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白鳥とコウモリ 書評・考察・解説

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『白鳥とコウモリ』——

 

「光と影、昼と夜、まるで白鳥とコウモリが一緒に飛ぼうって話だ——」

 


作中で、中町巡査は五代にこう話す。

タイトルの“白鳥とコウモリ”とは、美令と和真であると当てはめれられる。至ってシンプルで、明白な比喩だ。倉木達郎の供述が嘘であり、真犯人は別にいたことが判明すると、息子の和真は“加害者家族”では無くなった。それと同時に、白石健介が過去に犯した殺人が明らかになれば、美令は被害者家族から、加害者家族になる。立場が入れ替わるのである。果たしてどちらが白鳥か?コウモリか? こたえはどちらもである。二人は白鳥でありコウモリなのだ。二人とも“光と影”を持つ。光なしに影は生まれず、影が無ければ光の存在意義は無い。さらにお互いに光と影として、あるいは影と光として機能する。つまり、この事件が意図するものとは、表裏一体であることの複雑さである。絶対的な悪と絶対的な善というものは無い。人間の意識とは主観的であり、そして相対的である。どちらか片一方から見れば、真実は一つなのに、善と悪どちらにでも転がっていく。それは、時に不可抗力だ。 倉木達郎を、白石健介を、誰もが言語道断だと非難したか。していない。そして事情も知らぬ無関係の世間というものが白石美令をバッシングしているというのは、ある意味皮肉に映っている。 だとすると白か黒かを裁く法律や裁判とは、非常に不確かなものかもしれない。長い時間をかけて絡み合った複雑な事実を、どう白黒はっきりさせるのか。やったやられたを証明するだけである。そこに“時効”が絡むとさらに、裁くとは何か?とういう命題が生まれてしまうのだ。 やはり、検事、弁護士は事務的なのである。目の前の材料をどう処理するか、である。そういった描写が印象強く描かれている。

その複雑さの正体に迫ろうとした二人を待っていたのは、迷宮だった。和真と美令は、明らかにしようとする。真実が明らかになっていくにつれて、美令に暗い影が落ちていく。昼と夜。この事件の真相にたどり着けるのは二人しかいなかったことがわかる。五代や中町には感じ取れない違和感が複雑さの正体を明らかにしていくのだ。 東野圭吾は、読者の考察に任せる前に、中タイトルにある中町のセリフで核心的な部分を提示する。こういう説明的な段落を排除していくと350ページ超で完結できただろうとも思わずにいられない。ミステリーファンの評価がイマイチなのは、語り過ぎているからだろう。

「このまま二人でどこかに消え去れたなら、どんなにいいだろう」

加害者家族と被害者家族という大きな壁を挟んだ関係性の中で交わされる言葉は、全て事件についてのことである。ぎこちなく、硬い印象のままである。でもどこかお互いを気にしていて、お互いを信頼している。そこはかとなく漂う、そんな雰囲気。ついに美令が手を握ったのは、とてつもない絶望の中で唯一心を許せるとすれば、隣いる和真だけだった。どう考えても浅はかな恋愛感情では無い。何かに怯えた人が取る、本能的な行動だったかもしれない。和真は思った。「このまま二人でどこかに消え去れたなら、どんなにいいだろう」——これもまた恋愛感情が動機とは言えない。言ってしまえば、二人は突然人生の歯車を止められた状態である。なんとか動かすために、悲痛な現実に打ちひしがれながら、歩を進める。いっそのこと、人生ごと乗り換えてしまえば——全てを捨て、違う人生を歩めば暗闇から解放されるだろうか?——和真の気力は限界に来ていて、自分の人生から逃げ出したい。そして誰よりも理解者であろう、隣の女性は、同じ絶望を味わっている。和真がエリート広告マンで、美令は美人だという紹介がある。年齢の近い二人がどうも、恋愛関係に落ちるだろうかと感じながら読み進めていた読者は多いと思う。ミステリーファンとしては複雑だろう。重いテーマを扱い、人間の複雑さや、理不尽な結末を伴う世界観に、恋愛関係が入り混じった瞬間に拙劣になってしまう。恋愛描写は時に登場人物を都合よく動かすことができる。

推理をする張本人たち同士が現在進行形の恋愛を挟んでしまうと、物語の緊張感を欠いてしまう。二人の空間は落ち着ける場所だからである。こういう危惧をした読者と、これは恋愛では無いと考察した読者と二手に分かれるのでは無いかと感じる。