sugroupの考察したがりマンブログ

すぐに忘れてしまうから書いて覚える。

LOOP HR 「孤独の鳥居」のレビュー・考察

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LOOP HRというバンド(ユニット)が、島村楽器主催のライブコンテストに出場した際に「孤独の鳥居」という曲を披露した。この映像は島村楽器が記録したものなのか、はたまた客席からか定かではないが、ニコニコ動画に転載されたものを数年前に初めて目にした時、それはもう、笑った。

インパクトが強すぎて、どこに突っ込めばいいかわからない。<コードの機能>をまるで無視したように展開し続け、ギアチェンジしていく車のエンジン音のようなメロディーと、奇想天外な歌詞と語呂合わせ。

これがYoutubeに転載されると250万再生だ。そのほとんどが「下手くそだから」と面白おかしく笑っているのだろう。自分も最初はそのうちの一人だった。

今年に入ると、なんと余計なアレンジは一切なくレコーディング、MVの公開という面白い動きがあった。見てみると、映像のクオリティはそこそこ高い。外国人が取るJapan filmographyといった感じのグレーディング、バックグラウンドはヤれた“和”、シュールなスローの使い方、冒頭のボロアパートと軽自動車、二人の<世間一般的>から極めて逸脱しているような雰囲気。撮影はかなりシンプルに行われているはずなのに、それと全く比例せず不明瞭な情報量が多く、非常に思考させてくるのだ。

 

『孤独の鳥居』とはアートなのか?

 

無論、これはアートである。

マルセル・デュシャンが1917年に制作した芸術作品、『泉』(いずみ、Fontaine)というものがある。最古の<現代アート>として世界的に有名なこの作品は、磁器の男性用小便器を横に倒し、"R.Mutt"という署名をしたものに「泉」というタイトルを付けただけのものである。

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つまり何の変哲もない、ただの便器でしかないから「これはアートではない」と一刀両断される。しかし、それが美術館に並ぶと「これはアートか否か?」と観客は議論する。ただの便器とどう向かい合うべきか、その意義を考察する。『泉』の持つアート性とは、人々に議論させるという一点に尽きるのだ。

 

それでは『孤独の鳥居』を全く前情報無しで、観た時に人々はどんな感想を持つか。一体彼らが何故こういったスタイルなのか、これは天然なのか狙いなのか、二人は何者でどんな関係なのか、歌詞は何と言っているのか、真面目なのかふざけているのか。誰かに見せて感想を聞きたい、そして「面白いでしょ?」と誰かと考察したい。何も無い場所に議論する意義を生み出した時点でアートだ。

 

『泉』が巻き起こしたアート性のギミックはシンプルなものだが、『孤独の鳥居』を体感した人々の反応は、Youtubeコメント欄をフィールドに繰り広げられ、それらは3層に分かれている。

まず1層目は、シンプルな酷評。ポピュラーミュージックとすれば音楽的感性からかけ離れているし当然の反応である。

2層目は、「ドラムとベースが最高」などと面白おかしく酷評する。

3層目は2層目の流れを汲んで評論家然としたスタイルで筆とる大喜利合戦。

 

YouTubeコメント欄抜粋

“人類には早すぎる動画”

“人類が理解できる範囲の遥か彼方にある。 5億年後くらいに流行ってそう”

“現代音楽よりも先”

“これが現代音楽の最先端か。 人は日々進化してると感じさせてくれるいい動画、曲に出会えた。”

“なんか、普遍的なロックポップスをやったあとにこの形に行き着いたのだとしたらもの凄く興味深い”

“この人たち見てから一生懸命な人を笑うなって言わなくなりました”

 

人に考えさせる機会を与えるものはアートなのである。そして、<どう皮肉るか>というある種の娯楽性を与えていることが彼らが彼らである理由なのだ。それを意図しているかは別として。

 

音楽的に言って美しいか?と問われると、ギターも歌も美しくは無いが、もちろん美しく聴きやすいものだけがアート(音楽)ってわけでもないのも事実だ。『孤独の鳥居』について何よりも考察すべきなのはこのメロディー(歌)だ。まるで音階が無く、エンジン音のようにうねうねと繰り返す。日本語として訳のわからない語呂合わせで聞き取れず、真面目に聞くのは非常に堪え難い。しかし、なにもこのような<メロディーを軽視する音楽>が今までに無かった訳では無い。そもそも<メロディーを軽視する音楽>とは登場する度、音楽史を変えてきた。それらはFUNK、HIP-HOP、PUNKだ。それらがどうポピュラーミュージックの歴史を作り、時代を作ったかは長くなるため割愛するが、新しいものが生まれる時には何かが壊されるという構図は繰り返されており、『孤独の鳥居』でも例外では無いはずだ。

 

 

果たして、『孤独の鳥居』は新しい何かになりうるのか?

 

 

非常に難しい問いである。FUNKもPUNKもHIP-HOPも社会問題、人種問題、貧困、マイノリティーなどあらゆるバックグラウンドと絡み合いながら発展してきた。しかし彼らに、それらしき社会的メッセージやメタファーは見られない。ただただ、わけのわからない音楽なのだ。ある意味、似たり寄ったりビジネスライクな<閉鎖的なJ-Popというフィールドを皮肉っている>という見方もあるかもしれない。

 

はるか昔、人間は完全8度,5度だけが協和音と認識していて、3度を足すと不協和音とされていた。時代と共に3度を用いたマイナー・メジャー(短調長調)が用いられ、いつのまにかセブンス(7度)が足され、テンション(9,11,13度)が足され、不協和音とされていたものが今は心地良くなっていることを見ると、人間の耳は進化しているという事実を否定できない。

70年代以降は打ち込みーグルーヴの無い音楽ーが現れたことによりポピュラーミュージックは主にリズムの再解釈で発展している。それが現在進行形であるこの現在に、リズム・メロディー・ハーモニーの音楽三大要素を崩壊させギリギリ音楽だと言える次元で放つ彼らの音楽をどう楽しむべきかが人類の課題かもしれない。

500日のサマー/彼女は小悪魔じゃない 考察・批評・レビュー

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映画が本当に好きなんです、と言っても、いつになっても手をつけてない名作映画が沢山あって、“え?観てないの?”みたいな劣等感に駆られながらもその映画を観るタイミングは出来る限りナチュラルに訪れるほうが自分にとっていい映画になるはず。観たい時にふと、観たいものを観ると、実生活とどこかリンクし易くて自分の迷いや不安にヒントをくれる。何かに強いられず出会うのがいい映画生活だと思ったりする。

 

もう10年近く前の映画になる『500日のサマー』。ジョセフ・ゴードン=レヴィットの主演する映画で観てなかったのはこの映画だけで、今になって10年前のジョセフ・ゴードン=レヴィット観ると、撫で肩で草食系な出で立ちに少し違和感があったりして。『素直になれなくて(2010/フジテレビ系)』の、俳優ー瑛太を思い出したりした。当時はすごい草食系ブームだったのも同時に思い出す。

 

さて、映画の話。

iTunesのダウンロード配信で観た。f:id:sugroup:20181119213909j:image

iTunesの映画詳細には“時間軸を錯綜する複雑な構成ながら”とあったが、時間軸が変わる前には必ず『◯◯◯日目』と表示が出るから、額縁の角度で時間軸を予測しなければいけない『裏切りのサーカス』に比べたらベリーイージー

そんなことよりもヒロインのサマーがリアルすぎるでしょう。

サマーを観て、「小悪魔だな」なんて言っている男がいたらそいつは本当に鈍感で受け身で単純な男だと思う。

女の子にとって、自分のことを好きな人がいて、だけどこっちは好きじゃない、でも生理的に受け付けないわけじゃないしLIKEではある。それなら仲良くしたいに決まってる。そんなふうに女性として自信を保たせてくれるような人を拒む理由も無い。故に、LIKEな関係が続けば続くほど永遠に平行線なLIKEな関係。

でも男はどんどん熱を上げすぎてあらゆるLIKEの要素の中にLOVEを探し続けてしまう。なんでなの?どうしてなの?の繰り返し。

気づいたら女の子はサラッと恋人が出来たりして男は絶望の淵。「でも、こんなこともあって、あんなこともあって」って誰かに相談しても「それもLIKEのうちだよ」って納得できない答えを乗り越えられない。サマーのように大胆にキスしたりセックスしたりがLIKEのうちなのかは人それぞれ違うけれど、いや、LIKEとLOVEと境界線というのは本当に複雑なんでしょう。男はそれをシンプルに考えすぎなのである。

あんなに思わせぶりしてしてきたのに叶わない。彼女は小悪魔だ。違う。彼女は仲良くしたかっただけ。自分のことを好きだとわかっている相手に恐怖心なんて無いし、嫌われることもない。「私のこと好き?」みたいな質問もできるし、大胆に触れ合ってみたりもできる。だってLIKEだから。

そんな風に自分にゾッコンの男の子から女性として思われる時間は楽しいはずだし、自信にも繋がって悪気があるわけじゃない、ただ仲良くしているだけ。

もっとゆっくり、慎重に、タイミングを見て嫌われないように接して、照れたり緊張したりするとしたら、それは本当に好きな人だから。トムが知らないサマーの顔なわけですよね。

 

こんなふうな関係、今も世の中のそこらじゅうにあるでしょう。男女問題の根本は何年経っても色褪せない。いままさに渦中にいるそんな人が『500日のサマー』を見てみたら、あの子が好きそうな髪型も服装も少しだけ自分らしく戻してみて、トムがオータムに出会ったように、前に進めるのでは?

 

っておもいました。

崎山蒼志/五月雨《誰かが言葉にできずにいること》レビュー・考察・

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芸術家は弱い。敏感に反応し、人が感じないことを感じ、ごく普通のことが苦痛だと感じたり、傷つきやすい。これらが慢性的だ。そうした弱さは理性の及ばぬ領域にある。これは本能的で、言語という知的能力を失い、なんとも言い難く言葉にできずにもがく。

芸術家はこれを精神表現、芸術とする。芸術表現の術を持たぬ人、あるいは芸として精神表現するに至らない、いわるゆ普通の人が偶発的に<自らの弱さの居所を探す>とき、それを正確に表現する芸術に出会えると、人は救われる。人は第一に極めて個人的なことを芸術に期待している。芸術家たる所以は、弱さの表現であり、それがどれだけ普遍的で個人的かに尽きる。

 

崎山蒼志が、16歳でどれだけ人生経験を積んでいるかは重要では無い。彼の身の回りの出来事、社会、自分の心に、敏感であるか?ということだ。彼の人生の中で起きた小さな出来事は個人的なことだが、自らの心が卒倒するような弱さの根源を、彼は普遍的かつ的確に表現する。

『五月雨』の歌詞の「あなた」は、崎山蒼志にとっての「あなた」ではない。彼が詩う、「意味のない<僕ら>」、にとっての「あなた」である。

年齢も経験も歌唱力も見た目も、なにもかも吹き飛ばして多くの人の心を掴む彼の音楽は、「僕ら」が言葉にできずにいる心の情況そのものであり、崎山蒼志は歌手でもシンガーソングライターでもなく、芸術家なのである。

 

枕を簡単に洗えると思うなよ?

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過去最高気温の記録を各地で塗り替えるほど猛烈な酷暑だった。今年の夏の良かったところと言えば、洗濯物がパリッパリに乾くことくらいだ。敷布団や、7月に買ったばかりの枕は、天日干しを頻繁にして、直射日光の力に頼りながらの寝具ライフであったわけだ。

9月上旬、ようやく残暑の影も潜め、雨の日が続いた。開けっ放しにした窓から少し秋の匂いがする風が吹く朝、外をトラックが通り過ぎる音で目が覚めた。今日も雨だ。ここ一週間は雨が続いていて枕の天日干しもできていない。枕は洗濯機で洗えるのだろうか。目覚めたばかり、半ば寝ぼけた状態で枕の洗濯表示マークを見てみる。よくわからないが、ネットで調べると、どうやら洗えるみたいだ。

 

“なんだあ、洗えるんだあ🤪”

 

この時を振り返り今はこう思う。

寝起きと同時に枕を洗濯機に放り投げスタートボタンを押す。はたせるかな、一抹の不安はおおよそ10分後に姿を見せる。あの時、まずは顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを食べ、考えるべきだったんだ。枕は洗濯機で洗えるのか、とーー

 

<すすぎ>の段階で、異変に気がついた。それは洗濯機から出る音として聞いたことのない音。ーーまるで去年の夏の終わり、親友と行く当ての無いドライブの末にたどり着いた、飲み込まれそうで真っ黒な九十九里浜の波が打ち出す轟音、それと似ていた。あの時僕ら二人は、波はこんなに黒いのか、と季節外れで荒れた波を眺め、“飲み込まれそうだ”と呟いたら、肌に纏わりつく潮風に背中を押されるが如く、10分足らずで立ち去ったーー木箱に小豆を入れて動かしたら、波の音がする。それは簡単なギミックだが、フォーリー・アーティストという存在の認知として一役買った。まるで関係性の無い物同士が、アイディア次第で同じような音を鳴らす。耳の職人、卓越した類推能力が成せる技だ。それが、我が家の洗濯機の中で起きているという事実だ。洗濯機の蓋を開ければ、枕の袋は破れ、透明なビーズが雪化粧のように洗濯槽に溢れていた。自分の愚かさに憤慨する余裕もない、針の筵のような気分だ。

 

もうだめだと思ったね、取り除けても、どこか内部のほうへ入ってしまっている分は、どうしようもない。詰まってオシャカさ、不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまったんだよ、と言い聞かせる他なかったよ。自分の行いを恨んでも、保障するのは自分さ、運のせいにしてごまかしたんだーー

 

「洗濯機 枕」と検索ボックスに打ち込むと、まず予備候補に出てくるのは「破裂」「故障」。検索ワードの候補は、検索件数が多いほど上位表示されるはずだし、即ち「方法」「やり方」は調べずに失敗しているようだ。同じ愚か者が世の中に多く存在する。過信による過失で、「やってしまった」と気づいた頃にベストアンサーに縋り付くようだ。論ずる余地もなく、自分も同じ括りである。

Webに覚え書きされた愚か者たちの経験談は実に虚しい。買い換える以外に無いから、至極当然、覚え書きは力の無いボヤキ程度でしかない。

今回、天に召された洗濯機は、4年弱前に購入した。洗濯機の寿命は平均8年と言われている。2018現在、人間の平均寿命は約80歳であることから、例えれば、40歳程度で亡くなった、ということになる。働き盛りで、若すぎる死。

業者に頼んで、洗濯機ごと分解し修理することもできるようだが、3万円程度かかるらしい。そもそも3万円程度の洗濯機だ。治ったとして本当に8年も生きるのか怪しいところ。多額な延命処置を業者にお願いすることは、できなかった。理屈だけで洗いきれない選択は、早々に新しい洗濯機が居座る輝かしい光景にすすがれ、心の排水溝へと脱水されていく。

 

それから2時間後。私は今、家電量販店にいる。洗濯機売り場の近くにある丸いテーブルで、担当のお姉さんと話している。配送の日程や、配送料、運び入れるマンションの動線などの確認だ。

 

「古い洗濯機はどうされますか?」

 

一瞬、その姿が頭に浮かび、その刹那、“古い洗濯機”が新しい洗濯機として運び込まれた4年前のあの日を思い出した。この4年間は自分の人生設計としてもあらゆる選択を迫られた期間だった。毎晩、暗い顔で帰る顔を見上げていたのは、家に入ってすぐの場所に置いてある貴方だった。ほんの数週間前、重要な決断をした私を見届けるかのように潔く去る貴方に、そして新しい洗濯機に

かんぱぁぁーい😜🍻

『この世界の片隅に』が纏う生身の感覚。考察・レビュー

劇場公開を見逃した。というより、見送った。

あろうことか日本の長編アニメに無知なあまり、映画ファンとしてご法度の<先入観で価値を決めつける思考不足>で、いつかのソフト化で観ればよいと見送ってしまったのだ。

この世界の片隅に』が劇場公開された頃、ちょうど『君の名は』ブームに重なっていた。少し調べていればどれだけ劇場で見るべきだったかわかるはずだったが、『ジャック・リーチャー』や『ジェイソン・ボーン』『10 クローバーフィールド・レーン』で頭がいっぱいだったその頃、口の中がアメリカ映画になっており、『君の名は』(内容に批判的ではないが手放しで称賛もできない)のような、<みんなが良いと言えば良いもの>という批判できぬ風潮、全国的な同調圧力だろう、という先入観で<今年の日本の長編アニメ>として一緒くたにし、『世界の片隅に』を見送るという非常に無知極まりない愚行に陥った。というか近年は少し批判したら世界を敵に回してしまうようなダメと言えぬ同調圧力が凄まじい流行り方の映画が目立つ。

 

そして2018年某日。公開から約2年。Netflixに新作映画がたくさん追加されていたこの時、『この世界の片隅に』も追加されたことを知る。ただ、それでも同時に追加されたジョセフ・ゴードン=レヴィットの『スノーデン』を先に見たのだが。それに加えAmazonの『高い城の男』見たり『中間管理職 トネガワ』を読んだりと、一通りリストを消化下あたり、箸休めにさて次は何を楽しもうかと悩んだ時“5分だけ見て決めるか”という、あれほどの名作に対して失礼極まりない...正に愚の骨頂な態度で『この世界の片隅に』を再生した。

 

たった5分で引き込まれたのは言うまでもない。戦時中は知らない。戦後間もない国の雰囲気も知らない。高度経済成長期も教科書の中の話、バブル期の実感も無い。そんな90年生まれが心苦しくなるほど“あの時”感を抱く。ノスタルジーでもヒストリーでもない、あの時。

 

東日本大震災は21歳の頃で、東京とは言え、確かに経験者だ。だから“あの時”を語れる。YouTubeに溢れる映像や、毎年ニュースで繰り返される“震災の記憶”とは少し違う。

あの時の感じ。例えば何度も何度も繰り返されるCMの心地悪さ、普通を装いながら、どこかぎこちないやり取り。電車で向かいに座っている人も、なんだか他人じゃないような感覚、日本全体が暗いムードで、言葉を選びながら過ごしていた、震災時の空気感。

こういったあの時感はどう語っても、その時を生きていなければ肌に感じることは難しい。

 

難しいはずなのに、『この世界の片隅に』は戦時中の空気感を、肌に感じるように表現していく。

人前で泣くことが反戦になるから、隠れて泣くのか。戦争が正義だと信じていたのか。憲兵隊のやりとりは何だかスズと同じように騙されて、蟻の列が砂糖まで繋がっているような気がして、もう爆弾は落ちないから魚も浮かないと冗談めかし、防空壕の中でキスをする瞬間もあって、戦死をおめでとうございますと言って...。

文にするだけなら、今を生きる若者として想像できない感覚なのに、感傷的に誇張されることなく、ごく自然な日常として描かれていく。あの時こうだったと、その時生まれていない自分も語れるような気がするほど、異常と日常の感覚を狂わせる。

 

アニメだとしても、劇中の出来事はどうしたって僕らの生きる現実と地続きの世界である。故に、戦争で何が起きたか知っている僕らは、彼女たちの身に起きる未来を待つ事しか出来ず、居た堪れない気持ちで見守るしかない。

『向こうは空爆が少ないから、広島へ帰んしゃい』

出来る事なら画面の中に飛び込んで叫びたい。行っちゃダメだと。

 

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スズはどんどん大切なものを失っていった。絵を描くことも、スズの子供的な一面を支えるあの子も。スズほど明るく生きる才能に溢れた人を、あんな風に感情的に独白させてしまう戦争は...確かに残酷だ。残酷なのはわかっている。誰もが小学校から勉強してきた。大人になっても戦争の悲惨さを伝える番組や映画も幾度となく見てきた。そうじゃない。戦争が残酷だとか、必死に暮らしてた人がいるとか、そういうありふれた形式(一般的で画一化)は、もはや現在では若者にとって他人事だ。伝言ゲームの激化し、あらゆるコンテンツが個人の時間を奪い合う現代に、2時間の時間を費やし身を乗り出して感じようとする姿勢を作り出すには高いハードルがあるが、戦時中の空気感を生身で体感したかのよう感覚が、上映たった5分で脳内に染み渡る。

 

完璧すぎる快作ローガン・ラッキー 考察・批評

オーシャンズシリーズ(11,12,13)のスティーブン・ソダーバーグ監督最新作、「ローガン・ラッキー」。ソダーバーグの絶対に外さない構成力、編集力ーー編集を兼任する場合が多いーーで毎作一定水準を超えてくれる安心感もありながら、オーシャンズシリーズ以来のケイパー映画(チーム強奪)となる今作は、オーシャンズファンならば2018年公開「オーシャンズ8」よりも注目すべき作品といっても過言ではない。

 

オーシャンズシリーズよろしく、巧みに計算された綿密な強奪計画に加え、随所にギャグを挟みながら、テンポ良く展開させる。その重要なファクターとなるのがキャラクター造形だ。

 

絵に描いたようなブルーカラー感溢れる設定のジミー・ローガン(兄)と、精神不安定で義手のクライド・ローガン(弟のバーテンダー。以下クライド)は、そんな観客の第一印象に強烈なアッパーをかますかのように、マックス・チルブレイン率NASCARチーム3人を一掃する。ジミーの強靭な戦闘力もさることながら、まるで日課であるかのような手際の良さで火炎瓶作製から投下まで流れるようにこなすジミーにも心を掴まれる。

気になるのが、彼らが語る“ローガン家の呪い”だ。これだけ連呼するならば、その“呪い”がどこかのプロット上ーーあるいはストーリー展開上ーーで何らか影響を及ぼすに違いない。

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ダニエル・クレイグ演じる爆弾のプロ、ジョー・バングも最高のキャラクターだ。いかにも悪そうな見た目から、壁だろうがビルだろうがド派手に吹っ飛ばしてくれると思いきや化学反応を利用した爆薬で、さらには方程式を壁に書き連ね、全く似合わない偏差値で笑わせてくれる。そのくせ仲間へ渡す爆薬の説明書は“1を2に混ぜる、2を3に混ぜる、3を4に混ぜる、逃げろ”という見た目通りの大雑把さだ。緩急が効いていて素晴らしい。

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強盗・強奪映画は山ほどあれど、リアルでコミカルで効率よくテンポよく、そして地味に斬新なローガン・ラッキーの強奪作戦は見事に秀逸だった。POSシステムをダウンさせるのは初めて観た気がするが、標的となるレース上の収益を現金化するだけでなく、さらには販売情報管理が曖昧になったことから、強奪金を返却して自体を収束させるーー実際はピンハネしているため強奪成功、POSの件により損害金が不明確、さらにはサーキット経営者は盗難保険の悪用で一儲けーーことにまで繋がると一頻りの満足感がある。吸引機でお金を吸い上げる絵面もチープなギミックなのにバサバサと吐き出される絵面がこちらのストレスまで解消してくれるような感覚だ。

ラストでは、時期を見てお金を掘り起こし、ジミーのバーに集まり楽しく飲んでいるが、ジミーがお酒を注いだ一見さんはFBI特別捜査官のサラだった。最後に悲惨な目に合うローガン家の呪いは健在というオチでスッキリ着地。

 

 

 

 

さて、ここまでは割とライトな感想としつつ、映画職人ソダーバーグのもう一段階深いメタ的なところまで掘り下げたいと思う。

まずは刑務所についてだが、中で起きている事件・事故などをとにかく隠蔽しようとする所長の姿がしつこく描かれる。権力者、社会上層部が、既得権益やその地位を守ろうとするばかりに起きる事なかれ主義体質への社会風刺だ。

サーキット経営者が、犯人への処罰よりも保険金で儲かるならと告訴を取り下げるのも、然るべき処置と損得を天秤にかけてしまう点もそうだ。盗んだ側も捜査の手が及ばず、盗まれた側も得ならwin-winで良いのかもしれないが、こういったパターンは、類推するとフォードピント事件や三菱リコール隠しと、根源的な思考回路は変わりない。

所長も経営者も最終的には強盗を手助けする形となり、現代社会を皮肉る結果となっている。

 

劇中のテーマ曲、カントリーロードが物語るウェストバージニア州を舞台とした今作は、アメリカの激化する格差社会について考察されている。アメリカ企業では従業員とCEOの給料が一時500倍にも格差が広がったように、一部の金持ちとその他大勢の貧困層という構図は社会問題だ。中流階級でさえ、一度職を失えば一気に貧困層へと落ちてしまう。クライドはラグビー選手から怪我で引退、ジミーはイラクで腕を吹っ飛ばされバーテンに。田舎町で、NASCARサーキット上の下で作業したり、二人と対照的な人物として、キャラクターとしてセレブな元妻の夫や、所長などが配置されていたりと、これでもかと丁寧に格差社会を舞台にしている。

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弱いものが強いものに立ち向かうーーあるいは強かったが弱くなったところからの大逆転劇ーーのは映画の中ではそれが面白いのだから当然と言えば当然だか、なるべく登場人物を取り巻く状況に現実と重ね合わせることができるとよりロマンがある。落ちぶれた奴らの大強盗計画ほど面白いものはない。結局ローガン家の呪いでダメでした、とはならずあくまでもハッピーエンドとして終わるが、その呪いのオチどころも想像させるから上手い。映画のその後を想像すれば、所長も悪質な運営の仕方は公になり処罰を食らうだろうし、そこまで悪者じゃなかったが元妻の再婚相手も最新のマスタングをボロボロにされるというほどほどに抑えた仕打ちも

いい塩梅。

NASCARチームのオーナーのマックスも、落ちこぼすことなくオチをつけていて完成された脚本と編集だった。

 

綺麗に全てをまとめあげて、終わるべき所でサクッと終わる。完璧な映画じゃないか!

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この映画なんでダメなのか。映画『すべての終わり』レビュー・批評

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ネタバレでございます。

 

 

 

Netflixオリジナルフィルムとして7月13日に公開された『すべての終わり』。『ダイバージェント』のテオ・ジェームズやフォレスト・ウィテカーが出演、製作・製作総指揮には『デッドプール2』や『アトミック・ブロンド』のケリー・マコーミック、『アトミック・ブロンド』のニック・メイヤー、『その女諜報員 アレックス』のタイ・ダンカン、ポール・シフなど、編集には『IT イット』や『華麗なるギャツビー』からジェイソン・バランタインが参加している。

 

と、面々を見ると中々な良作が生まれそうであるが、実際に見てみると最悪の一言だ。

というかこの映画、企画は2011年に立ち上がっており随分と長い期間を経て公開に至っている。実はこの映画の脚本は2010年に“ブラックリスト”入りしていた脚本だったのだ。非常に優れた脚本なのに、中々映画化されなかったり企画が頓挫したりと眠ったままの脚本はハリウッドでブラックリストと呼ばれ、映画化が非常に難しい作品が多い。このブラックリストから映画化まで漕ぎ着けた作品は多く賞を受賞しており、ブラックリストに挑む製作陣という視点も見所の一つである。『スラムドッグ$ミリオネア』『ソーシャル・ネットワーク』『セッション』『レヴェナント:蘇りし者』『スポット・ライト 世紀のスクープ』などもブラックリストからの映画化で、特に映画不可能と言われた大傑作『プリズナーズ』もブラックリスト入りしていた脚本だ。

『すべての終わり』がこんなにも長い期間を経て世に出たのも頷けるが、この長い期間というのは非常に危険である。

マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケネス・ロナーガンは前作の『マーガレット』で、2005年に撮影終了したにも関わらず、製作陣側と折り合いがつかずに6年間も編集を重ね最終的には何が正解かわからなくなり意味のわからない作品と酷評されたのは有名なエピソードだ。彼はその時の自分を“間違っていた”と猛省したらしく、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』という傑作を生むのだが『すべの終わり』にも同じような匂いを感じざるを得ない。

脚本のリライトなのか、度重なる編集か。意味の無いシーン、無駄になったプロット、中途半端な登場人物のオンパレードだ。

 

映画の基本的セオリー“三幕構成”の二幕入る箇所は、おおむね全体の1/3程度で上映から30〜40分くらいの場合が多い。一幕で主人公の紹介や設定、時代背景、状況説明などを終えた後に非日常に突入する所からが第二幕である。この第二幕の入ったくらいで初めて登場する人物は物語上、重要なキーマンとなるのだが、本作の場合は女の子のリッキーだ。

リッキーはこの腐敗した街から逃げ出したい、対してウィルとトムは車の整備が出来る人材を必要としている。利害が一致し長い旅路を共にするのだから当然ここにドラマが求められるはずだが、リッキーは突然発狂し姿を消すと、なんとそれ以降登場しない。いったい彼女は何のためについてきたのか。

まず“世界終末化した状況からの脱出・解明”がメインプロットになるわけだが、サブプロットとしてウィルとトムの関係性のドラマがある。

例えばリッキーの存在が二人の関係を好転させるきっかけとなったり、二人がそれぞれに抱いていることの聞き出し役としても機能するであろう。それでなくても、ウィルとトムとの関わりによって成長したリッキーが終盤に登場して二人の手助けとなれば、少しは腑に落ちる。あんな風に全く使い物にならないし可愛くも無い女の子が、そのまま消えるだけなんてどうかしてる。

 

目玉の配役、フォレスト・ウィテカーだが、早すぎる。何が早いか。トムというキャラクターから、ただのフォレスト・ウィテカーになるまでだ。冒頭、トムが見せた娘彼氏ウィルへの厳しい態度はどこへ行ったのかと思うほど、普通にあれはフォレスト・ウィテカーだ。中の人が画面にいるだけだ。ウィルも早々に『いくぞ相棒!』みたいなテンションだから、サブプロットのドラマが崩壊。

おまけに、リッキーの失踪、トムの死、数々の困難を乗り越えてきたのにウィルの成熟度は変化しない。

なにより『クローバーフィールド』のように断片的に聞こえるラジオ放送などで混乱した状況で覆い被せ、真実にナビゲートしようとしているに何故かウィルはこれに関わろうとしないのだ。

例えばゾンビ映画は、ゾンビ化した“根本的な理由”に意味がない。終末化した世界の中での人間ドラマをメタファーとして描くからだ。だから根本的な解決は必要ない。

ただこの映画は終末化したところでコミュニティを作るのではなく、クロスカントリーロードムービーとなっている。つまりどこへたどり着くか。すなわち、たどり着いた先にどんな答えがあるか、が重要になるのだ。

ウィルは断片的な情報、目の前にある状況から世界に何が起きているか追い求めるべきなのに、どうして傍観ばかりしているのだと、嘆かずにはいられない。

ウィルの職業弁護士に意味も無く、その弁護士の唐突なドライビングテクニックや、元海兵隊とはいえ肋骨が折れ肺に穴を開け、挙句ギャンギャン走り回る車からの超高難易度な射撃を成功させるトムにも頭があがらないが、困難を乗り越えてたどり着くポーラ(ウィルの婚約者)のもとで起きるラストも本当に意味不明だ。

ご近所さんと呼ぶ男の家でかくまってもらっていたみたいだが、この男の中途半端すぎるサイコキャラは何だったのか。

それよりも映画も残り15分程度といったところで、突然の新キャラだ。意味ありげにポーラへの好意を感じさせたり、ウィルへの敵対心を見せたり、陰謀説を唱えたり、ウィルの車を物色していたり。さらには“森に子供がいる”というウォーキングデッドのシーズン2を見ているかのような安い誘い出しで案の定、ご近所さんはウィル殺害を試みるが、ウェスタン弁護士仕込みの早撃ちに合いあっけなく死亡する。この人物が何者だったのか、ポーラと何かあったのかは明かされることなく、そそくさとウィルの敏感なアンテナが世界の異変を感じ取り、迷いもなくポーラを連れ出し脱出。凄まじい土ボコリが襲いかかってくるのがわかると映画終了。

 

 

そして、Netflixそっ閉じ。

 

ガソリンを探して先に進むゲーム感、クロスカントリー的なのにキャデラックというギャップ、ガスマスク着用でのマッドマックスなヒーロー感など、面白くなりそうなピースが散らばっているのに、なんとなくで消化していくのが惜しい。

とにかく、傑作になりうる要素があるのに、ことごとくハズしてくる。予告編と内容が全く変わらない、言うなれば長編予告編である。

監督自身も本当に納得のいく結果だったのか疑わしい。

なんにせよ、大概こういう結果の次に撮った映画は、頗る面白くなって賞レースに絡んだりするから次作を楽しみに待っている!