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【映画】アイアムアヒーローを考察してみる

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ゾンビ改めゾキュンの怖さは深い。

びっくりしたのは、あの関節の動きだ。非人間的で突発的にあらぬ方向に関節が曲がったり跳ねたりする。まるで伽倻子とか貞子のようJホラーだった。ゾンビ×Jホラー。

 

その上、生きていた頃の記憶がゾキュン化した後の行動に影響を及ぼす。違和感なくゾンビというキャラクターの既成概念を打ち破っている。

ゾンビはゾンビになった瞬間に抽象化される。人は死ねば、死体、動き出せばゾンビ。だから主人公に、より大きな困難を与える時、ゾンビ映画は量で圧倒することが多い。

ところが、ゾキュンは生きている頃の記憶から叫んでいる個体もいるし、特有の動きをする個体もいる。ゾンビに個性が与えられているわけだ。

ゾキュンに個性が生まれると、個体ごとに攻略の仕方が異なってくる。それで、ラストのスポーツマン大学生のラスボス演出が生まれるわけだ。『バイオハザード』のタイラントほどいってしまうとゾンビではなくクリーチャーだ。ほかのゾンビと差別化しない強い個体というのがいい。『28日後』のゾンビにも記憶に関する言及や描写があるが、それ以上にアイアムアヒーローは、その個性をストーリー上の演出と主人公の成長に影響を与えている。非常に巧みである。特にスポーツマン大学生が鈴木英雄にとって打ち破るべきコンプレックスの象徴であって、最後に彼を倒すというオチ。ゾンビ映画は基本的に根本的な解決はされない。ゾンビ化の原因は何かとか、最終的に世界はどうなるとかを語るジャンルではない。ゾンビを通して、あるいはゾンビ化した世界を通して何を表現するかである。つまり、何を着地点とするかがゾンビ映画の真価を問われる。鈴木英雄は、抱えていたトラウマやコンプレックスを乗り越えなければ生き延びられない困難に、幾たびも直面していく。名前負けした人生を取り戻す鈴木英雄が英雄らしくあるため、震えながらも立ち向かう。最後の闘いに勝った鈴木英雄が名前を聞かれ『ただのヒデオです』と答える。コンプレックスを克服できた、あるいは、そんなものはどうでもいいと思えたから出た言葉だろう。人は、自分が何者でも無いということに、気づくのを恐れている。だから肩書きが欲しい。居場所が欲しい。ショッピングモールの冴えない奴らに代表されるように。そんなものどうでもいいのではと、吹っ切れた鈴木英雄の心情が伺える言葉だった。