スグループ

モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

Netflix『グッド・ナース』解説・考察・批評・レビュー

実話映画をどう見るか?

実話モノ映画を考察する時、テーマはどこにあるかを考える。多くの場合は事件そのものより、事件の根底にある社会的問題を問うのがベターだ。単純に事実を再現しているだけであれば映画としての創造性や意義は必要なく、ドキュメンタリーの仕事だからだ。例えば、Netflixオリジナルドラマとして公開された『僕らを見る目』は“セントラル・パーク・ファイブ冤罪事件”を題材にしながら根深い人種差別問題で表面を作り、政権批判を内包していた。あるいは、事実を基にしたシリアルキラー事件を描いた名作、『ゾディアック』(2007年/デヴィット・フィンチャー)では、犯人がまだ捕まっていない事件に、映画として“どう結末をつけるか”がテーマとして描かれる。『グッド・ナース』は、チャールズ・エドモンド・カレンの起こした殺人事件を描く。Netflix版“チャールズ・カレン”は、この事件をどう描いたのか考察していく。

チャールズ・カレンの半生と動機

こういった異常殺人や連続殺人を犯す背景には、必ず幼少期からの家庭環境が何らかの影響を及ぼしていることは間違いない。例によってチャールズの半生も、決して健全で幸福だったとは言えない。末っ子として生まれたチャールズは生後間も無く父を亡くすと、続いて子供時代には姉のボーイフレンドからからいじめを受け、9歳の時には薬品による最初の自殺未遂を行なった。高校時代には交通事故で母も亡くし、その後すぐに8人兄弟だったうち2人も亡くなっている。高校を卒業して海兵隊へ入隊するも、ここでも仲間からいじめを受けると、異常行動が目立つようになり注意を受けて自殺未遂を図る。海軍の精神病棟に何度か入院し、最終的には除隊となる。また、癌との戦いに敗れた兄を長い間介護もしていた。その後に結婚をし、二人の子に恵まれるが、チャールズの異常行動は妻によって告発され、飼い犬への暴力、娘の本を燃やす、娘をベビーシッターに預けたまま1週間も迎えに行かなかったなどの理由により離婚となる。

こうした彼の半生を見てみると、2つのことが読み取れる。それは、不遇な経験は不可抗力にして起き、そして彼は多くの場合に自殺を選んでいることだ。これにはチャールズがメディカル・シリアルキラーとなった理由が垣間見える。彼が行なった連続殺人の現場は病棟である。被害者はほとんどが回復が見込まれている患者だが、病室に訪れる殺人の脅威には立ち向かえない。つまり、チャールズは誰かの生と死を選ぶことができるのだ。救うことも、殺すこともできる、このコントロール感覚は彼の不遇な人生と対照的である。彼はできるから殺した。彼自身にそれ以上でもそれ以下でもなかったのかもしれない。命の尊さなど、とうの昔に排除された世界で生きてきたチャールズが、400人の殺人をほとんど覚えていないというのは、一切共感などできるわけが無いが、線で繋がるような気はしてくる。映画では動機は語られないが、実際には法廷で「患者が苦しみを終わらせ、人間性を奪われてしまうことを阻止した」と語っている。しかし、多くの犠牲者は回復が見込まれており、この理屈は通らない。アメリカで精神科医は“自分が正しいことをしていると確信するための正当化”と解説するが、そんな正当化すら本気で言っているのか怪しい。何故ならこのメディカル・シリアルキラーは、直接犠牲者に外傷を与えない点滴という方法、さらにインシュリンという特性から、投与から死亡までに時間がかかる。まるで実感の薄れるような殺人。人を殺すことや死体に快感があったり、残虐性を持っていない。また、連続殺人によくある若い女性とかブロンドヘアーとかカップルと言ったようなカテゴライズされた犠牲者像も無い。自分と最も遠い存在の神にでもなったような気分だったのでは無いか。そして彼が与えたのは遺族の悲しみだ。彼が見たかったのは、不幸に嘆く遺族だったのかもしれない。

グッド・ナースはエイミー視点で描く

チャールズの半生を基に考える動機を前提に、では映画としてどう描いたのかを考えてみたい。この事件から背景にできることは3つある。「劣悪な家庭環境が生まれる社会への問題提議」「医療機関の隠蔽・システム、制度上の欠陥」「社会保障とシングルマザー」である。グッド・ナースがとりわけ実話モノとして高評価なのは、シリアルキラーの幼少期の経験を描いて狂気性を訴えるような、いわばありふれたプロットでもなく、医療機関と検察と警察の権力間の攻防でもなく、病気を患ったシングルマザーの視点でサスペンスを作ったことである。事実が明らかになっている実話ベースのサスペンスというのは、視聴者の興味を継続させるのが難しい。それを実現しているのは、映画に重要な”足かせ”である。

主人公には必ず何かしらの足かせがある。思うようにことが運ばないからこそ、緊張感が生まれる。彼女にたくましい夫が居て、健康体であったらどうだろうか。グッド・ナースにおいての見せ場はほぼ消失していたに違いない。実話映画を作るとき脚本家はどこに注目するだろうか。ここに手腕があったと言える。また、それを支えるのは演技と演出である。それは冒頭3分で発揮される。逮捕劇より数年前のとある病室で、心肺停止に陥る患者を取り囲む看護師、医者たち。この冒頭3分である。その後ろで、茫然と事態を見つめる一人の男。彼は一言で言って無表情だが、誰が見ても、彼が何をしたか理解する。まるで想定していたかのように落ち着いている目線、どこか他人事のような横顔に、ゆっくりとズームしていく。これだけで、この映画が何を見せたいかがわかる。演技と演出だ。聞き取るのが難しいような呟くようなセリフ、微かな息遣い、動揺を隠すような強張った表情、狂気的な取り調べ、ベッドで母親を見る娘の眼差しまで。この題材から何ができるかを、最高の形で完成させた映画だと、言い切りたい。