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ノームコアとは何だったのか。

 

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ノームコアとファッショントレンドは真逆の性質を持っている

 

2014年頃からファッショントレンドとして浸透した"Normcore(ノームコア)"という言葉も、ここ2、3年で再解釈がさかんになった。今一度考察していみたいと思う。

 

表面的なトレンドとして一人歩きしてきたノームコアという言葉は本来、ファッショントレンドではなかった。誤解され続けてきたこの言葉は、“究極の普通”と訳され、シンプルな服を普通に着るという意味不明なトレンドを生み出してしまう。この言葉は2014年〜2016年頃までトレンドワードとして多用された。

普通なものが大量に並び、大量に生産されていく。ユニクロが全肯定され、コンバースのALL STARやVANSのOLD SKOOLなどが品薄になる程だ。どこを見渡してもグレー、黒、白のシャツやパーカーが積み重なり、プロパーもセールも普通なものであふれる。

しかし、ノームコアとは本来、生き方そのものを定義する哲学的な側面を持った言葉である。

どういうことか。今もなお市井に漂流し続けている。その漠然とした感覚を言語化する、ノームコアとは。

 

トレンドとは何か?

2014年にニューヨークを拠点とするK-HOLEから発信されたノームコアというトレンドワードと共に論文が発表された。内容は精神的かつ社会的な内容となっている。まず重要な前提として『トレンドは消えた』ということを述べる必要がある。

流行(モード)は無くなったのだと。この認識についてはアパレル業界では共通認識だろう。

 

そもそもトレンドとはデザイナーやブランドのディレクター、あるいはメディアが作り出すものではない。そうして生まれる即物的なトレンドも中にはあるが、社会的にブームを巻き起こすファッションのトレンドは深く社会情勢・経済・災害などに影響される。これらは人々のライフスタイルを変えるからだ。

 その時代の人たちが何を感じているか?=求められる(売れる)アイテム=トレンドとなる。それがわかりやすく強く現れた例として東日本大震災がある。浮かれた気持ちではいられない時は白か黒しか売れないし、次いで大規模なスニーカーブームが起きた。帰宅困難を大多数の人が経験したことが起因の一つである。帰宅困難でなくとも、災害時に動きが取りやすいアイテムとして、機能性を付随したアイテムは市場拡大していく。女性にとってスニーカーがファッションのマストアイテムとなった決定打は東日本大震災だ。

それではノームコアという議題の中で語るべき社会的現象は何か。SNSである。

 ノームコアはまず、個性を再解釈する。人と違うとは何か、人と違うことを追い求めれば自分の個性は満たされるのか。『個性』とは、言い換えれば『存在意義』である。

わたしが存在する意味は?それは個性によって立証される。

 『個性』に対する感覚が2010年以降、急激に変わって行ったのはインターネット・情報・テクノロジーの発展がある。それまで我々は高校、大学、会社と限られた空間の中で自分は何者かを探してきた。人一倍仕事の成績を出す、誰よりも個性的でオシャレなファッションを目指す、誰よりも面白く...。小さな世界の中では、唯一無二の個性を発揮することが出来る。そして周りから認めてもらえる。

 SNSが変えたのは、学校、会社、組織を超えて"個"を知ることができること。『人との違い、個性を追求する人』は、世界に溢れていて、『人と違うことに悩む人』も溢れている。世界は広く、自分はちっぽけな存在だとわかってはいたが、現実に知ることができ、自分よりもっと個性的で、あるいは自分よりももっと個性について深刻な問題を抱えている人がいる。

 そういった個性は、結局カテゴライズされていく。つまり、皮肉にもまた一つの集団として認知され、個性とは何かが曖昧になっていくのだ。彼らは気づき始める。個性を追い求めた先には同じような集団に行き着き、市井の一般人が、他の誰とも違う個性に満たされることは無いのだと。

 そうして繋がる“ノームコア”という考え方。ならば、人と違う個性が自分にとっては普通であることを、同じ個性を持った人たちと認め合うならどうだろう。

それぞれが自分の個性だとしていたファッションやライフスタイル、まとめればそれは感性だ。それらは自分たちにとっての“普通”であり、その普通を共有し、認め合う。認め合うことは『存在意義』の肯定だ。

一言で表すとすれば、『自分にとっての普通が何であるか、そしてその普通を認め合える共同体に属すること』それが“ノームコア”の本質である。

つまりSNSによって、より多様性が認められた社会からは、大多数が追いかけることで起こるトレンドというものが失われていった。

何とも哲学的でもあり、一言で片付けられないノームコア。

マスマーケティングにおいてノームコアの本来定義している議題は扱いづらい。

結果、わかりやすく提案しようとする中で、多用される“普通”という言葉は誤解され、流行に敏感である必要はなく、自分にとって究極な普通を求めればいいということなのに、いつの間にか“普通なものを着ていればいい”と都合よく誤用されてきた過程があるのだ。

 さらに「流行に敏感である必要はない」というのも、もう少し噛み砕くと「こうでなきゃだめ」という同調圧力、「こうあるべき」という固定概念からの解放である。

 ノームコア=トレンドという一般認識がいかに意味不明だったのか。逆にトレンドに対するアンチテーゼですらあったのだから。

 

 世代や性別によって社会的な"普通が"求められながら、同時に『自分が何者なのか』を追い求めながら生きていかなければならない社会は健全なのか?

大学を出て就職をし、結婚をして家を買う。はみ出てしまえば負け犬か?

独身なことがダメなのか、貯金がいくらだ、バイトしながら夢を追うことは子供なのか、時計はいくらのをつけろ、車は持っているか、...世間的なそういった普通をクリアしながらも、個性を磨くとするなら、果たして個性ってなんだ?

 

窮屈な社会のしがらみの中で、新しい生き方として提案されたノームコアは、もっと自由であるために『人と違う』ことを探すのではなく『自分にとっての普通』を探し、極めることである。

あらゆる社会一般的な“普通”の中で自分とは何者かを探し、個性を追い求めていた時代にあったそれは、個性ではなく、それこそ普通だったのではないか?

 

LBGT +、マイノリティ、働き方の進化、あらゆる個性は認め合いながら新たな時代を作り出していく。ノームコアはあの頃のトレンドを語る言葉ではなく、むしろ現在進行形で、今もなお生き方の再定義をもたらすキーワードなのである。