映画を見たり本を読む時、この登場人物はどんな役割を持っているかを考えると、作者の意図が読み取りやすく、物語の本質を理解しやすい。受動的になりすぎず考えながら見ることに慣れると、子供向けアニメだって深いものに思えてくる。無論、『ドラえもん』は“子供向け”の一言で片付けられない超名大作なのだが。
そして、多くの映画が、“社会の構図”として考えるとわかりやすい意図が見えてくる。普遍的なメッセージ性を含むとすると、おおかた社会問題であるからだ。
ドラえもん・のび太・スネ夫・ジャイアン・しずかちゃん、である。
彼らが繰り広げる絶妙なバランスを持った『ドラえもん』の世界の中で、それぞれ彼らはどんな役割を持っているか?
話の起点は、のび太が何か助けて欲しい時にドラえもんに頼ることから始まる。ドラえもんは道具を与え、仕返しや形勢逆転のチャンスを与える。しばしば、スネ夫はジャイアン側にものび太側にもつくことがある。さらに、稀に出木杉くんから知識を与えられ、争いの中でしずかちゃんが『のび太さんなんて大っ嫌い!』と叫び争いは終わる。
ジャイアン=権力者
ジャイアンから考えてみるとわかりやすい。彼には生まれ持った体格と力がある。場を掌握し、リーダー的存在である。つまり彼は権力者である。『お前のものは俺のもの』という現代から見れば時代錯誤な名言も、彼を象徴する言葉である。
ドラえもん=道具
レギュラー回の中でドラえもんという存在そのものには大した意味を持たない。意味があるのは道具である。現実世界に置き換えれば、家電・車・PC等の人々の願いを叶えてくれる便利な道具である。ドラえもん自身は説明書にすぎない。存在の否定ではなく、役割として考えた場合である。
のび太=一般市民
ジャイアンのあれをしろ、これをしたい、という要求に逆らうことなく結果を強要される姿は一般市民そのものである。その中で無力な一般市民が道具を用いて望みを叶えていく姿は、我々がエアコンを買い、車を運転し、PCでインターネットを使う姿と、何ら変わりはない。
スネ夫=既得権益
スネ夫は金持ちに生まれ、豪華なおもちゃなどや高級邸宅を利用してジャイアンに優遇された立場にある。しかし、しばしばジャイアンに反目することもあり、その場合のび太と協力関係を築きジャイアンに立ち向かうことになる。その時には、スネ夫もドラえもんの道具を利用している。考えてみると、話の起因はジャイアンが示すが、『スネ夫がどういう立場をとるか?』によって話は左右されている。
しずかちゃん=道徳的・論理的権威
しずかちゃんはこういった権力構造の外にいる。その象徴的な言葉が「のび太さんなんて大っ嫌い!」「たけしさんひどい」だ。争いの外からしずかちゃんがこう言い放つだけで場が収まってしまう。争いが行きすぎた場合に道徳的・論理的なジャッジをする存在として描かれている。言い換えれば法・秩序とも考えることができる。
出木杉くん=知の象徴
メインストーリーに関与することがほぼ無い出木杉くんは、知識の象徴である。彼は争いに参加することもジャッジすることもなく静かに登場し、のび太に知識を与えフレームアウトする。我々が本を読み、インターネットを使う姿と同じである。知識は、権力者の力が及ぶことはないし、平等に利用することができる。
のび太の母親=社会との対比
のび太の母親が登場するのは、ほぼ家庭の中である。買い物に行く、勉強をしなさい、学校に行きなさいという日常を語るだけの存在である。社会に揉まれ、自宅へ帰ると「のび太、ドラちゃんどこへ行ってたの!」とストーリーの終わりを示す。
どんな映画でも大体ストーリーとは『行って帰ってくる』にまとめる。物理的に帰ってくることもあるし、精神的に安定→不安定→安定と戻ってくることもある。
好きな映画を思い浮かべて欲しい。その映画は、どこかへ行って、戻ってきて話が終わるはずだ。
映画におけるジャイアン
映画となると、家庭から社会という構図を飛び越え、新たなる場所で困難に立ち向かうこととなる。それは未来であったり、雪山、ジュラ紀、縄文時代など様々だが、一つの社会の構図として描かれていた5人は、知らない世界に飛び出すことで組織化していく。この時ジャイアンはカッコよく、男気が溢れた存在となる。一般市民が逆境に立たされた時、守ってくれるのは権力者であると語っている。