじ開けながら晴々した空を見た。脳内まで澄み切っていく。シメは木の葉の湯でサウナに入って富士山サイダーである。老いへの抵抗とか言っていたけれど、走ってさえいれば、老いた後の人生も現役なんじゃないかと考える。若いうちは、理由もなくドライブして、理由もなく集まって、それだけで楽しかった。なのに人生経験を積めば積むほど、行動には理由が必要になる気がしている。ジャガイモ買うために北海道行けるかって話で、ちっぽけな理由では小さい行動しかできないし、小さい行動で間に合わせたいから小さな理由、もしくは結果しか生み出せない。自分の体ひとつで大きな行動を生み出すには?走っているとわかるが、走るのを止める理由はいくらでも見つかる。どう考えても走る理由は走ることでしかない。でもそれが大きな行動力を生む。北海道、走ってみたいし、世の中には走るために国境を越えるアマチュアもいるだろう。走り続けてさえいれば、老後に何かを残せる気がする。それが何かはわからないけど。サブカルチャーポップカルチャーも博識高くありたい。でも、”家の近所”みたいな限られたフィールドから飛び出す自由も同時に持っておくべきだと思った。子供の頃、オープンワールドゲームにあれだけ興奮したのに、大人になった今、現実世界で縮こまってはいられない。走ることが、どこか遠くで何かを達成する理由に、ひいては老人になっても。