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モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

老後は仮想現実に入るとか考えた。

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PS1でグランツーリスモが発売されたのは1997年。

 

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20年後の2017年に発売されるグランツーリスモsportのグラフィックは、一見実写との区別が難しいほど、著しく進化を遂げている。

 

 

なにもグラフィックだけに限らない。今やアメリカ全土を舞台に自由に行動できるオープンワールドゲームもあれば、オンラインで世界中の人と対戦し、協力し、会話しながら戦略する。時には広大なステージの中ですれ違うだけの関係の時もある。選択が結末を変えることもある。

それはまるで、人生かのように...。

VR体験だって家庭で楽しめる時代になった今、ゲームはいつまでゲームと呼ばれるのだろうか。

                                                         —おれ

 

ということでこないだテレビで見た、変わった老人向けデイサービスで思うことがありました。

 

どうやらカジノ風のデイサービスがあるらしい。老人たちが集まるそこでは、架空の通貨で賭け事を楽しんでいる。すごく楽しいらしい。

デイサービスは介護サービスが目的だが、体操みたいなことをやらされるより、ずっと楽しいしボケ防止だ!って人気なんだそう。麻雀を楽しんでいる人もいて、楽しそうだし、麻雀はボケ防止には効果抜群だろう。

 

さて、デイサービスも既成概念にとらわれない斬新なやり方で形式を変え始めた今この先、例えばあと40年後の未来には今の20代、30代はどんな老後生活を送っているのだろう。

 

お気づきだろうか?

そう、VR生活しかない。

20年間(1997-2017)でこれだけゲームが進化しているのだから、40年後(2058年)には専らSFのような世界が広がっていたって不思議ではない。

ゲームは現実との垣根を超え、娯楽レベルでは収まらなくなっているはずだ。インターネット、グラフィック、オープンワールド、VR。これだけも仮想現実の香りがプンプンしてくる。eスポーツもオリンピック種目として採用される時代だ。

ゲームの進化の行く末は現実と遜色無いリアリティ空間。仮想現実を構築し、その中で第二の人生が始まる。

映画マトリックスでは『人間は五感でしか現実と認識できない』と言っていた。つまり五感で感じることができれば、もはやゲームではないリアルなんだ。

ハードの問題は、現実と同じように五感を刺激してやれるような発明があればいい。脳を直接刺激するかなんかして。

 

ゲーム技術が多角的に進化を遂げ仮想現実的なものが本当にできて、老後は仮想現実の中で生きるとしたら。想像に容易い。

でも、問題は山積み。仮想現実に入った老人の肉体的な介護をする人も必要だし、施設や維持にもお金はかかる。

仮想現実に入った老人が、仮想現実の中で行うことが現実社会に還元できる何かがないと。

仮想現実の中で働く、というより活動していけばいい。現実社会のために。

 

だからこそ、仮想現実をただの楽園にしてはならない。仮想現実に入るにしても、自由気ままなだけの楽園は人としての活力を奪う。

楽しいだけでは脳も刺激されず、利他的に行動しなければいけない使命感が生まれない。

これも映画マトリックスの中で語られたことだが『人間にとって現実らしさとは、時として理不尽な結果や選択に直面すること』。仮想現実の中で、現実的に活動するには、そういった”人生の歪さ”を再現することだ。 

 

そうして仮想現実の中で、自分の役割の遂行と休息を繰り返し、現実社会貢献していく。

現実社会よりも、もっと変わったたくさんの働き方が生まれるはずだし、現実社会ではものすごくローカルな範囲で行われていて知られなかった価値あることが広く共有できるかもしれない。インターネットがそうなったように、それをもっとリアルな空間で。老人だからこそ、できることは過去を後世に伝えることだ。

VR老人は、伝えていけばいい。自らの人生が体験してきたこと、見てきたこと、学んだこと。戦争や天災だって、語り継ぐことは必要だ。繰り返さないため、教訓のため。その実体験の生の声を自発的に聞きに行こうとする若者なんて少数派なんだから。ちょっと気になっただけならインターネットで調べて間に合ってしまうことを、個人の視点から語られた話は、まるで影響力が違うはずなんだ。『善き人のためのソナタ』というドイツ映画があるが、ベルリンの壁崩壊までの東ベルリンの話はWikipediaで大体の概要は知れる。しかし、多くの事実に基づいて、劇作家ドライマンを盗聴するシュタージのヴィースラー大尉の目線から描かれたこの映画からは、どれだけ当時の東ベルリンの人たちが様々な葛藤を抱えていたか、疑似体験できることに価値がある。形式的に整った文を読むよりエモーショナルなストーリーテリングのほうが訴えかける力が強い。生の声には、感情があるわけだ。教科書のように書き手や語り手を意識しない学びは、学びとして浅い。でも体験者本人の口から語られる話は、教科書で得るものよりも貴重な財産になるはずだ。

 

学校に、『仮想現実』っていう授業があってもいい。ただ、若い子も入れるってのは危険性が高い。だから『65歳以下は教育目的以外の仮想現実利用を認めない,仮想現実国家認定資格保有者が学業における教育利用に使用する場合,これに当てはまらない.』とかでいい。

生徒は、徹底した管理下のもと、それぞれの仮想現実に入り、VR老人から学ぶ。

仮想現実に入った老人は必ずしも、自分の姿である必要は無い。仮想現実の恩恵は受けるべきだ。ランダムでも自分で選べるでも、とりあえずは現実の老いた肉体よりも、融通の利く体になれるに越したことはない。筋肉バッキバキになれれば動くことが誰よりも楽しいわけで、脳も活性化されるだろう。あるのか知らないが幸福を感じると分泌される何かが健康に素晴らしい結果をもたらすかもしれない。ムッチリな巨乳ちゃんになったっていい。意味はあるさ。だって、巨乳を求めてる幾千の若者たちが、様々な巨乳を実体験でき

 

ご覧いただきありがとうございました

 

 

 

 

 

ギターだけどMaxon Auto Filter Af-9でクラビなwahを目指したい

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MaxonのAF-9。オートフィルター、オートワウがずっと欲しくてどれを買えばいいか...サウンドハウスYoutubeのDEMOを行ったり来たりする日々。

 

このAF-9は定価が2万円弱。結構すんね...。サウンドハウスで¥15,800。

BossのAW-3(¥10,800)なら失敗はしないだろうからBossでいいかな...でもな...。

 

ある日なにげなくネットオークションで検索かけたら、AF-9の美品がびっくりする値段で出品されおりましたので、即落札いたしました。

 

 

それで、何がしたかったのかというとクラビのワウ感を楽曲に入れたかったんです。

それをkeyじゃなくてギターの自分がやりたかったということです。

 

 

最近聞き始めたmoonchildというアーティストのwinter breezeという曲で、そのオートワウ熱が上がりきってしまいまして、ネットオークションとのタイミングもあり、

おれ×AF-9がめでたく誕生したってわけです。

この動画は僕が弾いている動画です。このブログと同じように全くお金にする気は気力も体力も野望も無いので適当な感じですが参考にどうぞ。

youtu.be

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動画で弾いたセッティングです。

デザイン、70年代の家電感がたまらないですわああ

古い家のブレーカーみたいですね

 

しかしセッティングが難しいです。単純そうですけどSENDとPEAKの組み合わせがマジで絶妙で、バランス取るのが大変。Auto FilterにしろAuto Wahにしろ入力レベルで変化するから、ギターの種類で相当変わるし、その前にどんなエフェクターを通したりONにしてたりするかでミリ単位で調整しないと上手くいかないです。その上、この手のエフェクターはある意味演奏道具でもあるから使いこなす演奏技術も必要。だからサンプルセッティングとかあまり参考にならないかもしれない。

 

SENS-入力に対する感動

PEAK-効果を強調

FILTER-高域カット(LP)、高低域カット(BP)、低域カット(HP)

DRIVE-フィルターの移動方向

RANGE-フィルターされる周波数のレンジを選択

 

写真のセッティングにしてしばらく弾いて見て、コーヒーを入れに行って戻ってきたら、なんか音変わってるんすね。あれ?あんだけ決めたのになんで変わった?

さっきと持ったピックが違うやつだったんですね。そんな変化でる!?ってAuto Filterの沼感を思い知らされました。

 

 

 

【映画】アイアムアヒーローを考察してみる

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ゾンビ改めゾキュンの怖さは深い。

びっくりしたのは、あの関節の動きだ。非人間的で突発的にあらぬ方向に関節が曲がったり跳ねたりする。まるで伽倻子とか貞子のようJホラーだった。ゾンビ×Jホラー。

 

その上、生きていた頃の記憶がゾキュン化した後の行動に影響を及ぼす。違和感なくゾンビというキャラクターの既成概念を打ち破っている。

ゾンビはゾンビになった瞬間に抽象化される。人は死ねば、死体、動き出せばゾンビ。だから主人公に、より大きな困難を与える時、ゾンビ映画は量で圧倒することが多い。

ところが、ゾキュンは生きている頃の記憶から叫んでいる個体もいるし、特有の動きをする個体もいる。ゾンビに個性が与えられているわけだ。

ゾキュンに個性が生まれると、個体ごとに攻略の仕方が異なってくる。それで、ラストのスポーツマン大学生のラスボス演出が生まれるわけだ。『バイオハザード』のタイラントほどいってしまうとゾンビではなくクリーチャーだ。ほかのゾンビと差別化しない強い個体というのがいい。『28日後』のゾンビにも記憶に関する言及や描写があるが、それ以上にアイアムアヒーローは、その個性をストーリー上の演出と主人公の成長に影響を与えている。非常に巧みである。特にスポーツマン大学生が鈴木英雄にとって打ち破るべきコンプレックスの象徴であって、最後に彼を倒すというオチ。ゾンビ映画は基本的に根本的な解決はされない。ゾンビ化の原因は何かとか、最終的に世界はどうなるとかを語るジャンルではない。ゾンビを通して、あるいはゾンビ化した世界を通して何を表現するかである。つまり、何を着地点とするかがゾンビ映画の真価を問われる。鈴木英雄は、抱えていたトラウマやコンプレックスを乗り越えなければ生き延びられない困難に、幾たびも直面していく。名前負けした人生を取り戻す鈴木英雄が英雄らしくあるため、震えながらも立ち向かう。最後の闘いに勝った鈴木英雄が名前を聞かれ『ただのヒデオです』と答える。コンプレックスを克服できた、あるいは、そんなものはどうでもいいと思えたから出た言葉だろう。人は、自分が何者でも無いということに、気づくのを恐れている。だから肩書きが欲しい。居場所が欲しい。ショッピングモールの冴えない奴らに代表されるように。そんなものどうでもいいのではと、吹っ切れた鈴木英雄の心情が伺える言葉だった。

 

【映画】フローズンタイムを考察してみる

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フローズンタイムという映画を見た。

究極にオフビートなスーパーの店員たちによるおふざけシーンは本当に好み。

 

2012年に完結したドラマ『CHUCK/チャック(2007-2012)』の家電店バイ・モアで働くモーガン、レスター、ジェフリーの奇抜でぶっ飛んだおふざけタイムが大好きだった。仕事をサボり何か面白いことはないかとイタズラばかりしていて、賢くないが故に突拍子も無い行動で大迷惑を起こすような救いようの無いダメ野郎たち。

 

フローズンタイムで、ベンが不眠症で余った時間を売るために選んだ先のスーパーには『CHUCK/チャック』のそれと同じような、緩い管理下のもと、いかにふざけて時間を潰すかに精力を尽くすタイプの人間が集まっている。これは面白かった。たまにある映画の脇役たちのバカみたいな生産性の無い遊びが本当に好き。

 

さて、映画の本題について。とりあえず言っておけばアート映画に分類されると思う。動機はあるものの、はっきりとした因果関係を追わない。偶発的な出来事の中で、川の流れに身を任せるように話は進む。それでも時に、景色の中に美しもの、珍しいもの、尊いものなどを発見することで、ベンは自分自身の現状を外側から理解していく。今、自分陥っている状況はいったいなんなのか。急に芽生えた感情は、どこからやってきたのか。閃く瞬間がある。閃きとは本来、一瞬の出来事であるが、そのプロセスをベン(画家)という人物を使って説明しようとしている。

彼が時間を止めることができたことは、理由も有耶無耶でよくわからない。普通に考えれば時間を止めることがメインのストーリー映画であったならば、もっとにはっきりと時間を止められた理由やルールについて言及すべきだ。

それをしないのは、時間を止めること自体には意味が無いからだろう。時間が止まっていて、その中でベンは止まった時間の中を自由に行動できる。それは一体なんなのか?これをあなたはどういうことだと考える?という問いかけとして捉えていいと思う。

 

監督はそもそも、写真家らしい。カメラマンは瞬間を切り取る芸術家であるが故、静止した世界にあらゆるプロセスを想像するプロである。人間の思考の0と1の間を考察した映画なのではないかと。

 

 

ただ、スーパーの中で時間を止め女性を脱がしてデッサンするシーンはあまりアートを感じない。あれはどちらかといえばエロティックだ。脱がす女性がみんなモデルのように細く綺麗な人ばかり。童貞的妄想。時間が止まった世界を表現することも今や斬新でも無い。止まってる世界の表現なら『ビッグフィッシュ』の映像美には到底及ばない。最後の雪とかなんだあれ。雑だなと思った。クライマックスのはずなのに台無しにしてないか?

 

 

【考察したがり】MFゴースト一巻をレビュー・評価

なんだ、やっぱりね!そうだよね!

 

と思ったのは時代を越えてもあの日と変わらない86伝説。相手がR35、フェラーリ、ポルシェ、アウディランボルギーニ。2012年式とは言えTOYOTA 86ではポテンシャルが違いすぎる。

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つまり今回も遅い車を神業ドライバーが操り早い車を破る、頭文字DAE86伝説と変わらないっていうことだ。それよか頭文字Dに比べ圧倒的な性能差だ。よりドライバー至上主義な展開になるのだろうか。

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さすがに今となっては公道バトル自体が現実味が無いし、このご時世的にも二の足を踏む。

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だから峠を舞台にする限り、封鎖された公道で、オフィシャルでこういったレースが行われているっていう設定が最も違和感が無い。

当初の告知ポスター等では、少しSF感も匂うような文言だったから、半信半疑で待ってた。蓋を開けてみれば如何にも車好きが妄想しそうな設定ですっぽり収まる感覚だった。

 

冒頭で語られる時代背景として、電気自動車全盛というのもいい。これはカーファンの葛藤である。世の中がハイテク化&自動化していく時代の不可逆な流れと相反するカーファンのアナログ的嗜好だ。ピストンが空気とガソリンを圧縮し爆発させる往復運動から得る鼓動。そのエキゾーストからなる叫び。路面のギャップを拾い跳ねる体。タコメーターを回るその針が、高揚感とリンクし、熱くなったボンネットに触れて我に返り、ふと景色に目をやり走り抜けたことを実感するのだ。

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今や電気で走るF1レース、フォーミュラEというものも開催されている。レース業界まで電気化や自動化が進むことに不安を感じているカーファンも少なく無い。

例え完全に車が電気化され自動化されたとしても、車の形はそれほど変わらないだろう。タイヤは4つだろうしドアがありシートがあるはずだ。それらは変わらず自動車と呼ばれるだろう。それは100年以上続くガソリン自動車の歴史があるからだ。それに魅せられてきた人たちの情熱あってこそ。ただ過去のモノにせず未来に伝えていく。頭文字Dは日本のクルマ史にあらゆる影響を与えた。『トヨタ・86』として復活したことも、頭文字Dがあってこそだ。当時のようなムーブメントは時代に似合わないかもしれない。恐らくトヨタ・86があの時のように大ブームになることは無いだろう。しげの秀一はそういうことを望んでるわけでも無いと思う。

ただこういう形があってもいいもいうメッセージだ。斬新なものでも無いし、カーファンなら誰もが思いつき妄想する設定だろう。みんなもこういうのがあったらいいなって、思ってたでしょと、そんな風に聞こえる。

自動化電気化という時代の流れを否定する意味もない。ただ消えて欲しく無いだけ。そう願うファンに、とにかく形だけは残しておくよと。悲観するな。MFゴーストは、レシプロエンジンの興奮を未来に繋ぐ希望だ。

 

 

 

 

【映画】リメンバーミーを考察してみる

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メキシコにも日本のお盆みたいな文化があるらしい。一年に一度、他界した先祖が会いにくる死者の日というもの。

 

この映画は亡くなった人たちが暮らす『死者の国』というものが描かれていて、彼らはその日なると自分のお墓まで、家族に会いに行く。

 

ミュージシャンを目指す主人公のミゲルが、この死者の国に迷い込んだことで始まる物語。

 

死者の国について、いろいろなルールが説明された。『生者が死者の国で日の出を迎えると帰れない』『死者の日に、死者のものを盗むと死者の国に送られる』など。

 

中でも重要なのが、死者が生きている人たちの世界に行くための条件。

それは、生者の世界の祭壇に自分の写真が飾ってあること。でないと、死者の国と生きている人たちの世界を繋ぐ橋みたいなものを渡れない。

橋の入り口には空港の出国審査みたいな場所があって、写真が飾られてないと、あなたの写真は無いですねって弾かれてしまう。

 

会いに行けず、つらい思いをするんだよね。

でももっと悲しいことがある。亡くなった人たちは、生きている人たちから忘れ去られてしまうと、死者の世界からも消えてしまう、本当の死がある。

 

映画の中で、忘れ去られることで消え去って行く登場人物がいるんだけど、彼は、『もう誰も僕を覚えていない...』と言いながら消えて行く。

なんとつらいこと。

忘れ去られることは本当に悲しいことで、亡くなった人を思う気持ちは大切なんだよってね。というより、思い出してしまう。亡くなった人のことを。終わりにしないことだよね。死は通過点で、想い続け、子孫につなげて行く。死んだらどこへ行くのかわからないから怖い。どこへいってしまったのか、わからないから悲しい。確証の無いものだから、怖いし悲しいけど、こんなファンタジーを見れたら少し楽になるのかもしれない。

子供にとっても、お墓に行く意味なんてわからないと思う。でも、それは実はすごく大切なことなんだって直感的かつ簡単に受け取れるんだよ。リメンバーミー を通して。

 

 

 

重要な人物として、Ernesto De La Cruz (エルネスト・デラクルス)という人が出てくる。彼はスターだったわけだ。豪華なお墓があるし、国中の人たちの記憶の中で生きている。語り継がれる男だ。

 

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だから死者の世界で彼はずっと生き続けている。ある意味半永久的な命を手にしているよね。多くの人の記憶に残っているし写真もたくさんある。

ていうことはさ、ジョンレノンとかエルビスプレスリーなんて永遠に向こうの世界で生き続けてるのかな。新曲を書いてるかもしれない。

そんな風に死後の世界を楽観視してみるのもいいかもね。

 

 

ミゲルがギターを弾くシーンは、うわーすごいな、って思ったよ。

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ピクサーのコンピューターグラフィックがすごいのは言うまでもなく、ギターを弾く指の動きが本物だった。音を消しても目コピでコピーできるくらいリアル。自分がギタリストだから、こう言うところで萎えちゃったら嫌だなとか思って身構えたんだけど、むしろ、すげーな!ってなりました。

 

カーアクション映画とかで、俳優が運転している場面が明らかにグリーンバックで撮影している合成だなって時あるじゃないですか?

そんな風にハンドルユラユラしないよとか、体をグイーって傾けてキキー!ってなってます!みたいなの萎えるじゃないですか。

それと近いですね。

 

 

前半は、メキシコの文化、死者の国のルール、主人公を取り巻く環境や状況、そして夢と葛藤。たくさんの情報を丁寧に説明していくから、イベントが起きず少しじれったい。

第2幕の半分くらいからは、ラストシーンに向けて怒涛のまとめにかかるって感じだった。登場人物それぞれが抱えた葛藤が一つの結果と一曲にスッと収まり、例によって感動させられて終わる。

やっぱりピクサーすげぇぇ、前半はしょうがないよ、どの要素も少しでも端折ったらラストシーンが重くなくなるもんね。