sugroupの考察したがりマンブログ

真面目だったり、真面目っぽくふざけて書いていたりする。

『このサイテーな世界の終わり』ちゃんと考察してよ!俺はちゃんと考える!考察・解説・レビュー

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腹立たしいのは『このサイテーな世界の終わり』と検索すると「サイテー水準なドラマ、酷評」なんて書くサイテー水準なブログ記事が真っ先にヒットしてくること。サイテー水準と感じるのは自由だが、なぜそう感じるかきちんとアナライズせず否定的な単語だけだけで語る。「プロットが意味不明すぎる」「悪趣味極まりない」と書くのはいいけど、何が何でそうなのか、全く考察されていないし、“混沌”とか“プロット”とかそれらしい単語は使いたいだけで、必要無い文書にねじ込むだけの偏差値の低さである。どんな見方をしたらこんな低レベルなレビューが出来上がるのか?もしかして書いている人は笑えるものだけがコメディだと思っているのか?こんな素晴らしいドラマを、ビギナークラスの小遣いブログで判断されてしまい鑑賞を躊躇ってしまう人がいたらそれは本当に勿体ないし悔しい。こんなもの評とは言わない。F***ing小遣いブログって感じだ。

 

 

Netflixにて製作された、『The End of the F***ing World(このサイテーな世界の終わり)』という随分過激なタイトルは、イギリスのグラフィックノベルのドラマ化だ。17才のジェームスとアリッサの逃避行を描いたもので、20分前後のエピソード全8話で描かれた。犯罪を繰り返しながら男女二人が逃避行するロードムービーと言えば、やはり名作『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde/1967)』トゥルー・ロマンス(True Romance/1993)』を思い起こす

『このサイテーな世界の終わり』は二人がティーンエイジャーなのがミソだが、メリッサが「これが映画なら、私たちはアメリカ人ね」と語ったように、環境に恵まれず大人や法に対して反抗的なメリッサと、サイコパスだと自己診断しているジェームズの旅は、反体制的な心情を描くアメリカンニューシネマ的な側面も持ち合わせている。メリッサの母親と義父はあの通り利己的で虐待体質で愛情が無いし、ヒッチハイクで二人を拾った男はチャイルド・マレスターで、モダンな家の住人は猟奇殺人者、それを嘘や隠蔽で守る母親といった具合に、非道徳的な登場人物に象徴される少しばかりの社会風刺だ。ジェームズやメリッサのうような青年少女が生まれてしまう原因は何かという考察も行われている。それと付随して、こんなサイテーな脇役たちは、二人が逃避行で重ねる罪を情状的に軽くする役割も担っている。

しかし、「このサイテーな世界の終わり」が描こうとしているものはそういった反体制的な社会風刺がメインではない。といっても、はっきりと「これはこうだ!」表現するのが非常に難しいドラマなので、回りくどく聞こえる事はご理解頂きたい。

ジェームズが猫を殺したり、アリッサを快楽殺人のターゲットにしていたことや、車を盗み住居侵入や盗みを繰り返していくこと、そして一つの殺人に関わる事、これらはものすごく誇張された行動だが、実はティーンエイジャーにとっては普遍的な、誰しもが向き合う青春期ならではの不安定な心の闇である。

メリッサは言う。「こう言う時大人はどうするの?」。彼らは未熟だし、感情を反射的な行動に移してしまう。でも車を運転したりセックスをしたり酒を飲んだり、大人のような振る舞いはできる。子供と大人が混在している不安定な年頃は道徳的能力を欠いているのに、大人と同じようなパワーを持ってしまっていて、自分が何を目的に生きて、そして何者であるかに悩む。そうした不安定な時期には共嗜癖共依存に陥りやすく、その中で行われる盲目的な行動がその後の人生に大きな影響を及ぼしたり、人格を形成したり、トラウマが生まれる。

確かに、ジェームズとメリッサの行いは、彼らの生い立ちに問題があったにせよひどく法から逸脱している。でも、ここまで行かなくとも、自分たちの思春期の恋愛にも通づるものがあったと思う。あの時の恋愛は大人になった今、自分にどんな影響を与えているか。何を不満に何に縋り付いて生きていたか。あの時の行動を今の自分も同じようにそうするだろうか。それは犯罪や悪の可能性を秘めていたのではないか。

10代の頃、大人になった今よりも生きづらいと感じてた人にとって、あのむず痒い記憶に触れてくるのようなドラマであることは間違いない。

『僕らを見る目』解説・考察・レビュー

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1989年に起こった『セントラル・パーク・ファイブ』という冤罪事件を題材にしたミニシリーズだ。5人の少年たちが逮捕されレイプした罪で有罪となりそれぞれ6〜14年服役した。その後にすでに終身刑となった男がこの事件について自供し当時回収された犯人のものと思われるDNAと一致、5人は無罪となり釈放される。

 

彼ら5人のうち4人がアフリカ系、一人がヒスパニックである。違法な尋問によって嘘の自供を強いられ、白人の刑事や地方検事によって仕立て上げられたストーリーの中で彼らは20代を失ってしまう。

人種差別、白人の権力層、矛盾する立法、合同判決の悪、米国の刑務所システムの粗悪性、性同一性障害に対する嫌悪感いわゆるトランスフォビア、重犯罪者の社会復帰、その他多くの複雑なトピックに触れている。

それ故に4話構成計5時間のミニシリーズとしたのは必然的な構成である。彼らいかにしてスケープゴートとなり、服役から仮釈放までどんな苦悩があり、そして真実が明らかになるまでのプロセスは、到底映画の2時間ほどの時間制限では語ることができないのは、観てみれば深く理解できる。

 

非常に高い水準で表現する役者陣の演技力もさることながら、5時間という枠の中で徹底されているのは“人を描く”に尽きる。彼らがどんな日常にいたか、自白を迫られた時それぞれがどんな反応見せるか、家族はどう考えどう対処しようとするか、これらについて説明ではなく徹底して感情的に描かれ時間をかけることで、これでもかと言うくらいに観客を引き込む。

それらは濡れ衣を着せられた少年たちだけでなく、冤罪作った中心人物のリンダ・フェアステインは特に悪役として徹底的に悪として描き切る。事実を淡々と描くのではなく、ドラマティックに強く感情移入するよう作られていることは言うまでも無い。

 

『僕らを見る目』の中で、劇中を超えた次元で話さなければならない要素がある。それがドナルド・トランプの存在である。当時からアメリカの不動産王として多くメディアにも露出し影響力のあった彼は、「セントラル・パーク・ファイブ」事件を背景に4つのデイリー紙に広告を出し“彼らを処刑しろ、死刑を復活させろ”と発信する。この事実については、トランプの最初の政治的行動とも言われ、その発言は事件に大きく影響を与えている。過去に当事件を扱う作品は多くあったものの、今になってNetflixからリブートされるというのは、今だからこそ大きな意味があるのだろう。

今、何故か?と考えればこのドラマ化がドナルド・トランプをターゲットにしていることは間違いない。中心の5人にとって彼は悪魔でしか無いし、そう描かれるのだが、実際にはドナルド・トランプのこの発言で強姦、強盗、殺人が著しく減少している事実もある。当時の殺人は今の9倍であった。それらは支持派から言わせれば多くの“黒人やラテン系を救った”とも言えるだろうしオバマNetflixと数百万ドル希望の契約をしていることからドナルド・トランプに対して人種差別主義者というイメージを増幅させ、民主党候補を立てる目的としたプロパガンダ的な側面も読み取れそうな気もしてくる。

 

とはいえ、作品クオリティが非常に高いため、そういった政治的な意図は置いておいても、ストーリーや演技に純粋に魅了されるし、最も有名と言われるこの事件がNetflixという現代的なツールで知らない世代に語り継がれていくだけでも大きな価値がある。その時、若者はトランプに対して何を思うのだろうか。

当作品が公開されすぐさまリンダ・フェアステインは再びバッシングを受けたが、それよりももっと有機的な議論がある。

 

ブラックミラー シーズン5『待つ男』考察・解説・レビュー

 

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ソーシャルメディアが持つ危険性とは何か。デジタルコンテンツ時代に起こりうる問題は、現代では周知のことすぎて"テクノロジーがもたらす予期せぬ危機"とまでは言えず、他エピソードと比べて斬新な切り口ではない。設定が2018年とされえいるので、とりわけリアルタイムな問題提起である。

事件の情報収集は警察よりもソーシャルメディア経営陣が常に一歩先を行っていて、電話の細工や、蓄積されている膨大なユーザーデータ、デジタルテクノロジーによって、現場の警察官やFBIよりもカルフォルニアのオフィスにいる彼らの方が状況をいち早く把握し、犯人の行動を制御している。

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Twitterの創設者ジャック・ドーシーを風刺的にビリー・バウアーとして描いており、また登場するソーシャルメディアTwitterFacebookを組み合わせたようなもので、Facebookなどに見られる個人情報問題等も企業側から描かれている。その中でも一番の盛り上がりを見せる、ビリー・バウアーが使う『神モード』とは、我々にそれを使ってほかになにができるかと想像させている。SNSへの依存など、デジタルコンテンツ消費時代の危険性をふんだんに盛り込み、我々が住む社会はすでにシリコンバレーによって描かれた未来像が実際はディストピアかもしれないということであろう。

最近米ナスダックで、とりわけ時価総額が多い企業をまとめて呼称されるFAANG(ファング)という言葉があるが、これはFacebookAmazonAppleNetflixGoogleの頭文字をとったものだ。これらの企業は本社をカリフォルニア州のサンフランシスコとサンノゼ周辺のシリコンバレーに置いている。だからITの聖地としてシリコンバレーとは象徴的な場所であり、こういった危機感を語るのに『待つ男』でも当然ながらカリフォルニアに本拠地を持つという設定は外せない。

 

 

 

誰もがお気付きだろうが、上記で書き連ねたことは何一つ新しくない。正直、うんざりするぐらい聞き慣れた今時の問題提起といった感じだ。このuberスタイルでドライバーをするクリストファーが、なぜIT企業スミザリンのビルの下で客を待地続けるのか、ビリー・バウアーに何を言いたいのか、なぜ人質をとるのか、大したギミックがあるわけでもないのに40分近くダラダラと見せられる。人質に取られた青年がインターンだとわかると人質にも同情してしまうため、全く緊迫感が生まれないし、銃が本物だ偽物だの騒ぐくだりやスナイパーの発砲などで徐々に緊張感を高めようとしているが、非常にチープで、あんな近距離から発砲許可を受けるシチュエーションで外すスナイパーにもうんざりする。あの娘を無くしたお母さんの最後のくだりについては、GoogleFacebookなどが個人情報やプライバシー、パーソナルなデータを取り扱う上でどれほど絶対的なパワーを今この瞬間デフォルトとして所持しているかについて再認識させる。あのお母さんが24時間ごとに何千通りのパスワードを試し続けているその盲目さが滑稽で、一般が無意識にしてしまっていることを揶揄したいのだろう。

だからと言って作品として面白いかは別の話だ。

そもそもこの人質事件を起こしたクリストファーの過去にある交通事故とは相手の飲酒運転のせいではなく、スミザリーンを見ていた本人の過失であり、彼がビリーに話す依存性が高いだの批判は全く説得力が無い。婚約者がリベンジポルノや誹謗中傷などて病み自殺した、とかならまだしもソーシャルメディアそのものは因果関係ではないから相当バカバカしい。

 

クリストファーは、ビリー・バウアーから何でも力になると言われ、求めたのはグループカウンセリングで出会った女性が知りたがっている自殺した娘のソーシャルメディアのパスワードを彼女に開示すること。サブプロットとして描かれるこの女性の話は、必ずメインプロットとどこかで交わる必要があるが、彼女と娘の死について深く触れないためサブプロットとは言え不十分なものになっている。となると、これが主人公にとってそんなにも重要なポイントだったとは言えず、ドラマにオチ付けさせるため、後付けしたようにしか見えなくなるのだ。それなのに、自分の脇見運転で恋人を事故死させたクリストファーよりも、理由もわからず娘が自殺しSNSアカウントの中に答えを求めている彼女のほうがまだドラマになりそうな気がするからこちらをイラつかせるには十分である。

 

そもそも人質がインターンであった理由も物語には直接関係が無い。上層部と面識がない、電話が無い、人質としての価値に欠けるなど、それらは主人公に困難を与えているかのように見えるが、インターンが心優しいキャラクターで黒人(登場人物のなかで彼だけが黒人である)であることから、彼に対して同情してしまうような作りになっており、ただただ薄いプロットになんとか肉付けしたようなものになっている。物語の推進力が落ちまくっている。

最終的に主人公が何かを乗り越え何かを得ることはなく、自らの起こした事故についての責任転移でたくさんの人が巻き込まれただけで、ただ滑稽であるだけだ。何を見せられているんだという気分である。正直、カウンセリングで出会った女性がパスワードを手にした時、自殺した娘のアカウントには何かクリスと関連性でもあったのかと予感したが、パスワード入力、エンターキーポチでエンドロール。それっぽくすりゃいいと思うなよ、しかも1時間越え。

深夜帯に若いアイドルと駆け出しの俳優がやるような日本のドラマみたいなクオリティであった。

 

 

『リム・オブ・ザ・ワールド』駄作だったで終わらせないでよ。解説・批評・レビュー

 

 

『金持ちの言葉だ、あんたは関係ない』

 

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子供達が主人公なら外せないアイテムって言ったらやっぱり自転車。それは単なる小道具でなく、物語の中で子供達に与えられるエンパワーメントのメタファーである。ジョージ・A・ロメロが社会の混沌や人間の性を暗喩するゾンビというギミックを生み出したように、子供達がシュウィンのヴィンテージローライダーやBMX乗るのはスティーヴン・スピルバーグが生んだ子供達の自由のシンボルなのだ。

つまりどう考えたって『リム・オブ・ザ・ワールド』は現代版『グーニーズ』をやりたいのだろう。加えてマスタング・マッハ1やHIPHOPライクなadidasのセットアップなど様々なポップカルチャーを取り入れ幅広い層へのヒットを狙っている。

とはいえ同じNetflixオリジナルフィルムでこれより前に『ストレンジャー・シングス』という大傑作があるので、比べてしまえばこちらの評を下げたくなる気持ちもわかるのだけど、確かに中途半端なスピルバーグ感はあれどこんな子供達の冒険はやっぱりワクワクさせてくれるから温かい気持ちで見るのはどうだろう。

 

管理下に置かれた擬似的な冒険キャンプから、地球外生物の侵略が起きた途端に、子供達の目に移る世界が、一気にオープンワールド化する数分間なんて映画の中にまた一つ至福のひとときがあるとすればここです!と言いたい。冒険キャンプの場所「リムオブザワールド」がタイトルの割に舞台としては最初だけって感じがするが、ジュラシックパークライクな壮大な入り口に見せかけておいて、蓋をあければそこから一気にオープンワールド化するからワクワクがある。彼らが出会えた場所だしそれだけでタイトルとして文句は無いのだけど。ジェンジェンがいつまでもパンフレットを持っていることに深さは感じないが。

そもそも子供達の冒険に整合性のとれた行動や的確な因果関係に基づいた判断など期待していないし、「あっちじゃね!よくわからないけど絶対そう!」みたいな漠然としていて、かつ揺るぎない自信が子供時代を思い起こすノスタルジーなのだ。

NASAの施設を目指すとか、USB一つで世界を救うだとか、確かにチープで釈然としないけれど、それをリアリティに欠けるとか思ってしまったら、それってドゥニ・ヴィルヌーヴの映画を観る時と同じ目線で語ってませんかと言いたくて、こんな子供達目線のロードムービージュブナイルならば、目的意識がハッキリさえしていればそのクオリティは正直お任せって感じだし、その行く先々で出会う景色、光景が楽しめればいいと思う。一通りエピソードを終えればパパッと何十キロも進むので、冒険な感じが削がれてしまい、そこはもうちょい上手く編集してよと思ったが。

不意に集められた彼らは少しずつ暗い一面を持ち合わせていて、どこか個性的。分かり合えそうになかったのに、致し方なく行動を共にするうちに、割とすんなり“いつメン”になっていくのが子供の頃の友達とか仲間ができる感覚ってこんな感じだよねって共感できたら、そこがミソだと思う。あんなバカやったし、あんな気持ちになった瞬間があったし、今でもアイツらに会いたいし、って自分の記憶に触れてくるような感覚を覚えたら、それだけでいい映画なんじゃないかって思える。やれ予定調和だの展開が読めるだの、それでいいじゃないですか。ポップコーン食べながら観れるキッズ×コメディなんてそれくらいがちょうどいい。

エイリアンと戦うとか、マスタングを乗り回すとか、荒廃した街を冒険するとか、誰もいないショッピングセンターとか、子供の頃の夢物語を本当に映画が好きな人がそのまんま映画にしたらこういう感じで、子供の想像なんて大げさで荒唐無稽でしょって、そうやって見れたら名作にはランキングしなくても、なんかよかったなって思える映画なんじゃないか。

しかしダリウシュのギャグは好きだった。

「俺の服は服屋畳みしろよ」

「何畳み...?」

「金持ちの言葉だ、あんたは関係ない」

 

これ是非ギャグで使わせてもらう。

シュガー・ラッシュ:オンラインが彩る現代的な論争 批評・レビュー・考察

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ヒロインのヴァネロペはアドレナリン依存症で、広く知らない世界と刺激を求めていて欠乏感を感じている。一方主人公のラルフは、一作目で恵まれなかった自身の境遇に変革を起こし悪役としての仕事にもやりがいを見つけ夢の日々を送っているが、ヴァネロペに異常に依存している。

そんな中、ヴァネロペのホームゲームであるシュガー・ラッシュの筐体が壊れたことがきっかけで二人はパーツを手に入れるための旅へと出る。

 

と、あらすじや展開に関してはインターネットに溢れた他の記事を参考にしてもらって個人的な感想と考察のみ書いていく。

 

言わずものがな、父親にとって自分の子供が自分自身で外の世界に飛び出していくことについて共鳴的な象徴として描かれている。二人がぶつかり合い、わかり合うシーンで語られるセリフはほとんど親離れ子離れについてそのまま応用できるものだ。そのメタファーとも言えない明らかなメッセージ性は、嫉妬の仕方や解決するための強行的な手段が非常に男性的な思考プロセスであって父親と娘という姿に強く結びつく。

子供を映画館に連れて行ったお父さんが、ラストのヴァネロペと通話するシーンなんかはそのまんま何十年後かの自分と子供と重ね合わせて見てしまうんだろうと思う。

とはいえ、トイ・ストーリーのウッディとアンディの役割を思い出したら、やっぱりピクサーってすげえなと思う。トイ・ストーリーにアンディのお父さんがいない理由はウッディが父親としての暗喩であったわけで、ウッディがアンディに対して思う思いや行動はあまりにも感動的で普遍的だったからだ。だから今になってヴァネロペとラルフの関係を通して親と子供を語られることについてあまり興味はない。

 

とにかく気になったのはスターウォーズからマーベルスーパーヒーロー、ピクサーキャラクター、ディズニープリンセスまでカメオ出演するこのビジネス的手法。もう5年後くらいには“複数の作品の登場人物が一同に会す”ことをアベンジャーズ手法とか呼ばれそうな気もしなくもない。Fast and the Furious技法でもいいしレディ・プレイヤー方式でもいい。ん?よく考えたらどれも違ったパターンで、これはこれで考察したい気もしてきた。ただ今作は同じ世界に存在する理由として、インターネットだからという本当に安易な発想のもとで、あれもこれも登場させているから浮かぶ疑問『一つ一つのキャラクターに対して本当に愛があるのか?ただのビジネスではないか?』ってのは、大好きな大好きなトイ・ストーリーのバズが見世物的に登場したのが悲しかったからである。それに様々なキャラクターを同じ作品内で登場させるのはフランチャイズとしてのキャラクターの重要性をかなり意識してのことだと思うし、大人の思考プロセスが垣間見えるのは面白くはない。ただ、ディズニープリンセスが『自分自身を見つけられる場所は水がある場所で顔を写すの』と話すところは、ディズニープリンセスステレオタイプ的なジョークで少しいい気分になった。3歳児くらいの見た目のヴァネロペをずっと見せられているから、魅力的な女性が10人くらい一気に登場したのが目の保養だったというのも、このシーンにSEIYUの皆様のお墨付きマークをつけたくなった理由である。

 

アーケードゲームの住人がインターネットの世界へ飛び出すという設定で、インターネットが視覚化されて描かれるが、多数の実名企業のサインボードが並び、楽天なんかも並んでいた。とはいえ無限の可能性を秘めているようで制限され、解放されているようで企業統制されていることについて表現されていて、ディープウェブ(ダークウェブ)の存在や迷惑なポップアップまで擬人化されていて、複雑な表現をしようとしているように見えてデジタル世代には理解するに容易い。とはいえゲームのキャラクターのラルフがいったいどうやって動画投稿するか、足場が崩れるのはプログラム的にどういった作用が起きたか、などそういったリアリティの追求はもはや不毛の域で、そこが子供向けなんだなと思わせてしまう、ピクサーと線引きしたいポイント。

こういったプログラムを視覚化したり擬人化したりするものはどうしてもマトリックスを思い出してしまうが、マトリックスって本当にすごい。あれから25年立つのに今だに比較され考察され称賛されリピートされている、マジで未来人が作ったんじゃないかマトリックス

 

 

そして、シュガー・ラッシュ:オンラインがどこへ向かったのか。これは現代社会でも議論される保守的なものと革新的なものの共存と、その間とはなにかというところだと考える。インターネットが古典的なものを存続、あるいは継承させる橋渡しになっていることはもちろんだし、これから起こる革新的な技術や時代の進化が必ずしも我々が待ち望んていたものではないかもしれないということ。現代的な論争を彩った映画のように思えた。

ここまで言わずに我慢したが、非常につまらなかった映画であった。

 

『レディ・プレイヤー1』スピルバーグが望んでいること。レビュー・評価・考察・解説

「レディプレイヤー1」の画像検索結果大人気のヒット作ってのはなんかこう、いろんは人が様々に解説、レビューしているから書く気が起きない。もちろんどんな映画だって自分なりに感じていることはあるんだけども。もともと正しい評論を書こうとは思ってないし、自由に書きたいことを書ければいいってことで1から作ったアフィリエイトブログをやめてからの、はてなブログなのでビックタイトルの『レディ・プレイヤー1』について少し。

 

そういえばシネマサンシャインで見たんだけど、その時の看板が撮っておくべきだなと思った。レディ・プレイヤー1は歴史的超大作になるような気がしたし、アベンジャーズだったりパシフィック・リムだったり、数十年後に見返したらこの時代の懐かしさみたいのが身に沁みそう。

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レディ・プレイヤー1。言わずものがなディストピアなオープニング。映画としてディストピアほど面白い設定は他に無いと思うが、安全性など皆無に積み上げられたコンテナを住処にし、VRで現実逃避している近未来。この絵面は本当にワクワクする。

1度見たくらいではその半分も把握できないほどに様々なキャラクターが登場するが、やはり日本のアニメ作品から多く登場していて、そのほとんどが80年代ポップカルチャーであるということ。本当に80年代はすごかったんだなと。それらが世界に与えた影響も多大だったはず。

 

80年代の日本のカルチャーから世界が学んだことはすごく多かった。この時代、マンガやアニメが「子ども文化」の枠を飛び出し、大人が楽しむものとして発展していったわけで、単純に戦うだとか、そんな一言で片付けられない作品が多く登場していて、『機動戦士ガンダム』『AKIRA』『攻殻機動隊』などに代表されるように現実社会のあらゆる問題をメタファーとして描いていた作品がたくさんあった。世界の音楽家や映画界に影響を与える存在として認知されていて、言わずものがな現代もそうだ。

とくにフランスは日本のカルチャーに関心がある国として話題に上がるが、Daftpunkが松本零士さんとコラボレーションしたりするのも当時の日本の文化が与えている影響がゼロ年代テン年代でも実感できる。

 

レディ・プレイヤー1という映画の性格上、なにもそれらを深く取り扱うわけではないが、この映画に出てくるものが日本映画や人ではなく、ガンダムAKIRAってことが物語っているんだろう。

果たしてこの映画のメッセージ性に筋が通っているかどうかは、割とどうでもよかった。結局、現実で生きることを大切にしようみたいなことにオチをつけていて、ヒロインのサマンサも普通に可愛いし、逆にこれだけガッチャガチャにいろんなキャラクターが出まくっていれば本筋はシンプルにまとめていおいて、メンバーの素顔の顔合わせもありがちな多人種でキャラ通りの感じってことで深くしすぎない塩梅でよかったんじゃないか。

 

映画内全ての要素をスティーブン・スピルバーグが監督しているわけでなく、若いクリエイターたちが管理している部分もたくさんあるんだろうけど、やっぱりスピルバーグの映画愛とアニメ・映画・コミック・音楽への造形の深さは映画に滲み出ている。

というのも、いまの若い世代の人たちがこの映画を見て何をするかってところで、ハマればディスク版を買って一時停止しながらいろいろ探したいと思う。一度見ただけでは到底把握しきれない数のキャラクターやオマージュやサンプリングが溢れているわけだから。こうやって知らなかった作品に出会って、いま二十歳そこそこの子が40年前の『シャイニング』を見るなんていうのが、スピルバーグが願っていたりすることなんじゃないだろうか。

 

かくいう自分も、『機動戦士ガンダム』なんて全く興味がなかったけれど、この機会に調べたり、見てみたりした。想像と全然違う。戦争がなぜ起こるか、平和とは何か、組織とは自分に何を与えるのか...。

 

スピルバーグ神様である。

ザ・サイレンス 闇のハンター ボロクソに酷評・レビュー・批評・考察

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『DON'T MAKE NOISE』ということで「ドント・ブリーズ」、「クワイエット・プレイス」、「バードボックス」などの『◯◯しちゃダメ』系のドントムービーとでも言えばいいか、それ系に分類されるB級クソ映画です。

 

最近のドント系映画は、一時期流行った死から逃れられない系ファイナルシリーズみたいに量産されているけど、あっちはあっちでポップコーン食べながら「どんな死に方するの!?え!?ありえねー!」って笑って観ていられるのが楽しいからよかった。もともとサイコキラー的な楽しみ方で例えば『13日の金曜日』は毎回若者グループが別荘にキャンプに行くみたいな話だけど、過程よりもどんな死に方するかを楽しむ映画ってのは話の本筋もキャラクターもしっかり描かれない方が観てる側も辛くならず楽しめる。逆に『ウォーキング・デッド』みたいにキャラクターをしっかり描けば描くほど殺されるのが辛くなるってのをわざとやる場合もあるわけで。

 

だから同じような手法が流行って似たような映画が量産されてもファイナルシリーズは「殺され方のエンターテイメント」が面白ければそれ以上でも以下でもないのでOK。でもこのドント系だと◯◯しちゃダメっていうそこだけじゃ展開が回らなくなり、一つ二つなにかを加えてとりあえず映画って言えるところまで持ってきました、みたいな完成度に落ちてしまっているパターンがあって今作はクソ映画。

 

とにかくこれだけは言いたい。カルト集団が本当にゴミ。具体的にどんなカルトなのか、どれくらいの勢力があり、何が目的なんか一切はっきりせず、5、6人が家に訪れてくるくらいで口の中がなんかキモいくらいしかない。女の子を渡せって言ってたけど、つまり終末化した世界で子供も産ませるため?そんなことより、あんたら何が目的なのよって感じだ。そのへんの胡散臭いチンピラが思いつきでやりました感が否めないルックスと芯の無さである。そう、君たちカルト集団がうだうだしててはっきりしないから話の本筋がブレる。あの気持ち悪い鳥、ベスプが世界を滅ぼすくらいの勢いで活動しているっていうののに1時間半の映画で、1時間弱頃に突然出てきてグダグダ意味不明のポーズで突っ立ってたり、アポなし訪問して意味不明の要求をしてきて。アイツらに恐怖やサイコな要素は感じられず、とにかく映画の邪魔をするな!という気分である。電車で乗り合わせた頭おかしいやつと同じくらいのウザったさを感じた。

例えば、彼らがベスプに感知されない耐性を持っていたり、あるいはベスプに関連する何者かなのであれば話は変わってくる。こちら側の敵ではあるが、生き延びるための情報でもありメインプロットと繋がりがある。口の中グルゥゥゥって鳴らしてたからそんな流れかなと思ったが何も説明されず。

 

前後するが、冒頭に連れ出した犬がうざったい。なぜだろう。動物や小さい子供がそれやったらだめだから!っていうのをどんどん遂行していく系のハラハラするようなシーンってのはパニック映画等の見所の一つだし、映画COP CAR/コップ・カーの子供だけという閉鎖的な状況で、よく理解せずやってはいけないことをバンバンやるから「それやっちゃだめ!あー言わんこっちゃない」ってハラハラは楽しめる。

こっちの犬はなぜかものすごくうざったい。

それもそのはず、あの犬車から出されるまでにほとんど劇中に登場してない。だから愛着が無い。1シーンでも主人公の女の子と散歩するシーンでもあれば変わったろうに、ガスステーションでワンワン吠えてたくらいしか登場しないからファミリー感がまるでない。だからただうるさいだけの犬である。電車の赤子もそう。うるさい。他人の子供だからである。音立てたら危険な時にギャーギャーわめかれたら、赤ちゃんってことは重々承知の上でうるさいし排除したい。犬もそれと同じ描写の域を出ず、うるさいぶん殴りたい。

 

グレンって呼ばれてた親友の男性も20分くらいで退場。もうなんだかなぁ。そこで自損事故で死ぬなら登場させた意味あったのか。鹿が飛び出してまさかの崖から落ちるっていう鈍臭いハンドル捌きで横転した挙句、足が挟まって動けない。俺はいいから先に行け?そんな切羽詰まった状況かね。その結果ベスプに襲われ、どうにでもなれで銃バンバン売ってゾンビ映画の鉄板の展開。腕っ節が強くてサバイバルに強そうで、ブルーカラー感強い叔父が大活躍する展開を期待してたんだけど。

 

スタンリーはカルト集団のボスを倒れたあとも殴りまくるけど、急なサイコ感というかあの瞬間ふっと頭に『ウォーキング・デッド』のリックが浮かんできちゃって影響されちゃったみたいな脈絡の無さ。

 

そしてラスト。カルト集団とのどうでもいい戦いを制したあとトボトボ家に入ろうとしたところで、寒そうな地域に避難しました!って話がジャンプし「ベスプは寒さに弱い。適応して進化しないだろうか。私はした。」みたいなもうほんっとこっちが寒くなるようなナレーションで急に話まとめようとしてきてイラつく。それっぽいエンディング足したってごまかされねえよ。だいたい結局車移動なんかいって突っ込みたい。テスラで移動してたら割と筋通るのに。

 

ほんとはっきりしてほしい。ベスプはあくまでも世界終末化させるためだけのもので、それ自体に大きな意味を持たせないならゾンビ映画と一緒で、根本的な解決はせず、そういった世界の中でどんな問題に立ち向かうかを描くべきである。その問題は我々の世界と地続きになっていて、現代社会のメタファーであると。おそらくゾンビ映画の中で人間通しの対立が起きるように、カルト集団を出したんだろうが、彼らが何を表しているかは意味不明。

それともベスプに犯された世界を立ち直す、つまり根本的な解決を目的とするのであれば、主人公サイドはベスプ問題の中心にいる人物でなければうまく成り立たない。洞窟関連の研究者だとか政府機関だとか。

でこの映画は手話ができるから私たちは生き残れる、みたいな特別条件を持ったグループとするも、結構しゃべってるし手話でなくても筆談で生き残ってる奴がいるし、耳が聞こえないという設定にちゃんと説得力ありました?

で邦題でつけられた『闇のハンター』ってなによ?カルト集団が女の子を欲しがっていること?実はアイツら老若男女構わずさらって男はベスプの卵を育てる用、女の子は子供産ませるため?そんな深読みするかよ。それともベスプが目が退化して見えないから?いやベスプってハンターなのかね、人間食べてるだけじゃない。

製作陣の中で変な男女関係のもつれが生じてうまく仕事が捗らなかったんじゃないかと思うくらいの映画である。