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Netflix-終わらない週末 考察・批評・レビュー・ネタバレ


起こる事象のほとんどが妙にパラノイア(妄想)的で、鹿の大量リスポーンとか、サイレンのような爆音とか、テスラ無限玉突きとかで実態の無い恐怖の応酬なもんだから、あれこれって精神病的な話でオトされる?と途中でウトウト仕掛けた頃に、原理主義的(終末論者)な人物(ケビン・ベーコン)が、まさにケビン・ベーコンな風体で現れて目が覚めると同時に、そういえば国家緊急事態的なシグナルがあったな?と思い出しもう一度集中。するとやっぱり妹のローズがずっと『フレンズ』の最終回が見れなくてゴネてることが気になる。映画の話として何の意味があるか考えれば、NetflixによるNetflix風刺みたいなものか。それはブラックミラー6で既にやっているので、そんな問題定義は改めてやらなくても、と思ったりもしたが、ラストシーンを見て意図汲み取ってみる。Netflix風刺というよりは、子供世代が抱えたネットと現実の境界線を問うものである。自分の居場所はどこにあるのか?と。こんな緊急事態になれば我々はすぐさまスマホを開き、ネットで情報収集し判断する。自分がどこにいるかも画面の中で確認する。少し丘を登れば、マンハッタンが見えるのに、どうして家に閉じこもっているのか。ネットも電話もラジオ・テレビも寸断された状況下で、訳の分からない恐怖に怯えた現代人はじっと何もしないことしかできない。知らぬ間に死期が迫っていても知ることもなく。あなたの実態はどこにあるのか?そう問うべき空虚な社会問題定義的なところである。確かにコロナで爆弾休暇——自分観測史上最大連休をこう呼ぶ——になった時、ソファーに寝転がり永遠とNetflixやらYouTubeを見ていたあの時間は、こんなに幸せな生活があっていいの?だった。途中で休みすぎて不安になって始めたランニングは何故か今でも続いてるが。でも、あの時、自宅待機を余儀なくされた状況で全ての通信が切断されたら?考えると結構恐ろしい。2020年や2021年は大した記憶が無い。多くの人の精神年齢を実年齢−1歳にした空白の1年である、どれだけ画面を見ても経験や思い出にはあんまりならないと。話を戻すと、国家危機とキリスト教原理主義的な人物、電波・インフラの寸断、サイバー戦争、イランによる侵略だとか、そういった断片的で上澄みだけの情報とサスペンス的要素を絡ませ、観客に考えさせたいという意図も強く見えている。いずれにせよ、自分たちの身にも危機が訪れた時の疑似体験としてジュリア・ロバーツの人間不信さは共感が強い。アメリカのように人種間の隔たりは幾分少ないとしても、素性のわからない人たちと手放しで協力しあえるほど日本も平和じゃない。そういった非常にローカルな地続きベースのフィールド(閉鎖的)で進むストーリーのバックグラウンドは、結局マジでとんでもない有事だったという話である。アメリカで大規模クーデター、内戦が起こるとは想像もできない....いや今ならあるかもしれないと思えてしまう所が怖いところである。ウクライナにもイスラエルどちらにも注力はできないアメリカは台湾有事や南北問題まで手が回らない。中国もロシアも北朝鮮も...気付けば強権主義VS自由主義の構図の溝は深まっていて、いよいよWW3前夜とも言えてしまいそうな年の暮れに、棚卸しするかのように公開されたなと。似たような感覚は2021年12月公開の『DON'T LOOK UP』を思い出す。あれは気候変動による分断を描いていて、トランプ政権時の分断をブラックユーモア的に描いた作品だが、図らずも分断によって生まれる国家の広告塔的な専門家が偶像化していく様は、COVID19に襲われた自由主義国家(日本も例外ではなく)において起きた現象をはっきりと再現していたから、2021年はこんな年だったと1年を振り返るのにぴったりだった。2023年がこんな年でなければ『終わらない週末』も、こりゃ週末終わらねえわ!このあとさマンハッタンに行く続編みたくね?で済んでいたかもしれない。

ここまでラフにレビューしてみたが、もう少し真面目に考察してみると、やっぱり気になるのはこの映画の制作がバラク・オバマ夫妻が立ち上げた制作会社であるということだ。元ホワイトハウス移住者が“これから起こり得ること”、と語っていることこそが恐ろしい。現時点の世界情勢ではそれほどフィクションでもないということだ。そして陰謀論よりもっと簡単な話だ、という点でも内包されたメッセージを勘繰ってしまう。ディープステートとかそういうものでなく、侵攻とクーデター。イーサン・ホーク演じる父親はネットもGPSも使えなえれば何もできないと嘆くが、そのために缶詰や水を買い溜めて孤独になれというのか、この表面的な選択以上に、ジュリア・ロバーツの疑心暗鬼な精神性が、いかに他者を受け入れることでしか自分を救えないかを、批判的に暗に示しているようである。こういった身に迫る危機的状況化では社会的偏見と二極化して病んだ潜在的な不安が表面化するからこそ、他者を受け入れることは生存的選択である。また、『フレンズ』に関しても、妹のローズという人物の輪郭がはっきりしてくる。そもそも何故『フレンズ』なのか。『終わらない週末』はマンハッタンから来た都会に疲れた家族が、ラストでマンハッタン空爆されているのを茫然と見て終わる。"マンハッタン"とは母親役のジュリアロバーツが言うように、それほど素晴らしくも無い、人間に疲れる街だと表現している。一方『フレンズ』は白人が大きなアパートに住み9.11も起こらなかった世界線が舞台の幻想的な"マンハッタン"である。この対比もあるとして、ローズが『フレンズ』の世界に安心を求めていて、さらに本当に知っているニューヨーカーとして認識している可能性も否定できない。冒頭でフレンズコーヒーショップに連れてってというセリフがあるが、父親は「あれは本当にあるわけではない、セットだよ」と正す。実際には観光地化されていてあることはあるが、ローズがそれを念頭に置いていたか、あるいは本当にセントラルパークが存在すると思っているかもしれない。父親の言葉にローズは反応しないため、真意はわからないが、ローズがフレンズと現実のマンハッタン両者の境界線が曖昧なことは間違いない。そして、最終話を見ることに執着するローズ。家族の中で最も何かが起こる予兆を敏感に捉えていたローズにとって最も安心できる方法だったとも言える。彼女の世代は子供の頃から銃乱射事件やパンデミックなど親世代が子供の頃に経験しなかったあらゆる恐怖を経験している。タンカーが浜辺に突っ込んでも、家に戻ってすぐプールではしゃぐ子供たちを目にして、夫婦は立ち直りが早いと関心するが、現代の子供たちにとって、もはや情報過多でセンシティブな情報に溢れた時代を生きる子供達は、次のエピソードに進むようにして訓練されてきているのかもしれない。