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真面目とおふざけ6:4で書いてます。ダメだなと思ったら何故ダメかをちゃんと書きます。

Netflix ザ・ホワイトタイガー 批評 インド社会問題・カースト・資本主義レビュー感想

ザ・ホワイトタイガー(The White Tiger/2021)

 

ラミン・バーラニ監督とえば数々の貧困、資本主義、社会問題などを題材に高い評価を得てきた監督であり、大味の娯楽映画とは反対側の監督である。

Netflix:ホワイトタイガーのプロモーションムービーはエンタメ的で、ライトな客層も躊躇わず再生できるような印象だけに、ラミン・バーラニという名前がここで現れるのは違和感があったが、しっかりと問題定義の含まれた、バーラニらしい作品に仕上がっていた。

 

物語は貧しい村から脱却し、現代のインドで成功する起業家の主人公を暗く、かつユーモラスに叙事詩的な成り上がりを描いてる。特徴的なのは主人公のバルラムによるナレーションだ。まるでドキュメンタリーのようにインドの社会問題について語りながら物語が進展していく。

今回は定義されている問題を整理しながら映画を読み解いていく。

 

超資本主義と社会主義の矛盾

インドは憲法社会主義と掲げ続けているが、実質、資本主義を志向した混合経済となっている。放置される資本主義の“やったもん勝ち”は、貧困・失業・労働問題などの多くの社会問題が弊害として生まれる。この問題の象徴的なシーンは偉大なる社会主義者と称される州首相のマダムが雇い主のもとに訪れ「税金を払わずに国の炭鉱から石炭を掘れるのは、私のおかげよ。このまま税金を払わないなら私に250万ルピーを払いなさい」と横暴な態度で求めるシーン。日本円で約370万円、インドの大学初任給は5万円である。

社会主義個人主義的な資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制を指し、貧困層が指示する象徴的な偉大な社会主義者が私利私欲で活動している姿は、野心を掻き立てる大きな出来事であった。

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複雑なカースト制度

インドは未だにカースト制度の残る稀有な国家だ。その歴史は3500年も遡らなければならず、気の遠くなるよなタイムスパンがインドにおけるカースト制度の特徴である。それ故に問題は根深く、実態を捉えるのは難しい。しかしながら、インドが近代化を迎えるにあたり最も大きな問題でもある。

宗教的、人種的、職業的な起因で複雑に関係、影響しつつ今日のカースト制度は一般的に4段階に分けられると言われている。またこれは世襲的であり生まれた後に変えることはできない。低い身分に生まれれば、生まれた瞬間からその運命(社会原理)からは逃れられない。しかし、劇中ではナレーションでこう語られる。

『インドが最も繁栄していた頃は1000のカーストがあった。今では2つだけ。腹が膨れているか、へこんでいるか』これは、カースト制度以上に、貧困格差は強く分断されているということだ。このシーンはバルハムが運転手としてテストされる車内のシーンだが、もう一つ重要な会話が含まれている。

ボスのコウノトリはバルハムにカーストは?うちの使用人は上位カーストだ」カーストの確認をする。対して、英語を話すアショクは「なぜカーストが重要なんだ?」と疑問を投げかける。多様な考えを持つ側と、カースト制度が染み付いている側の対比は、インドに生まれた側と観客の構造である。カーストがなぜ重要か、双方ともその問いを言語化して答えることはしない。その状態こそが、カースト制度を生まれた瞬間から受け入れていることの複雑さなのだろう。

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ニワトリの檻

冒頭で檻の中のニワトリが強調して描かれる。ナレーションで「インド1万年の歴史で最も素晴らしい発明はニワトリの檻」とバルハムは語る。これは資本主義の象徴して強く強調される。

選べない身分と、逃れようとしない忠誠心。逃れるよりも従順であることが当然の身分という思考はなかなか日本人には本質を捉えるのは難しい。しかしながら、“檻”という普遍的な表現は、この日本において社会生活する上でも地続きの問題定義といして解釈できないか、とも考えずにはいられない。

カースト上位の生活を目の当たりにしていく中で、カースト制度という抑圧されたシステムを批判し、極端な手段で脱するに十分な動機は、轢き逃げ事故のスケープゴートという大きな出来事よりも、こうした日々の蓄積の上に起きた必然的なものだったのだろう。その大きなキーワードは腐敗である。

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少数派ムスリム

1980年代以降、多数派のヒンドゥーと少数派のムスリムの対立構造が問題となっている。1947年に、ヒンドゥーイスラームの宗教の対立から分離独立が起きことがきっかけであるが、その後も様々な、対立的な言説流布などが行われ、その溝は深い。カースト制度と並び、宗教信仰上の違いもまた、レイヤー化されながら人々が分断される要因なのである。

劇中ではこの問題にも成り上がりのための手法として触れる。20年仕えた先輩運転手は名前も信仰も偽り働いていた。彼はムスリムだったのだ。そのことをネタに彼は解雇される。彼がムスリムであったからなのか、嘘をついていたからなのか、表面的な理由よりも、ムスリムが重要なキーワードとされる。

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白人の時代は終わる。今世紀は黄色と茶色い人の時代だ。

物語のラストでバルハムはこう語る。バルハムが起業に走ってからエンドロールまで7分ほどしかない。成り上がりの最終形態は、この映画の問題定義の本筋とは、少し飛躍しすぎている。ただ、エンターテイメントしてのエディング、及び今後の未来地図としてある程度提示すべき事項でもあり、無論、駆け足なエンディングである。

1980年代に8割だったアメリカの白人の割合は、現在60%である。今後30年以内に白人は半数を切り、マイノリティへとなっていく。比べて中国の経済成長や、民主主義の崩壊など、20世紀の構造のまま22世紀は絶対に迎えられない。バルハムはカースト制から脱却することで成功を手にした。インドの社会問題を取り扱う上で、象徴的な問題からの脱却である。しかし最後のセリフは、非常に広域な提唱として捉えることができる。

現在GAFAなどのグローバル企業を筆頭に、日本企業も海外に仕事を委託するというのが一般化している。それは、工場生産などの話ではなく、IT分野における委託である。少なくとも1990年代までは内側と外側という構造で企業は成り立ってきた。経営する側と生産する労働者側である。植民地時代から続くように、外に労働と需要を作り、内側でお金を回すと言う構造だ。しかしインターネットテクノロジーにより、この境界線がなくなっているのが現代である。これから、人々は場で仕事をする。場とはプラットフォームである。アプリ開発ならappストア、音楽ならSpotifyApple Musicのように、多国籍企業の土壌の上で仕事する。インドでも中国でも日本でもここに参加できる。こうしたIT分野で仕事をする人たちが政治家よりも年収が高いというのが現代である。インドや中国のメンバーでスタートアップされた多国籍企業が大きなプラットフォームを作るかもしれない。こういった可能性を、最後のメッセージとして締めている。

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Netflix『隔たる世界の二人』レビュー 考察と盗作疑惑 ネタバレ・批評

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Netflixにて公開された2020年の

SF短編映画『隔たる世界の二人』

(Tow Distant Starangers)

 

第93回アカデミー賞で短編実写映画賞を受賞したことで、日本でも話題になりつつある。

パームスプリングス』(2021)、オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)などのようにタイムループギミックを利用し、現代社会の最も差し迫った問題として、白人警官による黒人への暴力に内包された、交わる事ない境界線を表現している。

 

イムループと人種差別問題

人種差別問題は映画の歴史の中で何度もテーマにされているが、この『隔たる世界の二人』で特徴的なのは、画面の中で起きている出来事についてはそれほど重要でなく、それが何を意味するか?である。

イムループSFと聞けば、過去に戻り運命を変えようとするバタフライ・エフェクト』(2004)を思い起こす方も多いはずだ。受動的だった運命というものは、自ら選択してきた世界線に上に起こる悲劇だと、*バタフライ効果を巧みに具現化した名作として知られるが、それとは少し構造が違う。

何度も同じ夢を見る、何度も殺される、ただ家に帰りたいだけ。

まずは、この単純な構造は人種差別される側が日々何を思って生きているか?という強調された比喩である。毎日目覚めた瞬間から、いつ理不尽に暴力に合ってもおかしくない。差別されない側の人間にも、普遍的な方法で恐怖心を追体験させることに成功している。

そして、本人が意図しなかった制御不能な不幸は、こうして理不尽に繰り返されているということ。バージョン99まで繰り返されることが、特定の状況下や一部の話でなはく社会全体で起きている大きな問題として強調されている。

 

最後のシーン、結末と言えば結末だが、ネタバレでも何でもない起こるべくして起こる結果である。

最終的に、警官は『名演だったな、だが話を聞いてやるのは今回だけだ』と言い、最初から決まっていたと言わんばかりに躊躇いなくカーターを撃ち殺す。

殺す理由を語らない。意味などないからだ。誰であるか、何者であるかなどどうでもいい。ただ目の前にいた、怪しいと自分が感じた人物が、黒人だった、それだけである。

 

法や秩序、正義のための行いが不幸にも生んでしまった悲劇であるという主張は、白人警官側の建前や綺麗事であり、実際はそのほとんどが無意味かつ衝動的な動機であること、そして差別される側にとってそれは、それがとんでもない理不尽な結果として映る。そんな無意味さ、理不尽さを正直に曝け出したこの瞬間は、違う世界に暮らす二人の境界線を越えた瞬間である。

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盗作疑惑が浮上する?

 

 

 

シンシア・カオ(Cynthia Kao)という短編映画監督がTikTokにて抗議した内容が注目を集めている。彼女は2016年にYoutubeで『Groundhog Day For Black Man』を公開しておりこの内容は『隔たる世界の二人』と瓜二つな内容だと言う。

ことの発端は、彼女のもとにNowThis Newsというニュースメディアから2020年に接触があったこと。

当時#Black Lives Matterが社会現象になっていた時期で、話題性のためにNow This Newsはこの短編映画作品を拡散したいという許可を求めた内容だったと言う。

その中には使用する際、かならず彼女の名前をクレジットを与えると言う記載がメールにはあったようだ。

 

2021年4月9日に『隔たる世界の二人』が公開された。この映画はNetflixとDirty Robber、NowThis、Six FeetOverという各企業と合同で制作されている。

主張としてNetflixが自身のアイディアと酷似した映画が制作されたことは、NowThisが関わったことによる盗作であるということだ。

実際に『隔たる世界の二人』にはNowThisはクレジットされているがシンシア・カオはクレジットされていない。

 

これによって『隔たる世界の二人』は映画メディア系サイトで、一般レビュワーから盗作に関する底評価が増えている。

しかしながら、プロットを著作物として捉えるかどうか、これには曖昧な現状がある。この記事でもいくつか例を出したようにタイムループというプロットは、映画史の中で幾度となく繰り返されてきた手法である。アイディアとして、タイムループの中に『人種差別問題定義』を含むか、ということで考えれば時系列的にも二次利用に見えなくもないが非常にグレーな問題である。

 

 

 

 

三浦大知 『Backwards 』は布石になるか?批評・レビュー・評価

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ファンでも何でも無いけど、この人のパフォーマンスは本物だと思っていて新譜が出ると何となく聞きに行ってしまう。

J-POPがガラパゴス化しているだとか、閉鎖的で進化・変化を拒んでいるだとか、そんなのは純然たる事実で語り尽くされている。音楽業界の内情は長い歴史や利害関係で複雑かつ閉鎖的かつビジネス的に内側と外側に境界線が強く引かれて、知れば知るほどに、変化を求めることがバカバカしくなってくるのがJ-POPである。

とは言え少なからず、『あれ、本物だ』と言いたくなるようなアーティストもいる。古くからのおじさんUK,USロックファンもJAZZミュージシャンも、ライブハウスの店長も、博識高い批評家も、そういうアーティストをJ-POPと括れるカテゴリーの中で出会うことがある。

 

三浦大知のBackwardはEPとして4曲入りだ。

01. Backwards
02. About You
03. Spacewalk
04. Didn't Know

 

01については、どことなくゲームミュージック的なニュアンスを感じるバッキングとコード進行とアルペジエーター。これ多分それこそ30代から50代ぐらいの世代には懐かしく聞こえてくる。グラディウス、インベーダー、ラストハルマゲドンとか。もうちょっとそれっぽく言えば、クラシックなシンセミュージック、テクノポップとか、つまりYellow Magic Orchestraの土台を思いっきり使ったトラックである。

これを現在進行形でやろうとするとチープになるものだが、ロックに近い音色のドラムと三浦大知のパフォーマンスの高いヴォーカルがマッチするとこうも聴きやすい曲になるのかと、むしろ若い世代にはこのシンセのアルペジエーター的なフレーズが近未来的に聞こえるのかなと考えたりもする。

 

 

02は、ベースとして2000年代の日本のR&B的である。CHEMISTRYとかクリスタルケイとかそういう方向性だ。4あたりのギターソロは結構上手い大学生みたいなひねりのないものになっているが、これは人選が悪いのか?これを弾いた人物がStave lukatherのLicksを応用しているのだけは強く伝わる。

 

03が超当たり曲だろう。イントロはmoonchild的な淡くてアタックの弱いシンセ。リズムトLoラックはlo-fi的に聞こえるがさほどズレ感(post J Dilla)は無くアンダーソン・パークのようなスタイルのグルーブを目指しているように聞こえる。特に『Lockdown』という曲がかなり近いニュアンスである。ブランストン・クックの『Shooting Star』やDaniel Caesarの『Get You』などもアイディアの源流としては近いと思う。

そして三浦大知の“取り残されたみたいだ” “時のすきま” などで聞ける文末の音符の切り方に注目しておきたい。やはり楽器を極めれば極めるほど、そしてジャズやブラックミュージックを聴き漁れば聴きあさるほど、『休符』というものはいかにグルーブとして重要な要素であるか理解が深まる。

音楽はリズム・メロディー・コードという音楽三代要素があるが、全てに共通して緊張と緩和がある。リズムの休符を使って緊張感を出すのは常套手段であるが、解決=緩和があってこそ成立する。パッと音を切ると緊張状態が一瞬埋まれ、次の音符が鳴るのを聞いている側は待つ。次の音が鳴って緩和だからだ。

例えばラストサビで盛り上がるぞという時にサビの頭でバンドごとブレイク(無音)してヴォーカルだけになる。1拍か1小節か置いて、ドーン! と、バンドイン、みたいのはよく“頭抜き”なんて言われていて大サビを盛り上げるのによく使われる手法があるがこれも緊張と緩和を大胆に利用したものだ。

この場合のようにジャブみたいに軽く打ってくるパターン、是非同じように歌ってみて欲しいが、必ず体が揺れるはずだ。リズムについて理解の深いアーティストだな思える片鱗が見える瞬間である。

 

04はユーロビートなトラックだ。曲の構成自体かなりダンス前提になっており、音源を聞くだけではあまりノレない。しかしライブを見たら、これが一番の推し曲に様変わりしそうなトラックだ。おそらく現時点では03の支持が厚いと思うが、コロナ禍からの全世界復活の世界線のリードトラックとして捉えたら、激アツなライブを想像させてくれる。

 

 

総評して、全く収束の見通しが立たない社会状況の中でバカ明るいアルバムはなかなか出てこないし受け入れられない。トレンドとは流行りではなく、消費者の心理状態から生まれるものだ。割とネガティブワードが多様される曲が増え、音楽業界的にもネガティブな発信や心苦しい発表の連続である。少なくともこの『Backwards』は現状に絶望したり悲観したりするよりも、すっかり枯渇してしまったあの一体感を取り戻すための布石である。

 

 

 

古いMIDI鍵盤を買って鍵盤楽器の存在価値に気づいた話#NOVASION 49SL MK2

音楽を辞めてから、大量にあった様々な機材は売り払われていく一方、増えてく格安中古楽器

リユースショップは最高の暇つぶし場所というか聖地というか。芸人の小籔さんが神社やお寺を見つけたらとりあえず入って手を合わせるって言ってたけど、それと非常に近い。ハードオフ、トレファク、ワンダーレックス、お宝鑑定館etc...

 

さて音楽活動してた時に使っていたMIDIキーボードは3つ売却し、残った一つは故障したaresis Q49のみ。ここ最近ピアノ弾きたい欲がMAXなわけで、まともに使えるキーボードが欲しい。

『弾く』ではなく『打ち込む』ことをメインに鍵盤に触れていた人間の自然な発想として、ピアノ弾きたいから電子ピアノ買う、キーボード買うではなく、中古のMIDIキーボードが一番安上がりだろうと。

 

その時訪れたハードオフにはRolandPCR-500が1万円、LINE6のline6 mobile keys 49が5000円くらいとまぁ相場そのまんまなラインナップ。本当は61鍵が欲しかったのだけれどMIDIキーボードとして需要が少なく、リユース市場にはあまり出回らないので早々に諦める。どうしても欲しければ後でアレシスあたりを買えばいい。

LINE6は汚れがひどく、PCR−500は未開封状態なのだけれどネットで情報が少なすぎて手を出すのに勇気がいる。というわけで、こちらを買う。

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NOVASION 49SL MKⅡ

こちらは2009年に発売されたモデル、販売当初は¥68,000ということでMIDIキーボードとしては非常に高価なモデルだったようです。

今回はリユース商品で¥10,000でした。

特徴はつまみとフェーダーの多さですね。DAWと連携してソフト内のコントロールができるもので、いろいろ弄ってみるとかなり広く設定ができそうですが今のところめんどくさくてやっていません。

MIDIキーボードとしてはとりあえずUSB挿せば機能するので稼動に戸惑う事はない。

 

一つ戸惑ったのはサスティンペダルがぶっ刺しただけでは機能しなかったこと。設定の階層をいろいろほじくっているとペダルの極性を変更する項目もあるので効かないわけがないけど、あれジャックが死んでるのかな?とかいろいろ考えながらも最終的には

起動したらAUTOMAPモードをキャンセルしないといけなかった。AUTOMAPボタンがあるのでそれを押すだけです。

このAUTOMAPってなんだと調べると、どうやらNOVASIONが当時提供していたコントローラーの各種ボタン・フェーダーを正しく簡単に様々なソフトウェアで機能させるための独自ドライバーというかアプリケーションみたいのがあったんですね。

現在では終了しています。理由は以下の通り。

 

今後のオペレーティングシステムまたはソフトウェアリリースでの自動マップの更新またはサポートは終了します。Automapは、現在サポートされているオペレーティングシステムで引き続き使用できます。
 Automapは当初、ユーザーが実際のボタン、エンコーダー、スライダーを使用してソフトウェアを制御できるようにすることを目的としていました。これは技術的に複雑でしたが、Automapはハードウェアとソフトウェアを接続する独自の方法を提供しました。現在、ほとんどの主要なDAWにはネイティブソリューションがあるため、Automapなどの追加のサードパーティアプリケーションを必要とせずに、どのMIDIコントローラーでもソフトウェアを制御できます。

SL MkIIIやLaunchkeyキーボードなどのコントローラーは、専用のネイティブ統合または業界標準のHUIプロトコルを介して主要なDAWを直接制御します。

 

11年も経つと、これだけ変化するが、変わらず挿せば使えるってのがMIDIキーボードていう規格のすごさを感じます。というか鍵盤の形をしているとはいえボタンを押した信号でしかないのですが。

と考え始めると、ピアノという楽器ギミックはものすごく汎用性の高いものだったんだと再認識した。コースティックの時代しか無い時代から、現代のコンピューターの信号入力的な機構とかなり近いものだったという。視覚的なわかりやすさもある分、音楽理論は鍵盤ベースに勉強するし、ギミックとしてもすぐに応用可能である。

いや、逆にだからこそ音楽の中心にいる楽器として、誕生した17世紀から存在価値を失うことなく生き残り続けているんだろう。

 

 

 

 

 

あいみょん/愛を伝えたいだとか 批評・レビュー・評論

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グルービーでファンク調なアレンジと自称し、いかにもNeo CityPop的なアレンジで、それまでのあいみょんとは一味違ったリードトラック。

アレンジャーが誰かはわからないが、この手の実力派アーティストとしてNakamuraEmiや中村佳穂を影響をふんだんに受けている(あるいは意識して、意図的な)ことは聞いて明らかだ。

あいみょん自身、歌い方もそういった実力派ポストCityPopアーティストにかなり寄せている。

 

本人は“一つのジャンルに囚われず、別のサウンドでも自分を表現できることを証明したい”と語る。

 

ただ、残念なことに確かにあいみょんとしては別のサウンドだか、この手のブラックミュージックが根本にあるようなアレンジでは、その界隈には到底及ばないグルーヴである。

 

 

まずはドラムが非常に気になる。アレンジは16分でハネているのに4打ちの打ち込み。フィルはスネアをポンポンポンと打つだけ。全く抑揚もなくノれない。

Rよりでギターが、Lよりでクラビがかなりハネていて、これがファンク的な味のハネ感出していてる。これに対するハリボテのドラムとの間で、ベースが非常にうまくドラムの四つ打ちに合わせながらゴーストノートとフィルでギター・クラビと何とかグルーヴし、グルーヴにまとまりをだしている。

個人的にこの曲のMVPはベーシストだと思う。

 

2:48のブレイクも非常に勿体無い。アコギの16分1,3拍目のキメも、ものすごいチープ。

ここはヴォーカルを思いっきり出す意図があってバンドがブレイクするわけで、アコギでジャジャ!みたいな16分のチープなキメをするくらいなら全ブレイクして復帰で魅せたほうがよっぽどカッコいい。そしてコピペしまくったスネアの『タッタッタッタ』ってフィルで復帰するのだからもう、萎える。

あいみょんは言葉数が多くて音符が多い部分になると、ハネずに歌ってしまうので、ルーツはJ-POPなんだろうと改めて思う次第。本人が自分のルーツをどう語っているかは知らないが、確実にブラックミュージックの教養は無い。むしろあった方が驚くが。

これはあのアーティスト風、これはあの曲風って具合にあいみょんっていう商品をどうパッケージングするか、という考え方が全面に感じる1曲であった。マリーゴールドもそのまんまスピッツの焼き回しのようなアレンジだったし、プロのアレンジャーが手をかけて天才扱いといった商売は全く否定しないが、それならそれで、プロのアレンジャーらしい仕事を振り切ってしてほしいなとも思う。この絶妙に出来上がってない感がマスというか普遍的に売れるものなのだろうか。

J-POPは完全にガラパゴス化していると再認識させられた。

 

トーニングシューズの一過性なブームと反動で生まれたベアフットシューズ

09年2月、reebok(リーボック)の『EASY TONE(イージー・トーン)』を皮切りに、"ダイエットシューズ" "トーニングシューズ" "シェイプアップシューズ" などとカテゴライズされた履くだけで痩せる・引き締まるシューズがブームになった。

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代表格の『EASY TONE』は二つのバランスポッドをソールに搭載し、全方向にグラグラとさせることで、自然とバランスを保つため筋肉消費されシェイプアップに繋がるというもの。当時REEBOKはEASY TONEで歩くと、ハムストリングス・ふくらはぎ・臀筋の筋緊張が28%向上すると謳っていた。

"履けば履くほど美しいお尻"という大々的なキャンペーンを打つと一時生産が追いつかないほど飛ぶように売れたという。

『このシューズを履いたら−○○cmダウンしました!』週刊誌の最後のほうの広告のようなモニター記事もネットに溢れていた。

 

 

同09年には、アメリカではブームとなっていたSKESHERS(スケッチャーズ)の『シェイプアップス』も日本に上陸している。

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『シェイプアップス』は前後方向に丸みを帯びたソールが特徴で、非常に厚底だが素材はかなり柔らかく、グラグラとする。独自に"ローリングシューズ"とも呼称したこのシューズも、歩く際にバランスをとることが必要とされ、その名の通り、シェイプアップを期待できるシューズとして人気を博した。

 

2010年には、アメリカでのトーニングシューズの市場規模が1000億円まで膨れ上がると同時に各メーカーが参入。プーマは『ボディートレイン』、new balanceは『トゥルーバランス』など様々なモデルが登場し、ウォーキング・ランニングに次ぐ新たなカテゴリーとして定着すると思われていた。

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しかし、2011年になると、トーニングシューズの新規顧客は目減りし、リピーターが中心となっていった。本当のことを言えば、普段そこまで歩かない人が靴を変えただけで痩せるわけがないし、多少なりとも効果があっても、シェイプアップが持続的に実感できるわけがないのである。また、メーカーが商品の機能性アップデートをほとんど行わなかったのが、真実を物語っている。日常使いで、さほど効果が無い物はアップデートのしようがない。

そうして、ブームが一回りした頃、アメリカでリーボックアメリ連邦取引委員会か訴訟指摘を受け、賠償問題となる。

"「イージートーンを履いて歩くと、他の運動靴と比べヒップが28%引き締まり、ふくらはぎの筋肉が11%多くつくことが証明された」という広告には科学的根拠がなく、機能を過大に表示していると指摘し、2011年9月にリーボックは2500万ドル(約19億円)を支払うことで和解した。リーボックはイージートーン製品を購入した人への返金に応じている。"

 

 

この賠償問題が起きると、一気に目の覚めた消費者からは見放される。バランスが悪いことから転倒の危険もあるなど、危険性も注視され、商品を一時売り場から撤去したり、注意書きの紙を同封したりとブームアイテムとしての勢いは急ブレーキで失速した。

 

その後は投げ売りセール価格が続き、各ブランドもトーニングシューズ市場から撤退しカテゴリとしては消滅していったのである。

 

イージートーンブームで一時的に美味しい思いは出来たが、その代償はでかい。現在のリーボック堕落は10年前から始まっていたのだと再認識させられる。

もしかしたらNIKEのモンスタースニーカー、AIR MAX 95と対等に渡り合えたかもしれないPUMP FURYというアーカイブがありながら、ブランディングをお粗末にし、一過性のブームで食いつなぐ。

対してNIKEはトーニングカテゴリーに参入していない。

 

 

そんなブームの裏で、NIKEが温めていた新たなソール革命がブーム間近となっていた。

"NIKE FREE RUN +3"が発売する。

 

 NIKEはプロモーションで『アフリカ人はなぜ足が早いか?裸足で走っているからだ』と語る。

NIKE FREE RUNの登場で一気にメインストリームに持ち上がった『ベアフットラン』である。靴を履いた状態でもなるべく裸足に近い状態をキープするトレーニングシューズだ。

トーニングシューズという、まるでサイケデリックロックのように散った夢物語の、まさに反動のようなカテゴライズである。

 

 

 

こちらも短命なカテゴリではあったが、注目はNIKEが牽引したという点であろう。

ノームコアとは何だったのか。

2014年頃からファッショントレンドとして浸透した"Normcore(ノームコア)"という言葉も、ここ2、3年で再解釈がさかんになった。

 

『表面的なトレンドとして一人歩きしてきたノームコアという言葉の本質を理解せよ、そしてこの言葉は何も今に限った"トレンド"ではない』

 

そもそも、ノームコアという言葉が本来定義した全容は複雑なもので、その本質は語られることなく表層的な理解に留まっている。

この言葉の持つ意味は、無地でノーブランドの服や定番品を普通に着こなすことを指すのではなく、もっと精神的で社会的な言葉であるのだ。

 

2014年にニューヨークを拠点とするK-HOLEから発信されたノームコアというトレンドワードとその論文は、表層的な解釈に留まり、アパレル業界はこぞってシンプルな格好=ノームコアというトレンドワードとして、アイテムを打ち出しトレンド化していった。

 

 

ノームコアはファッションアイテムのことは指しておらず、"生き方"や"存在"について哲学的に、そして精神的な側面を定義する言葉だ。

 

そもそもトレンドとはデザイナーやブランドのディレクター、あるいはメディアが作り出すものではない。そうして生まれるトレンドもあるが、ファッションとは深く社会情勢・経済・災害などに影響される。その時代の人たちが何を感じているか?=求められる(売れる)アイテム=トレンドとなる。

 

ノームコアは、個性を再解釈する言葉であった。人と違うとは何か、追い求めれば自分の個性は満たされるのか。付け加えると『個性』とは、言い換えれば『存在意義』である。

 

『個性』に対する感覚が2010年以降、急激に変わって行ったのはインターネット・情報・テクノロジーの発展がある。主にSNSだ。

それまで我々は高校、大学、会社と限られた空間の中で自分は何者かを探してきた。

人一倍仕事の成績を出す、誰よりも個性的でオシャレなファッションを目指す、誰よりも面白く...。

小さな世界の中では、唯一無二の個性を発揮することが出来る。そして認めてもらえる。

SNSが変えたのは、学校、会社、組織を超えて"個"を知ることができること。『人との違い、個性を追求する人』は、世界に溢れていて、『人と違うことに悩む人』も溢れている。世界は広く、自分はちっぽけな存在だとわかってはいたが、現実に知ることができるようになってしまう。

そういった個性は、結局カテゴライズされていく。つまり、皮肉にもまた一つの集団として認知され、個性とは何かが曖昧になっていくのだ。

 

彼らの中に気づき始めた人がいる。個性を追い求めた先には同じような集団に行き着き、市井の一般人が、他の誰とも違う個性に満たされることは無いのだと。

 

そうして繋がる“ノームコア”という考え方。

ならば、普通であること、それを受け入れ認め合うならどうだろう。それぞれが自分の個性だとしていたファッションやライフスタイル、それらは自分たちにとっての“普通”であり、その普通を共有し、認め合う。認め合うことは『存在意義』の肯定だ。

一言で表すとすれば、『自分にとっての普通が何であるか、そしてその普通を認め合える共同体に属すること』それが“ノームコア”だと。

 

 

そもそも、まずノームコアがアンチテーゼとしてるのが、『こうあるべき姿という固定概念や同調圧力と、個性を追い求めること』だ。

 

また、世代や性別によって社会的な"普通が"求められながら、同時に『自分が何者なのか』を追い求めながら生きていかなければならない。

女性が40歳で独身なことがダメなのか、50歳のおじさんがフィギュアを集めてダメなのか、義務教育を受けずYouTuberになることがダメなのか、30歳ならいくらの時計をつける、貯金がいくらだ、バイトしながら夢を追うことは子供なのか...世間的なそういった普通をクリアしながらも、個性を磨く。それは本当に健全なものなのか?

 

窮屈な社会のしがらみの中で、新しい生き方として提案されたノームコアは、もっと自由であるために『人と違う』ことを探すのではなく『自分にとっての普通』を探し、極めることである。

あらゆる社会一般的な“普通”の中で自分とは何者かを探し、個性を追い求めていた時代は終わり、究極でないどこにでもあるような普通を自分の個性として認識し、同じような人たちと認め合う。そんな現代の生き方を定義したのがノームコアである。