エクソシスト 信じるもの 考察・レビュー・解説
エクソシストシリーズの流れ
ホラー映画の金字塔『エクソシスト』は1973年の公開以来、のちのホラー映画に多大な影響を与えただけでなく、“常軌を逸した”その制作過程も相まって50年経った今もなお多くの映画ファンに語り継がれている。しかしながら、その後に続編として公開された『エクソシスト2』はあまりにもオカルト要素(SF)が強く、謎のリーガンお色気シーンなど、一作目とのギャップに酷評され、ひどい出来栄えの2作目に怒った原作者が、自ら『エクソシスト3』を正当続編として制作に至ったほどだ。
しかし、その3作目すら公開当初こそスマッシュヒットはしたものの、悪魔祓いシーンや刺激の強いホラーシーンは少なく宗教色の強いフィルムノワールサスペンスな一作になっていて、一作目とはまるで似つかない。それもそのはずで、当初は『リーガン』というスピンオフ的な企画でスタートしたが、稼ぐためには“エクソシスト”のタイトルが必要だと言うことで、悪魔祓いシーンを付け足したりして続編として軌道修正し、さらに撮影中の役者トラブルなどへの対応のため、何度も役者や設定を改変されながら完成に漕ぎ着けたもので、やはりどっちらかった印象否めない。
その後も『エクソシスト ビギニング』が4作目として公開されるが、これも問題続き。企画当初の監督が病死し、代わりに『タクシードライバー』などで脚本を務めたポール・シュレイダーが引き継いだが、たいして怖くもなく地味だと言うことでお蔵入りになる。『ダイハード2』や『クリフハンガー』などド派手なアクション映画を送り出してきたレニー・ハーリンによって作り直しがされるが、CGやアクション、大きな音でびっくりさせ、大冒険要素が加わる。エクソシストじゃない感を極め、興行成績は低迷。予算回収に困って結局最初にお蔵入りになったバージョンも『ドミニオン』というタイトルで公開することになる。やっぱりだめだった。
ちなみにエクソシスト2の後に『エクソシストの謎』という映画も公開されているが、こちらはリーガン役のリンダ・ブレアが出演しているというだけで中身は関係が無い。ちなみにこの映画はイタリアで制作されたラ・カーサシリーズである。ラ・カーサとは、1981年『死霊のはらわた』を、イタリアではラ・カーサというタイトルで配給したことに始まる。『死霊のはらわた2』はラ・カーサ2、この成功に乗じようと勝手に非公式続編を5まで制作。そのうちの『ラ・カーサ4(ウィッチャリー)』が、日本配給では『エクソシストの謎』という邦題なるのである。この時代らしいエピソード。エイリアンとかコマンドーとか謎の類似品をレンタルショップで目にした覚えがある方は30代以上だろうか。
2023年 新たな三部作
かなり雑に変遷を追ったが、結局一作目以降は失敗続きで、あの強烈なインパクトを残した『エクソシスト』のホラー表現としての極致は、一度も再現されていない。ホラー映画はコンセプトドラマとして続編制作されるほうが成功例は多く、13日の金曜日のようにレイクサイドキャンプ場で若者を殺す、など毎回同じコンセプトを利用し観客は逃げ回るスリルと殺され方をポップコーン食べながらキャーキャーできるホラーが量産しやすい(ジェイソンも2455年にゴールドスリープしたりと迷走した経験はある)。エクソシストも子供へ時代を超えて乗り移っていく、そしてどのような悪魔的な残忍行為を行うか、どのような悪魔祓いをするか、としてシリーズ化していくほうが今となってはよかったのでは無いかとも思うが、一作目のリーガンやカラス神父のキャラクターの秀逸さが故か、ストーリードラマ、要は続編へと縦に話が繋がっていく選択肢を選ばざる追えなかったのも理解ができる。一昨目以降、全ての続編が一作目とは繋がっているが、続編の数々は別物であることが、エクソシストシリーズが抱えるジレンマを窺い知れる。
2023年にリブート版エクソシスト最新作が公開された。『エクソシスト 信じる者』はなんと三部作の一作目となる。監督はデヴィッド・ゴードン・グリーン。デヴィッド・ゴードン・グリーンといえばアメリカのスラッシャー映画『ハロウィン』シリーズの最新3部作を手掛けた監督である。1978年から現在までに12作の歴史があるハロウィンシリーズも他のホラーフランチャイズと同じように紆余曲折を経て、2018年に仕切り直しでリブート版新シリーズが制作されたが、これが概ね高評価だった。デヴィッド・ゴードン・グリーンによる2018年の一本目は「最高のハロウィン続編」「シリーズの復権」などと高い評価を得てスラッシャー映画として最高興行収入を記録したのだ。そういった実績からも『エクソシストシリーズ』の復権を夢見たファンは多かったはずだが、『エクソシスト 信じる者』はRotten Tomatoesで見ても低評価寄りである。「フランチャイズを原点に戻そうとしている点は評価できるが、新たなアイディアに欠けているため、計画されている三部作のスタートとしては不吉なものになっている」等の意見に集約されている評価が多い。これは一本のリブート作として見れば確かに真っ当な意見である。エクソシスト一作目のアイディアがふんだんに再現されているが、ただの焼き回しと言われても否定できない。悪魔の乗り移った少女たちのビジュアルも、あの声も、口から吐き出す緑の液体も、宙に浮く様も、確かにエクソシストなのだが、一作目の初見のインパクトには敵わない。もはやブリッジ階段下りや首回転や十字架で自らの急所を何度も突き刺す様を思い出せば、今作は抑えに抑えている。ただ、考えてみてほしい。この作品に至るまで、いままでの続編はどうだったかと。エクソシストの歴史を振り変えればどう考えたって暫定2位である。エクソシストファンであれば、楽しめたはずだと思う。確かに悪魔の乗り移った少女が×2になったところで恐怖は増幅されないし、シスターにならなかったオバさんや神父のとりあえずやってる感は、悪魔祓いの神秘さや、そこに至るまでの虚無感を感じない。『エクソシスト』一作目では、とにかくあらゆる可能性を模索している。脳髄液を調べたり精神療法を試したり、ただの水道水を聖水だと言って試したり音声解析を行ったりと。悪魔だと断定はできないが、最後にやれることは悪魔祓いだけだった過程があの悪魔祓いの深みが増す理由である。効果があるのか半信半疑で、リーガン自身の精神病等の可能性も否定できないままなのに、あまりにも異常なことが起きているからだ。『エクソシスト信じる者』はいかがだろう。対象者が2人になったことで、「まぁ悪魔っしょ感」が出てしまうし、悪魔は嘘つきであるという一作目ではかなり重要な前提が、今作では「どちらかを選べ」というかなりチープなくだりだけで消費している。つまり、エクソシストシリーズとしては良い出来だが、ホラー映画としては、エクソシストに強く影響を受けたであろう『ヘレディタリー』のほうがよっぽど常軌を逸した恐怖が描かれていた。しかし.....。現代で一作目のような恐怖映像がどうやって再現できるだろう?あの時のように監督がショットガンを撃ったり撮影直前に殴ったりして演者を動揺させることで撮れたシーンや、子役が演じる場所でセットを冷凍庫のように寒くさせることが、現代のコンプライアンスでできるか。はたまた訪れた神父に対し「この子にペニスを突っ込みに来やがったな」だとか、「キリストにファックさせてやれ」と十字架を股間に突き刺すだとか、こんな演技を女の子の子役にやらせられるのか、疑問である。わたしたちはもう気づいているはずだ。あんな恐怖映画は時代が作れたようなもの。もうエクソシストを初めてみた時のような凄まじくショッキングな映像作品はオーバーグラウンドには現れない。『エクソシスト 信じる者』を新しいアイディアが無いなどと腕組みして批評してもしょうがないのである。唯一、感じることができるのはエクシスト一作目のリーガンの母親クリスが書いた本が本作に登場し、クリス本人も登場することである。その瞬間、あの恐怖が蘇る。あの時を思い起こす恐怖がこの映画には眠っている。こうしてリーガンが語り継がれていく限り、恐怖は終わらないことこそ『エクシスト 信じる者』が提示したアイディアなのではないかと考えている。しかしながら、そう言いながらもどこかで待ち望んでいる自分もいるのだ。とてつもなく常軌を逸していて下品で侮辱的で...狂った映画の中に新しいリーガンが現れることを...。