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モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

Netflix『グレイマン』スパイ映画市場への参入ジェームズボンド×ジェイソンボーン 考察・解説・レビュー・ネタバレ

ブレードランナーVSキャンプテンアメリカ??お金がかかりそうだ!Netflix史上、最大規模の制作費らしい。その額2億ドル。200億円、やばいなと思ったそこのあなた!300億2600万円です。円安も去年11月以来の水準に進行し1ドル150円台(2024/2/16)。こんな大味アクション映画について考えている場合ではないのでは...頭の中にひび割れた岩みたいなフォントで増税・物価高・賃金安などの文字がドカーンと降ってくるが、そういうやるせない気持ちも一時的処置として吹っ飛ばしてくれるのが、こんな大味アクション映画である。何か現実に引き戻される感覚があるので、できれば金の話はしないでもらいたいが、Netflixも、なにもお祭りパーティーで最大制作費ってわけでもない。とてつもない勢いで会員を増やし、2020年には会員数が2億人を突破し騒がれていたのも記憶に新しいが、2023年には加入者数の頭打ちと利益低迷を迎えている。広くコンテンツを増やしていた戦略から舵を切り、一流の俳優を揃え高額予算の作品に注力し、その代わりにリリースするプロジェクト数を減らしていて、つまり『グレイマン』はその象徴的な作品でもあるわけだ。その予算の莫大さは誰が見てもわかるほど贅沢な絵が続き、ルッソ兄弟(監督)がアベンジャーズシリーズで培ったアクションの魅せ方は遺憾なく発揮されていて、効果的なドローン撮影も印象深い。メルセデスベンツのGクラス(ゲレンデが)が何台も壊されていたのは、ここにも予算の集約がされているような気がすると車好きは思ったかもしれない。破壊台数で箔を付けるために、20年型遅れのFORDエクスプローラーとか壊されまくる光景は見慣れているからだ。プロットはCIAにより雇われた元囚人のヒットマンと組織の腐敗との対立構造。全く革新的でもないが、フォーマットとして提示するには十分だろう。どう考えたって大分類は007を意識していないわけがないし、象徴的な赤いAUDIも007で言うアストンマーチン的なものだ。AUDIのジャパンプレスを読んでも、やっぱりそういう象徴的な車としてブランディングしていく会議が行われたんだろうなと感じる(想像)。

Audi RS e-tron GT

そういう目線で見ていくと、シックス(ライアン・ゴズリング)が付けているタグ・ホイヤーのカレラが気になったり、クリス・エヴァンスはマッチョしか着れないking & tuckfieldのニットポロを教科書的な着こなしをしている。お酒好きで知らない人はいないジェームズ・ボンドのボンドマティーニや、スーツに造詣が深ければ直近007のダニエル・クレイグが着こなすTOM FORDのスーツなどを例にとって、『グレイマン』もこれからシリーズ化していくフランチャイズの中で、映画キャラクターというインフルエンサー的な立ち位置を確率していくのだろう。冒頭の暗殺では、誰もがおかしいと思ったはずだ。なぜヒットマンが赤いスーツを着ているのか。どこか(映画の外)でライアン・ゴズリングが現れた時、赤いスーツさえ消えていれば彼がシックスだとわかることには大きな意味がある。

TAG HEUER カレラを身につけた"シエラ・シックス"

 

クリスエヴァンスのKing & Tuckfieldニットポロ。マッチョで胸板が暑く無いと着れない


と、ここまで何度もジェームズ・ボンドの名を比較として挙げて、スタイルに言及し何が言いたいかと言えば、つまりルッソ兄弟はこの市場に新たなスパイヒーローを誕生させたいということだ。その"市場"とは『007シリーズ』『ミッション:インポッシブル』『ボーンシリーズ』という3の巨大なシリーズに独占されてきたスパイアクションスリラーへの参入だ。シエラ・シックスのアクションスタイルはボンドのような洗練さを持ちながらも、ジェイソン・ボーンシリーズのような暴力性も垣間見える。とはいえジェームズ・ボンドのような戦闘中でも上流階級を感じるようなスタイルを取り入れることにはリスクがあるのか、その代わりにルッソ兄弟アベンジャーズで行ってきた混沌とした大乱闘がある。一言でざっくり言えばボンド×ボーン=シエラ・シックスという新しいスパイヒーローなのではないか?個人的にはそうとしか感じない。だからこそ話が薄いとかそういう批判は正直どうでもよくて、プロットに関してはとりあえずフォーマットのベースが提示できていれば良いのではないか。スパイアクションとしてどのようなスタイルか。この映画にグッとくる人は、あらゆるアクションスリラーを大量に観賞してきてそんなことを思うはずだ。

ジェームズ・ボンド

ジェイソン・ボーン

 

レプタイル -蜥蜴- 考察・レビュー・批評・ネタバレ

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“眼差しで妊娠させる男”という異名を持つベニチオ・デル・トロ。今ではこんな表現も言葉狩りの対象となりそうで少し躊躇もあるが、久しぶりに見たベニチオ・デル・トロのその眼差しは、56歳の今も遺憾無く発揮されていて、その存在感だけで完走できた2時間と言っていいかもしれない。話は、一件の殺人事件を追う刑事が、自分の身の回りまで侵食していた組織犯罪を明らかにしていく、フィルム・ノアール・サスペンスである。秋の色調を用いた郊外で、含みを持つ目線で語るシニカルな男。ベニチオ・デル・トロのパフォーマンスを最大限活用するにはこの上ない役柄である。たとえ脚本自体はB級だったとしても、それなりの作品に昇華させる。おんぶに抱っことは言わないが、ベニチオ・デル・トロが作品の評価を一定水準まで持ち上げたのは間違いない。監督はグラント・シンガー。ミュージックビデオで実績を持ち、今回が長編映画デビューである。明らかにデビット・フィンチャードゥニ・ヴィルヌーヴの洗練されたノアールスタイルに手を出している。

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劇中で起こる暴力的なシークエンスは、カメラの外で起こる。実際に殺害される様が映し出されるよりも、よっぽどインパクトがあり不気味だ。この映画全体を覆う不気味さに病みつきになれる人は『プリズナーズ』や『ゾディアック』もフェイバリットムービーに違いない。例えば夜遅くにインターホンが鳴ったり、山道をずっと付いてくるヘッドライトがいたり、そういった不気味と、どこかに潜んでいる危険。『裏切りのサーカス』ほどではないが、どの建物も同じような建築様式を共有していて人物がどこにいるかわかりにくかったり、インパクトのある音楽の導入や、複雑に縫い合わされたプロット。これらは観客を誤解させ混乱させる“ねじれ”を生むための意図的なものだ。例えば『——33回刺されていた』は、猟奇的殺人・精神疾患、あるいは深い憎悪か、とミスリードする。この映画に登場する誰もがいくつかの秘密を隠していて、何かに関与している。あるいは凶悪な犯罪を犯す機会を待っている。このように、ずっしりと重く時間を使うが全貌が明らかになるにつれ、盛り上がりに欠けていく。どうも明らかになる謎はフィルム・ノアールとしてはチープで、それは有罪者側の笑えるほど滑稽な不注意で明らかになってしまう。謎が意図したようにまとまらないのは、先人たちの様々な伝統的手法をパスティーシュするはずが、パロディになってしまった例に近い。であれば、『レプタイル -蜥蜴-』は、ノアール・サスペンスとして伝統的なフーダニット(whodunit)を採用したほうが、よっぽど面白い映画になったのではないか。

HOT WHEELSの値上げと新興ブランド

日本では2月発売のPOP CULTURE、ROADKILL ROTSUN 240Z。見た瞬間に動悸がするくらいに素晴らしいキャストで、絶対に予約を逃すまいと闘志に燃えたのか、あるいは買えなかった自分を想像して戦々恐々としたのか、とにかくその動悸の理由を探しに予約日を迎えた。0:00からアクセスすれば余裕で予約できたわけで、朝起きた7時くらいにはまだ残っていた模様。しかしながら、何となく心に引っかかったのは値段である。プレミアム系のシリーズの値上げである。円安なんだろうと思うがHOT WHEELSが¥1,100とは何とも言えない感情である。思えば小学生の時はダイエー等に入るマイナーなおもちゃ屋から、アベイル、しまむら、100円ショップでも手に入った。100円で買えることもザラで、トイザラスには値下げされて300~500円になった100%HOT WHEELSがあったりして、よく喜んで回収した。今はもっとコレクター市場ビジネス化している側面もあるだろうが、HOT WHEELSの可愛さはある意味手に入れやすいプライスもあったはずと思い出した。子供の時はレーシングチャンピオンや京商は高くて集められなかった、HOT WHEELSもそんな存在になりつつあるのかと。むしろ店頭ではなかなか欲しい車種には巡り合わないから、足で探す喜びも以前よりも大幅減。それはミニカーに限ったことではないと思うし、HOT WHEELSにもレギュラーシリーズがあるわけで、そこまで悲観する必要は無いが、とはいえ何だか煮え切らないのは事実である。

 

 

よくよく考えてみると、確かにこの240Zが¥1,100なのはまだ認められるとして、今後のポップカルチャーもずっとこの値段ならば、他の選択肢があるのではないか、そんなふうに気持ちが傾いてしまう。つまり、MINI GT、GREEN LIGHT、AUTO WORLD、BM CREATIONS。もっとリアリティ志向でハイクオリティなミニカーが選択肢に入ってくるわけだ。いや、今までも買っていたけれど、HOT WHEELSが1000円超えてくるなら、もっとそっちに回したいなという誘惑である。

AUTO WORLDのCUSTOM LOWRIDERSシリーズ、1966 CHEVY IMPALA "SS"のローライダーである。これはAmazonで¥2,100。いや1000円高いじゃないかと自分でもツッコミたい気持ちはあるが、プレミアムとはいえHOT WHEELSは高くでも700円ちょいなんてイメージで集めていたから、4桁になればもう変わらない。HOT WHEELSを2台我慢してこっちを買う方がよっぽど所有欲に満たされる気分が伝わるだろうか、この素晴らしい完成度。

まさにローライダーらしい、キャンディペイントとメッキパーツ。そして小径のワイヤーホイール。最高に美しい。HOT WEELSのプレミアムラインでもメッキホイールがかなり減っていて、NIKEみたいなことするなよと不満を溜めていたが、この惜しげもないギラギラ感を持つハイエンド系ミニカーブランドが、今の自分にグサリと刺さってしまう。なんだろうな、ここ数年はHOT WHEELSの文化的な魅力が薄れてしまっているように感じるからなのか。F&Fフランチャイズ、ノーマルチックな日本車が多くて心が踊らない。初期のJAPAN HISTORICSの頃やBOULEVARDのスカイラインバンが出た当初は興奮気味に日本車を追いかけたが、今はもう飽和状態。本当にほぼノーマルのアルテッツァロードスターGTOが欲しいのかな、と自分に問いかける。アメリカのカスタムカーカルチャーのDNAを持ったHOT WHEELはHOD RODに始まり、TRACKIN' CUSTOM PICK UP のSTEEL FLAMEや、DONK STYLE、VW BUS、DEORAという名作がHOT WHEELSなのではないか。引っ張り出して感傷にひたる毎日である。

そして今、傷を癒すのはハイクオリティコレクティブ志向ミニカーブランド界隈でも一般化してきているカスタムカーキャストだ。1990年代〜2000年代はレーシングチャンピオンやJHONNY LIGHTNINGがそういったポジションだったと思うが、最近の新興ブランドも最高にクールなキャストが大量である。ここ1週間はこのIMPALAにメロメロ中のメロメロだ。

BM CREATIONS 1/64 三菱 パジェロ 2nd ジェネレーション マットブラック ジャングルパック 右ハンドル


BM CREATIONSは中国系のミニカーブランドである。アメリカブランドにしか興味が無かった今までを振り返れば、2000円も出して中国ブランドのミニカーを買うなんて想像もしなかったが、本当に楽しいミニカーである。こちらもHOT WHEELSと喧嘩中の自分を癒す1台である。多くのキャストに付属パーツが付いており、セルフカスタムができるのが憎い。しかもトミカの大発明サスペンションギミックを凌駕する、かなりストロークのあるサスペンション機構付きであり、大人にミニカーで遊ばせるなよと言いたくなる。フロンドガード、キャリアー、シュノーケル、ホワイトレターのタイヤ、最高である。

ガソリンタンクは付属パーツ

HOT WHEELSアメリカ系ミニカーで埋め尽くされたコレクションに、徐々にこういった新興ブランドミニカーが仲間入りするようになり、コレクションの統一性を欠いていく不安と同時に、新しいものに興奮するミニカー熱はまだ少しも覚めていないと自覚するのだ。

Netflix-終わらない週末 考察・批評・レビュー・ネタバレ


起こる事象のほとんどが妙にパラノイア(妄想)的で、鹿の大量リスポーンとか、サイレンのような爆音とか、テスラ無限玉突きとかで実態の無い恐怖の応酬なもんだから、あれこれって精神病的な話でオトされる?と途中でウトウト仕掛けた頃に、原理主義的(終末論者)な人物(ケビン・ベーコン)が、まさにケビン・ベーコンな風体で現れて目が覚めると同時に、そういえば国家緊急事態的なシグナルがあったな?と思い出しもう一度集中。するとやっぱり妹のローズがずっと『フレンズ』の最終回が見れなくてゴネてることが気になる。映画の話として何の意味があるか考えれば、NetflixによるNetflix風刺みたいなものか。それはブラックミラー6で既にやっているので、そんな問題定義は改めてやらなくても、と思ったりもしたが、ラストシーンを見て意図汲み取ってみる。Netflix風刺というよりは、子供世代が抱えたネットと現実の境界線を問うものである。自分の居場所はどこにあるのか?と。こんな緊急事態になれば我々はすぐさまスマホを開き、ネットで情報収集し判断する。自分がどこにいるかも画面の中で確認する。少し丘を登れば、マンハッタンが見えるのに、どうして家に閉じこもっているのか。ネットも電話もラジオ・テレビも寸断された状況下で、訳の分からない恐怖に怯えた現代人はじっと何もしないことしかできない。知らぬ間に死期が迫っていても知ることもなく。あなたの実態はどこにあるのか?そう問うべき空虚な社会問題定義的なところである。確かにコロナで爆弾休暇——自分観測史上最大連休をこう呼ぶ——になった時、ソファーに寝転がり永遠とNetflixやらYouTubeを見ていたあの時間は、こんなに幸せな生活があっていいの?だった。途中で休みすぎて不安になって始めたランニングは何故か今でも続いてるが。でも、あの時、自宅待機を余儀なくされた状況で全ての通信が切断されたら?考えると結構恐ろしい。2020年や2021年は大した記憶が無い。多くの人の精神年齢を実年齢−1歳にした空白の1年である、どれだけ画面を見ても経験や思い出にはあんまりならないと。話を戻すと、国家危機とキリスト教原理主義的な人物、電波・インフラの寸断、サイバー戦争、イランによる侵略だとか、そういった断片的で上澄みだけの情報とサスペンス的要素を絡ませ、観客に考えさせたいという意図も強く見えている。いずれにせよ、自分たちの身にも危機が訪れた時の疑似体験としてジュリア・ロバーツの人間不信さは共感が強い。アメリカのように人種間の隔たりは幾分少ないとしても、素性のわからない人たちと手放しで協力しあえるほど日本も平和じゃない。そういった非常にローカルな地続きベースのフィールド(閉鎖的)で進むストーリーのバックグラウンドは、結局マジでとんでもない有事だったという話である。アメリカで大規模クーデター、内戦が起こるとは想像もできない....いや今ならあるかもしれないと思えてしまう所が怖いところである。ウクライナにもイスラエルどちらにも注力はできないアメリカは台湾有事や南北問題まで手が回らない。中国もロシアも北朝鮮も...気付けば強権主義VS自由主義の構図の溝は深まっていて、いよいよWW3前夜とも言えてしまいそうな年の暮れに、棚卸しするかのように公開されたなと。似たような感覚は2021年12月公開の『DON'T LOOK UP』を思い出す。あれは気候変動による分断を描いていて、トランプ政権時の分断をブラックユーモア的に描いた作品だが、図らずも分断によって生まれる国家の広告塔的な専門家が偶像化していく様は、COVID19に襲われた自由主義国家(日本も例外ではなく)において起きた現象をはっきりと再現していたから、2021年はこんな年だったと1年を振り返るのにぴったりだった。2023年がこんな年でなければ『終わらない週末』も、こりゃ週末終わらねえわ!このあとさマンハッタンに行く続編みたくね?で済んでいたかもしれない。

ここまでラフにレビューしてみたが、もう少し真面目に考察してみると、やっぱり気になるのはこの映画の制作がバラク・オバマ夫妻が立ち上げた制作会社であるということだ。元ホワイトハウス移住者が“これから起こり得ること”、と語っていることこそが恐ろしい。現時点の世界情勢ではそれほどフィクションでもないということだ。そして陰謀論よりもっと簡単な話だ、という点でも内包されたメッセージを勘繰ってしまう。ディープステートとかそういうものでなく、侵攻とクーデター。イーサン・ホーク演じる父親はネットもGPSも使えなえれば何もできないと嘆くが、そのために缶詰や水を買い溜めて孤独になれというのか、この表面的な選択以上に、ジュリア・ロバーツの疑心暗鬼な精神性が、いかに他者を受け入れることでしか自分を救えないかを、批判的に暗に示しているようである。こういった身に迫る危機的状況化では社会的偏見と二極化して病んだ潜在的な不安が表面化するからこそ、他者を受け入れることは生存的選択である。また、『フレンズ』に関しても、妹のローズという人物の輪郭がはっきりしてくる。そもそも何故『フレンズ』なのか。『終わらない週末』はマンハッタンから来た都会に疲れた家族が、ラストでマンハッタン空爆されているのを茫然と見て終わる。"マンハッタン"とは母親役のジュリアロバーツが言うように、それほど素晴らしくも無い、人間に疲れる街だと表現している。一方『フレンズ』は白人が大きなアパートに住み9.11も起こらなかった世界線が舞台の幻想的な"マンハッタン"である。この対比もあるとして、ローズが『フレンズ』の世界に安心を求めていて、さらに本当に知っているニューヨーカーとして認識している可能性も否定できない。冒頭でフレンズコーヒーショップに連れてってというセリフがあるが、父親は「あれは本当にあるわけではない、セットだよ」と正す。実際には観光地化されていてあることはあるが、ローズがそれを念頭に置いていたか、あるいは本当にセントラルパークが存在すると思っているかもしれない。父親の言葉にローズは反応しないため、真意はわからないが、ローズがフレンズと現実のマンハッタン両者の境界線が曖昧なことは間違いない。そして、最終話を見ることに執着するローズ。家族の中で最も何かが起こる予兆を敏感に捉えていたローズにとって最も安心できる方法だったとも言える。彼女の世代は子供の頃から銃乱射事件やパンデミックなど親世代が子供の頃に経験しなかったあらゆる恐怖を経験している。タンカーが浜辺に突っ込んでも、家に戻ってすぐプールではしゃぐ子供たちを目にして、夫婦は立ち直りが早いと関心するが、現代の子供たちにとって、もはや情報過多でセンシティブな情報に溢れた時代を生きる子供達は、次のエピソードに進むようにして訓練されてきているのかもしれない。

『ぶこつ』亀田製薬株式会社——考察・レビュー・解説

『ぶこつ』亀田製薬株式会社

 

“餅を 1cm 内外のサイコロ状に切断、または前記の鏡餅で砕いた破片等を油で揚げた餅。揚げた後に醤油・薬味などをまぶして食べる。——wikipedia

 

『ぶこつ』が美味しい。自分の人生を振り返ってみると、揚げ餅について深く考えたことがなかった。実家を離れ上京して15年、自分で買って食べるおやつはもっぱら、欧米由来のポテトチップスやクッキーなどだ。それに和菓子は高い。『ぶこつ』なんて300円弱したような気がする。それでも『ぶこつ』ずっと好きで書い続けている。『ぶこつ』に出会った時、あの時は気が参っていたのだろう。人生において重大な選択を迫られていた時だった。5年前だ。思い出すと恥ずかしくなるが死ぬほど落ち込んでいて、ひとり暮らしの狭くて暗い18㎡のマンションはマイナス思考をより加速させていた。包丁を持ったままキッチンで朝まで座り込んだりして、自死を考えていた。この時初めて知ったことがある。どれだけ追い込まれた状況にいても死にたい死にたいと嘆いていても朝になればが腹が減るという自分調べだ。何も行動できずに夜が開けて、朝方に昨日のままの格好でフラフラと駅前まで歩き牛丼屋に入って特盛りをかきこむ。外に出てタバコを吸う。むくんだ顔もボサボサの頭も歯を磨いていない気持ち悪さも、とにかくどうでもよくなっていたがとりあえず喉が乾いてスーパーに寄った。喉が乾いて何か飲みたいってのは生きていきたいってことなのか、とも気づいてみたりした。腹が満たされると脳には幸福感を感じる電機信号でも流れるのか、ポテチでも食ってウォーキングデッド の続きでも見ようかと楽観的になりはじめた。お菓子コーナーをうろうろしても選ぶ気になれず、ぱっと見で値段が一番高かったのが『ぶこつ』だった。家に戻り申し訳程度に部屋を掃除して、ウォーキングデッド を流し『ぶこつ』を食べた。死ぬほど旨かった。そういえば昔、小学生の頃に親父が作ってくれた。母親がいない休日に昼から揚げ物しているなと様子が気になっていると親父が皿に盛って出してきたのは「揚げ餅」だった。皿の上に引かれたキッチンペーパーに油が染みている。少しパチパチと音がしていて、揚げたてのそれは熱そうだ。1Lボトルの醤油の注ぎ口を親指で押さえ調整しながら目の前で揚げたての揚げ餅に醤油を染み込ませた。美味しかった。バクバク食べたいけど、どれくらいのペースで食べていいかわからなかったから、少しづつ時間を起きながら親父の様子を伺いながら食べた。そんな遠い日の記憶を、『ぶこつ』が思い出させてきた。少しだけ泣いた。『ぶこつ』の美味しさは、かなりそれに近かったから記憶が鮮明に蘇ってしまった。

自死っていうのは自分とは無関係、そもそも死ぬなら最後に銀行強盗でもやるか全財産何かにギャンブルしたほうがいいんじゃないか、そんなふうに浅はかに考えていたが意外と誰にでもそういう思考になってしまう事象ってのは起こり得るんだなと知った。今となっては生活も収入も安定してさほど大きな悩みは無いが、でもやっぱり『ぶこつ』は高いなと感じる。小学生の頃ってのは何も選択していないからいくらでも可能性があるわけだ。本人たちは何者にだってなれると信じている。自分だって、レーシングドライバーとか武道館でライブとかそんな夢を見ていた。でも、少しつづ大人になっていく過程の中で多くの人が自分は特別な人間ではない、平凡な人生だと受け入れ折り合いをつけていく。やりたいことを追求する代償は、折り合いをつけることに時間がかかってしまうことだ。といっても夢や目標を諦めること前提の話だから、そのまま特別な人間になれる人はここでは対象ではない。親父が揚げ餅を作ってくれたというのは、小学生の時のすごく日常的な瞬間の象徴だと感じてしまい、人生の底に手がついたときに何気なく食べた『ぶこつ』が、あの時と今を線で結んだような気がしてしまったから、特別なお菓子になったのだ。今も、たまに買う時がある。長期休暇だったり、年末だったり、大仕事がひと段落した時だったりと節目な時に。いや、ただの仕事帰りになんとなく買うこともある。純粋にやっぱり美味しいなと思う。そしてまた親父の揚げ餅のこと思い出す。また少ししたら『ぶこつ』を買うと思うが、その時はもう季節が変わっているのだろうか。あるいは生活や仕事の状況も変わっているかもしれない。『ぶこつ』は自分の人生におけるセーブポイントみたいなっている。そうやってまた、この先の人生にも線を繋いでいくことになる。人生の記憶はいつだって断片的だから。

 

 

 

『不器用で』書評(解説・考察・レビュー)

『不器用で』 ニシダ著

テレビをほぼ見ないから、ラランドがどれくらいテレビ業界で売れているのかイマイチ把握してないが、サウナ室のテレビでラヴィットに出ているのは見たことがある。そこでニシダという男が面白かったか平凡だったかなど全く記憶に無く印象にも残っていないが、それよりもツキの兎というラジオ、これが面白くて必ず聞いている。ラランド2人がほぼフリートークを繰り広げるだけのラジオ。サーヤのほうが『東大医学部は頭悪い...!!」をネタにしていて、シビれた。

その程度でしか知らないラランドのニシダが小説を書いたと知って、無性に読んでみたくなった。どうやら好評らしい、ということだけ知って、実は短編集ということも知らずにamazonで注文し、翌日届いた段ボールと封筒の中間みたいな質感のパッケージを破り、手に取ったのは昨日の話。誤って本の表紙まで破ってしまってもいいくらいに、雑に開封した。『不器用で』というタイトルを見て、ああそうですか不器用そうだもんなと軽くニシダの引きつった笑顔を想像しながら、頭の中で上から目線な揶揄を飛ばしたが、今となっては謝罪したい。『モード後の世界/栗野宏文』みたいに大層なタイトルつけて、エッセイだかエピソードトークの寄せ集めみたいな、本棚に置くことが恥ずかしくなるような本はいくらでもあるから、思い込みで揶揄してハードルを下げたい癖がついてるのかもしれない。お金を払っているのだから、失敗じゃないかなと恐る恐るパラパラっとめくって中身を覗き見した。なんだか結構文学的な雰囲気だから早速読み始めた。実は読む前に便意を催していて、それでも読み始めるとトイレに行くのを制してまで、読み続けてしまった。

純文学は、言語化できていない感情や感覚をストーリーを通して表現してくれる。『不器用で』というタイトルをどんな意図で設定したかはわからないが、確かに主人公全員が不器用には思える。しかし、彼らは根本的な素質が不器用というよりは、人生において誰しもに降りかかる、不器用な瞬間を切り取っているようだ。そしてその不器用な瞬間に、バタフライエフェクトみたいに世界線が変わったことを予感させる、余韻と含みがある。「テトロドトキシン」なんかは特に象徴的だったように思う。“消極的自死”みたいなパンチラインインパクトを与えるのだけど、あんなふうに不意に、不意な人と不意な会話をする、それが結構な外的刺激でずっと頭にこびりついていることが恐らく誰しもにある。だから、読み終えてみれば、あのパンチラインよりも最後の二人の生産性の無い会話のほうが感覚に残っている。そんなものが生き方や考え方を直接的に変えるかは別として、ほんの小さな出来事が実は結構その後を変えていた、それは自分で認識できていなくても、案外それこそ人生の妙なのかもしれない。「テトロドトキシン」が最後の会話で急激な変化の自覚を促したのに対し、「焼け石」は自覚しない過程の末に起こる変化、そしてそれこそが不器用。滝くんがタバコの煙を、滝くんがサウナマットを一度にたくさん...その一つ一つの小さな出来事を噛み砕こうとする、まだまだ大学生らしい美沙という女性。オンラインミーティングでair podsをつけたまま——みたいな描写は麻布競馬場っぽさもあったが、まだまだ感情的で少し社会生活という意味で未熟な滝くんとの対比は、しっくりくる。不自覚に惹かれていく様と、意識しまくっている滝くんとの行く末は『ちょっと思い出しただけ』みたいな恋愛になりそうな雰囲気まで感じてしまうのは、大人になりつつある二人を結構リアルに、でも説明しすぎずに表現できているからだろう。「濡れ鼠」で強調されるのは主人公のまとまっている社会人感である。一方で、自宅を基本にパートナーとのまとまっていない生活感の対比、この歪さはなんなのか。表面上の問題はいくらでも挙げられるが、根本はそこではない。秀一は“歳の差についての風当たりはまだ強い”と言っているが、もっとも秀一こそが歳の差について固定概念を持っている。年上としてこうするべきだ、こう言ってはならないと何度も言い訳にする。最後の二人の会話この隔たりを気持ちよく解消する。「LINEのアイコン誰と行ったの」「浮気してるの」「だって、好きだから」と、まるで年甲斐も無く感情のままに吐露する。“歳の差”という事象を借りて語られているが、なんとなくまとわりつく人と人との隔たりみたいなものは、誰の人生にも往々にしてある。そういったものは案外、自分が持つ表面上の意識の根本を探ると、実は自分のトラウマや固定概念に起因している、そんなふうに思えた。

ところで、読み終えた後にひとつ考えこんだ。本著全体を通して、ニシダという人物がどんな女性観を持っているか、そんなものがボヤボヤと見えてくるような感覚だ。しかし、こうして文章を書いてみてもそれが何かまとめることができない。でもニシダ氏が持つトラウマや体験が反映されていることは間違いない。芸術家は敏感に反応し、人が感じないことを感じて、ごく普通のことが苦痛だと感じる。芸術たる所以は弱さの表現では無いかと考えこんでいると、急な便意が襲ってきた。そういえば昨日の夜から出していない。

 

 

 

『サンクチュアリ-聖域-』考察・ネタバレ・レビュー・解説

おそらく、多くの若い世代にとって謎に包まれている日本の伝統的なスポーツ、大相撲。子供の頃から身近であるようで、裏舞台をあまり知ってはいない。何か厳しい指導があったり、強固な上下関係や破ってはいけない伝統がありそうで、ちゃんこを食べている。そんな漠然としたイメージに、時津風部屋の事件や八百長などもニュースで目にしたことがある。相撲とはなんだろうか?——

サンクチュアリ』の物語のフォーマットは、主人公が身辺の苦難に耐え、過激な特訓を自らに課し、いくども挫折を味わいながら、不屈の闘士と根性で乗り越えていく、まさにスポ根ものだ。言ってしまえば大衆的な味付けで誰にとっても見やすい。テンポよくシリアスと笑いのバランスをうまく取りながら、1話ごとにクリフハンガーを利用し、1日で見切ってしまう人がほとんどだろう。Netflixという媒体は利用者の8割が20代〜40代であり、また世界的プラットフォームでもある。彼らの目に相撲はどう映るだろうか。いずれにせよ、この『サンクチュアリ』によって大相撲を取り巻く“伝統”に最も明るくスポットが当たった出来事だろう。物語が始まって比較的早い段階で帰国子女の国島という女性記者が登場する。彼女は、まさに相撲をあまり知らない観客目線を担っている。稽古の中で起こる暴力性、女性蔑視的な伝統、陰湿ないじめ、これらに拒否反応を示す。実際、相撲を舞台にしてスポ根をやる以上、どうやっても慣習や指導において時代錯誤な描写がついてくる。この物語に相撲の異常性を告発したい意図は無く、むしろ最初にクリアにしておくために国島というキャラクターによってある程度問題視しておくのだ。観客は国島と一緒に相撲界にある暴力性や世界観を受け入れていく。

 

観客にとって登場するキャラクターに愛着が持てるように設計されおり、権力や立場を利用した陰湿な攻撃を行う敵対キャラクターにも因果応報として罰が与えられ、緊張と緩和を繰り返しながら時代錯誤な現場を認められるように制作されている。無論、国島もしばらくすると何も問題視しなくなる。わざと金的を行っても土俵に立てるが、すぐに2度目の出稽古で借りを返す。戦意を喪失した猿桜にとどめを刺した静内にも罰則は無いが、静内の悲惨な幼少期をたっぷりと見せ麻痺させる。記者会見の間にトイレで吐く龍貴は、その家に生まれたことの重圧からは救われないが、妻の弥生が一族から逃げ出せたこと、龍谷親方がいかにもな新興宗教の信者であるような描写があることで、哀れなキャラクターとして消化させている。たしかに“しごき”という名の暴力は日常的に行われている。竹刀を使って指導する親方の姿も、後輩を馬乗りで殴る先輩力士の姿も、今日のTwitterでは炎上して平常運転だが小瀬という主人公が元々暴力的であることでバランスを取っている。

伝統を重んじる大相撲にも権力・金・女がついて回る。力士があまり女性経験がなさそうであることは猿河のユーモアと通して描かれるが、小瀬の色恋メロドラマと若手実業家(というよりYoutuber的だが)との金の付き合いについては一際チープさが目立った。財布を盗まれ、舎弟のような扱いを受ける程度で良かったのかもしれないが、サブプロットとはいえ、もう少し社会問題について考察された至難であるほうが、相撲という独立した世界観のシリアスさには寄り添えるのでは無いかという違和感は否めない。

ともあれ最終話の壮大なクリフハンガーは、続編が検討されていないはずがない。馴染みある相撲の、エンターテインメント的に魅せる裏側とスポ根スタイルで、日本での人気は上昇中だ。一方、海外からは賞賛の声も多いがレビュアーからの評は芳しく無い。おおむね、問題定義への回答やチープさが指摘されている。こういったフィードバックを利用して、より白熱できて成熟した相撲ドラマを制作してほしい。そして、ドラマを通して最も強く受け取ったことは、横綱になることはいかに厳しく険しい道のりかである。ここについては意見が分かれないはずだ。猿桜が横綱として土俵に上がる時、いつかその瞬間を我々が目撃できるまで、製作陣は絶対に人気を衰えさせてはいけない。