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トイストーリー4 徹底考察・レビュー・評価

 

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どんな物語だったのか?

 

おもちゃとしての使命、おもちゃの行く末、おもちゃの幸せとは何なのか。一作目から変わらずに描かれてきたそれを、トイストーリー3よりもさらに深く掘り下げたものである。

そもそもウッディは、アンディとの絶対的な信頼関係のもとで、いつも丸く収まってきた。要は、そこにどんな困難や葛藤があろうともアンディのもとに帰れば、そこには居場所があって仕事がある。トイストーリー3でアンディは大人になり、おもちゃで遊ばなくなっても、アンディの愛から、大切にしてくれるであろうボニーへ引き継がれる。

しかし、今回はどうだろう。ボニーはウッディをさほど気に入っておらず、遊ばれることが無い。それ以上に、劇中の中でウッディが子供に愛され遊ばれるという描写は一度も無い。

アンディという信頼関係が無くなった今、ウッディは居場所を失っている。

「これが俺たちの仕事だ、それがおもちゃなんだ」

それが無くなった時こそ本当のおもちゃの結末なのではないか。それを問うことが、トイストーリー4が必要な理由だと考える。

 

トイストーリー3は確かに完璧なラストである。続編は蛇足だと言いたくなるのも思入れがあればあるほど、わかる。しかし、考えてみればトイストーリー3のラスト、もっと言えばウッディの境遇自体かなり恵まれている。こんなにも持ち主に愛され、手放す時も“この子なら大切にしてくれる”というアンディが選んだボニーへと引き継がれるわけだから。でも、こんなに恵まれた境遇がおもちゃの全てでは無いはずだ。

ピクサーは「必要であるならば製作する」と言ったが、あんな完璧なラストがあっても挑戦するピクサーはすごい。恐らく様々な議論を生むことは重々承知のはずだったであろう。

 

 

おもちゃの行く末とは。

 

思えば、プロスペクターはどうなったか。ロッツォはどうなったか。子供に愛されなかった、愛されることを知らなかった者たちが新たに持ち主の手に渡ったことはあっても、今までそれ以上は描かれていなかった。ジェシーだけはアンディのおもちゃたちの仲間入りをし、恵まれなかった境遇を持ちながらも、おもちゃとしての幸せを掴んだ一例として描かれていたが、果たして全てのおもちゃがアンディのような子供に拾われるとは限らない。プロスペクターは、誰かに買われることなく、一生を過ごしてきていて、博物館に貰われ永遠の命を得ることは切実な願いであった。これについて、“子供のおもちゃでいること”というウッディたちの半ば押し付けな価値観で匿名の子供に連れていかれるが、果たしてこの子供にプロスペクターが愛されるかどうかはわからない。ウッディたちはシドや芋虫組のように“おもちゃを大事にしない子供”経験しているのに、その押し付けはどうなのかと、これについては本国の評論家やファンの間でもよく議論されてきた、ウッディの思想の弱点である。愛され続けてきた者に、愛されなかった者の気持ちの何がわかるのか。

ロッツォはどうか。彼は道端に忘れられてしまい、苦労の果てに家に戻ったらそこには自分の身代わりがいた。彼はおもちゃとゴミは紙一重であることを誰よりもよく知っている。

ロッツォはサニーサイド保育園でおもちゃの労働組合的なもののトップとして確立しており、プロスペクターが望んだ博物館と似たような永遠の命を手にしている。

運営陣は腐敗しきっていてまるで社会主義的なものだったが、これはこれでおもちゃの生きる道の一つであった。

 

子供の所有物だからと言って、必ずしも幸せとは限らない。そんな立場に、今まさにウッディがなってしまっていること。作品に思入れがあるほど切ないが、“子供に愛されることはなくなった”おもちゃは、何処へ行くのか。ゴミとして最後を受け入れるのか、はたまたアンティークショップの店名のように“セカンド チャンス”を求めるのか。

 

もうおじいちゃんである

 

少なくとも20年以上子供の所有物として愛されてきたウッディ。子供におもちゃとして遊んでもらうことを、“これが俺たちの仕事”として仕えてきた。でも、アンディがいなくなった今、ウッディにとって絶対的な持ち主は居ない。

ボニーにも遊んでもらうことはなくなった。仕事を失ったウッディは、フォーキーにおもちゃとしての自覚を持たせようと奮闘するが、ボーに「何故そんなにこだわるの?」と言われると「俺にはこれしかないんだ!」と、決定的な一言を発する。

 

何十年も子供に遊ばれるおもちゃとして生きてきたウッディにとって、それ以外のおもちゃの生き方を知らない。突然、その仕事が無くなれば定年退職により居場所を失ったおじいちゃんそのものである。おもちゃたちのリーダー、そしてアンディに一番愛されてきたウッディは今、自分の存在価値を探している。ボニーの幼稚園についていってしまうのも、子離れできない過保護な親のようで、非常に切ない。フォーキーのため、ボニーのためと言うが、何よりも自分のためであった。

 

1950年代のアンティークおもちゃだとトイストーリー2にて判明するウッディ。製造からは60年以上が経つ。ピクサー製作陣の談によると、ウッディはもともと今は亡きアンディの父親の形見であるそう。愛され続けたウッディが、長い人生の佳境、次に選ぶ人生とは?に繋がってくるのだ。

 

 

ゴミとおもちゃは紙一重である

 

ゴミで出来たフォーキーは自らをゴミだと認識していて、ウッディが説こうとする「君はボニーの大切なおもちゃなんだ」を中々理解できない。しかし、ウッディもゴミ箱へダイブするフォーキーを思考を理解できない。ウッディにとって、ゴミ箱に自らダイブするなど、あの焼却炉の経験があればゾッとするような光景だが、ゴミとおもちゃが紙一重であることを掘り下げるためにも、価値の高いおもちゃとして生まれたウッディの対比としての役目を担っている。そう、ウッディはアンティーク品として価値が高いおもちゃで、持ち主に愛される人生を送ってきており、そしておもちゃたちのリーダーである。フォーキーには無いものをたくさんもっている。対してフォーキーはウッディが持っていない、“ボニーのお気に入り”ただそれだけがあるのだ。ゴミとおもちゃ、ウッディとフォーキーという対比がフォーキー以上にウッディ自身の存在意義を問うための対比になっていた。

 

新しい生き方を提示するボー

 

ボーは、1作目とはかけ離れた見た目、キャラクターで登場する。何が彼女を変えたか?

ボーはもともとランプの下に置かれる陶器の人形だ。そもそも壊れやすく子供のおもちゃには向かない。ウッディやバズよりも、自分がおもちゃとして必要とされなくなることは最も早く理解していた人物だ。9年前としてボーが知り合いに譲られるシーンにて、ボーがウッディに話す内容から読み取れる。

その壊れやすい体であるが故、強く生きなければ生き残れなかった、この9年の空白が彼女を強くしたのだろう。

そして今作でボーは非常に現代的な強い女性像として登場し、小さな世界に収まっていた保守的なウッディに対し、自由主義という価値観を見せる。

 

ギャビー・ギャビーは悪役か?

 

ギャビー・ギャビーは子供に貰われたことがない。これはトイストーリー2のプロスペクターと同じである。

二つ目に、アンティークショップのセカンドチャンスの中では権力者であり、自身の私利私欲に基づき行動するトイストーリー3のロッツォ的な側面を持つ。

そして3つ目に、ギャビー・ギャビーはウッディと同じ1950年代のおもちゃである。

まるで全て集約したかのような複雑なキャラクターであるが、一つだけギャビー・ギャビーだけが持つ要点がある。それはギャビー・ギャビーは未だに輝けると信じていることだ。トークボックスが治れば私は愛される、という夢を信じているが、そんなわけがない。1950年代のおもちゃを今時の子供が欲しがるわけがないのに、現実との折り合いを付けられず60年間もアンティークショップの中で待ち続ける。ちょっと狂気じみているが、初期不良トークボックスが壊れていたことで彼女が強いられた人生はウッディの人生とはかけ離れた、まさに光と陰である。ギャビー・ギャビーにとってはウッディが羨ましくてしょうがない。

初見のホラー感とは裏腹に、次第に観客はギャビー・ギャビーに感情移入し始めるような作りになっている。それらは、最後のチャンスのシーンによりウェイトをかけるためだ。

ギャビー・ギャビーを取り巻く腹話術の人形たちがしゃべらないのは、ギャビー・ギャビーの声の障害を模したものだろう。

 

セカンドチャンスとは何か?

アンティークショップの店名になっている“セカンドチャンス”。ズバリ、トイストーリー4がセカンドチャンスをテーマにしているのは言うまでも無い。フォーキー、ウッディ、ボー、ギャビー・ギャビー、それぞれのセカンドチャンスが描かれる。ウッディにとっては、自由主義、自由意志を受け入れられるかということ。子供に遊んでもらう仕事を終えたら、ゴミになるのか、それとも何か自分の役目を見つけるのか。ウッディは、おもちゃたちにセカンドチャンスを与えるという役目を見つけたようだった。エンドロールでおもちゃを子供のもとに送っていたように。ウッディがその役目にたどり着くまでにギャビー・ギャビーは必要不可欠であった。トークボックスが治っても子供に見捨てられたギャビー・ギャビーは、2度目のチャンス、遊園地で迷子の女の子に拾われる。ウッディに背中を押され、ギャビー・ギャビーがスタンバイする物陰には街灯が一つあり、まるでスポットライトのように彼女を照らす。

おもちゃには“会話する声”と“おもちゃの声”があるが、おもちゃの声とは言わば“演技”である。そのセカンドチャンス、スポットライトが彼女を照らし、迷子の女の子がギャビー・ギャビーを拾い上げ、背中の紐を引っ張る時、ギャビー・ギャビーの一世一代の名演技は観客を泣かせるのだ。

ウッディはデューク・カブーンにも輝ける場所を与えている。

 

バズの心の声は何なのか

 

※書いてる途中

 

ジェシーがやりすぎな件

 

※書いてる途中