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フォードvsフェラーリ 車好きとして

フォードvsフェラーリ - 作品 - Yahoo!映画

 

メーカーvsメーカーではない

作品賞にまでアカデミー賞にノミネートされ、いわゆるいかにもアメリカ映画、アカデミー受賞っぽさに溢れた作品だと勝手に想像したが、アメリカ万歳!フォード万歳!とはいかず、割とフォードをこき下ろしていて安心した。フォードは、企業体制としては最悪な歴史がいくつもあるし、そもそもフォードは半ば悪役的に扱われ、実際は映画的にも事実上もシェルビーvsフェラーリである。

 

 

vsと言われシェルビーとフェラーリ壮絶なライバル関係を想像するが、蓋を明ければレースに人生を捧げた二人の男の物語りだった。とはいえ、忠実にフォードvsフェラーリをやろうとすればただのドキュメンタリーであるし、確かにフェラーリが多座に君臨するライバルとしてのプロセスは十分に描かれないが、そこまでやってしまえば一般レベルまで落とし込める作品にはならないだろうし、今作はメーカーvsメーカーに重きを置いた作品ではないので"フェラーリ"というブランドだけで十分といえば十分だ。

反体制的、情熱、友情、そしてプライドが傷つけられる度に燃える2人がレースに人生をかける様は誰にでも通づる鬱憤があり、普遍的に評価されるエンターテイメントとして車に詳しい必要は全くない。目的は勝負に勝つ、どん底からの復活劇、権力層の悪役、映画の基本にそったような構成で、イージーリスニングだ。

 

ピータの役割

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苦境や困難は、ドライバー至上主義的なところに終始せず、レーシングカーというハードの開発力が物語の推進力を大きく手助けする。1966年当時は時速300kmを簡単に超えるパフォーマンスを持ちながら、安全性がまるでなかった。地を這うようなカメラアングル、ブレーキのバースト、冒頭から"炎上"が何度も登場するなのどの不吉な予感と共に、今日のクラッシュよりも、より深刻なものと提示しレースの狂気を表現している。

そして、この映画が“ ル・マン66' ”のより深い真実に達しないように一役買っているのが息子ピーターの存在。GT40とフォード、シェルビーには割愛されている様々な歴史があるが、ピーターという少年の崇拝するような眼差し、レーシングカーへの興奮、いつか炎が何かを奪ってしまうかもしれない恐怖が、ドラマの演出として映画全体包み込みエンターテイメントとして程よい塩梅を保っているのである。

 

自動車界の英雄、リー・アイアコッカの登場 

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 そしてこの映画で何より素晴らしいパフォーマンスを見せたのがジョン・バーンサル

彼が演じるリー・アイアコッカとは、後にフォード社長に就任し、クライスラー会長時代には破産寸前のクライスラーの経営再建を測り、数中万人の雇用を守った手腕を持つアメリカ産業界の英雄と称される人物だ。

2019年に94歳で亡くなったニュースも記憶に新しいし、車好きでは彼の名を知っていた人も多いと思う。今作では、悪役として描かれるフォードの経営陣にいながらも、本当の心の中はキャロル・シェルビーとケン・マイルズ側に共感しているということを、言葉では語らず微細な表情で見せる。ジョン・バーンサルの演技は本当に表象もんだと思う。

 

 

車好き・レースファンへの配慮も抜かりない

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レースファン、カーファンは、順序的に言えばACコブラからシェルビー・デイトナだから、GT40に話が飛んだ時違和感があったと思う。ある程度割愛された史実もありながら、チラッとデイトナが映ったりGT Mk.Iが登場したりスティーブ・マックイーンの名が登場する。とくにシェルビー・デイトナの開発中の木製ボディまでリーの背後に映っている。車好きへ向けての配慮も抜かりない。

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当初、この企画はトム・クルーズとブラッド・ピッドで進行していたらしいが、ジャッキーチェンがどんな役柄を演じてもいい意味でジャッキーチェンであるように、トム・クルーズもブラッド・ピッドも存在がキャラクター化しているので、演技派枠のクリスチャンベールとマット・デイモンで大正解だ。

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トイストーリー4 徹底考察・レビュー・評価

 

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どんな物語だったのか?

 

おもちゃとしての使命、おもちゃの行く末、おもちゃの幸せとは何なのか。一作目から変わらずに描かれてきたそれを、トイストーリー3よりもさらに深く掘り下げたものである。

そもそもウッディは、アンディとの絶対的な信頼関係のもとで、いつも丸く収まってきた。要は、そこにどんな困難や葛藤があろうともアンディのもとに帰れば、そこには居場所があって仕事がある。トイストーリー3でアンディは大人になり、おもちゃで遊ばなくなっても、アンディの愛から、大切にしてくれるであろうボニーへ引き継がれる。

しかし、今回はどうだろう。ボニーはウッディをさほど気に入っておらず、遊ばれることが無い。それ以上に、劇中の中でウッディが子供に愛され遊ばれるという描写は一度も無い。

アンディという信頼関係が無くなった今、ウッディは居場所を失っている。

「これが俺たちの仕事だ、それがおもちゃなんだ」

それが無くなった時こそ本当のおもちゃの結末なのではないか。それを問うことが、トイストーリー4が必要な理由だと考える。

 

トイストーリー3は確かに完璧なラストである。続編は蛇足だと言いたくなるのも思入れがあればあるほど、わかる。しかし、考えてみればトイストーリー3のラスト、もっと言えばウッディの境遇自体かなり恵まれている。こんなにも持ち主に愛され、手放す時も“この子なら大切にしてくれる”というアンディが選んだボニーへと引き継がれるわけだから。でも、こんなに恵まれた境遇がおもちゃの全てでは無いはずだ。

ピクサーは「必要であるならば製作する」と言ったが、あんな完璧なラストがあっても挑戦するピクサーはすごい。恐らく様々な議論を生むことは重々承知のはずだったであろう。

 

 

おもちゃの行く末とは。

 

思えば、プロスペクターはどうなったか。ロッツォはどうなったか。子供に愛されなかった、愛されることを知らなかった者たちが新たに持ち主の手に渡ったことはあっても、今までそれ以上は描かれていなかった。ジェシーだけはアンディのおもちゃたちの仲間入りをし、恵まれなかった境遇を持ちながらも、おもちゃとしての幸せを掴んだ一例として描かれていたが、果たして全てのおもちゃがアンディのような子供に拾われるとは限らない。プロスペクターは、誰かに買われることなく、一生を過ごしてきていて、博物館に貰われ永遠の命を得ることは切実な願いであった。これについて、“子供のおもちゃでいること”というウッディたちの半ば押し付けな価値観で匿名の子供に連れていかれるが、果たしてこの子供にプロスペクターが愛されるかどうかはわからない。ウッディたちはシドや芋虫組のように“おもちゃを大事にしない子供”経験しているのに、その押し付けはどうなのかと、これについては本国の評論家やファンの間でもよく議論されてきた、ウッディの思想の弱点である。愛され続けてきた者に、愛されなかった者の気持ちの何がわかるのか。

ロッツォはどうか。彼は道端に忘れられてしまい、苦労の果てに家に戻ったらそこには自分の身代わりがいた。彼はおもちゃとゴミは紙一重であることを誰よりもよく知っている。

ロッツォはサニーサイド保育園でおもちゃの労働組合的なもののトップとして確立しており、プロスペクターが望んだ博物館と似たような永遠の命を手にしている。

運営陣は腐敗しきっていてまるで社会主義的なものだったが、これはこれでおもちゃの生きる道の一つであった。

 

子供の所有物だからと言って、必ずしも幸せとは限らない。そんな立場に、今まさにウッディがなってしまっていること。作品に思入れがあるほど切ないが、“子供に愛されることはなくなった”おもちゃは、何処へ行くのか。ゴミとして最後を受け入れるのか、はたまたアンティークショップの店名のように“セカンド チャンス”を求めるのか。

 

もうおじいちゃんである

 

少なくとも20年以上子供の所有物として愛されてきたウッディ。子供におもちゃとして遊んでもらうことを、“これが俺たちの仕事”として仕えてきた。でも、アンディがいなくなった今、ウッディにとって絶対的な持ち主は居ない。

ボニーにも遊んでもらうことはなくなった。仕事を失ったウッディは、フォーキーにおもちゃとしての自覚を持たせようと奮闘するが、ボーに「何故そんなにこだわるの?」と言われると「俺にはこれしかないんだ!」と、決定的な一言を発する。

 

何十年も子供に遊ばれるおもちゃとして生きてきたウッディにとって、それ以外のおもちゃの生き方を知らない。突然、その仕事が無くなれば定年退職により居場所を失ったおじいちゃんそのものである。おもちゃたちのリーダー、そしてアンディに一番愛されてきたウッディは今、自分の存在価値を探している。ボニーの幼稚園についていってしまうのも、子離れできない過保護な親のようで、非常に切ない。フォーキーのため、ボニーのためと言うが、何よりも自分のためであった。

 

1950年代のアンティークおもちゃだとトイストーリー2にて判明するウッディ。製造からは60年以上が経つ。ピクサー製作陣の談によると、ウッディはもともと今は亡きアンディの父親の形見であるそう。愛され続けたウッディが、長い人生の佳境、次に選ぶ人生とは?に繋がってくるのだ。

 

 

ゴミとおもちゃは紙一重である

 

ゴミで出来たフォーキーは自らをゴミだと認識していて、ウッディが説こうとする「君はボニーの大切なおもちゃなんだ」を中々理解できない。しかし、ウッディもゴミ箱へダイブするフォーキーを思考を理解できない。ウッディにとって、ゴミ箱に自らダイブするなど、あの焼却炉の経験があればゾッとするような光景だが、ゴミとおもちゃが紙一重であることを掘り下げるためにも、価値の高いおもちゃとして生まれたウッディの対比としての役目を担っている。そう、ウッディはアンティーク品として価値が高いおもちゃで、持ち主に愛される人生を送ってきており、そしておもちゃたちのリーダーである。フォーキーには無いものをたくさんもっている。対してフォーキーはウッディが持っていない、“ボニーのお気に入り”ただそれだけがあるのだ。ゴミとおもちゃ、ウッディとフォーキーという対比がフォーキー以上にウッディ自身の存在意義を問うための対比になっていた。

 

新しい生き方を提示するボー

 

ボーは、1作目とはかけ離れた見た目、キャラクターで登場する。何が彼女を変えたか?

ボーはもともとランプの下に置かれる陶器の人形だ。そもそも壊れやすく子供のおもちゃには向かない。ウッディやバズよりも、自分がおもちゃとして必要とされなくなることは最も早く理解していた人物だ。9年前としてボーが知り合いに譲られるシーンにて、ボーがウッディに話す内容から読み取れる。

その壊れやすい体であるが故、強く生きなければ生き残れなかった、この9年の空白が彼女を強くしたのだろう。

そして今作でボーは非常に現代的な強い女性像として登場し、小さな世界に収まっていた保守的なウッディに対し、自由主義という価値観を見せる。

 

ギャビー・ギャビーは悪役か?

 

ギャビー・ギャビーは子供に貰われたことがない。これはトイストーリー2のプロスペクターと同じである。

二つ目に、アンティークショップのセカンドチャンスの中では権力者であり、自身の私利私欲に基づき行動するトイストーリー3のロッツォ的な側面を持つ。

そして3つ目に、ギャビー・ギャビーはウッディと同じ1950年代のおもちゃである。

まるで全て集約したかのような複雑なキャラクターであるが、一つだけギャビー・ギャビーだけが持つ要点がある。それはギャビー・ギャビーは未だに輝けると信じていることだ。トークボックスが治れば私は愛される、という夢を信じているが、そんなわけがない。1950年代のおもちゃを今時の子供が欲しがるわけがないのに、現実との折り合いを付けられず60年間もアンティークショップの中で待ち続ける。ちょっと狂気じみているが、初期不良トークボックスが壊れていたことで彼女が強いられた人生はウッディの人生とはかけ離れた、まさに光と陰である。ギャビー・ギャビーにとってはウッディが羨ましくてしょうがない。

初見のホラー感とは裏腹に、次第に観客はギャビー・ギャビーに感情移入し始めるような作りになっている。それらは、最後のチャンスのシーンによりウェイトをかけるためだ。

ギャビー・ギャビーを取り巻く腹話術の人形たちがしゃべらないのは、ギャビー・ギャビーの声の障害を模したものだろう。

 

セカンドチャンスとは何か?

アンティークショップの店名になっている“セカンドチャンス”。ズバリ、トイストーリー4がセカンドチャンスをテーマにしているのは言うまでも無い。フォーキー、ウッディ、ボー、ギャビー・ギャビー、それぞれのセカンドチャンスが描かれる。ウッディにとっては、自由主義、自由意志を受け入れられるかということ。子供に遊んでもらう仕事を終えたら、ゴミになるのか、それとも何か自分の役目を見つけるのか。ウッディは、おもちゃたちにセカンドチャンスを与えるという役目を見つけたようだった。エンドロールでおもちゃを子供のもとに送っていたように。ウッディがその役目にたどり着くまでにギャビー・ギャビーは必要不可欠であった。トークボックスが治っても子供に見捨てられたギャビー・ギャビーは、2度目のチャンス、遊園地で迷子の女の子に拾われる。ウッディに背中を押され、ギャビー・ギャビーがスタンバイする物陰には街灯が一つあり、まるでスポットライトのように彼女を照らす。

おもちゃには“会話する声”と“おもちゃの声”があるが、おもちゃの声とは言わば“演技”である。そのセカンドチャンス、スポットライトが彼女を照らし、迷子の女の子がギャビー・ギャビーを拾い上げ、背中の紐を引っ張る時、ギャビー・ギャビーの一世一代の名演技は観客を泣かせるのだ。

ウッディはデューク・カブーンにも輝ける場所を与えている。

 

バズの心の声は何なのか

 

※書いてる途中

 

ジェシーがやりすぎな件

 

※書いてる途中

 

 

『このサイテーな世界の終わり』ちゃんと考察してよ!俺はちゃんと考える!考察・解説・レビュー

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腹立たしいのは『このサイテーな世界の終わり』と検索すると「サイテー水準なドラマ、酷評」なんて書くサイテー水準なブログ記事が真っ先にヒットしてくること。サイテー水準と感じるのは自由だが、なぜそう感じるかきちんとアナライズせず否定的な単語だけだけで語る。「プロットが意味不明すぎる」「悪趣味極まりない」と書くのはいいけど、何が何でそうなのか、全く考察されていないし、“混沌”とか“プロット”とかそれらしい単語は使いたいだけで、必要無い文書にねじ込むだけの偏差値の低さである。どんな見方をしたらこんな低レベルなレビューが出来上がるのか?もしかして書いている人は笑えるものだけがコメディだと思っているのか?こんな素晴らしいドラマを、ビギナークラスの小遣いブログで判断されてしまい鑑賞を躊躇ってしまう人がいたらそれは本当に勿体ないし悔しい。こんなもの評とは言わない。F***ing小遣いブログって感じだ。

 

 

Netflixにて製作された、『The End of the F***ing World(このサイテーな世界の終わり)』という随分過激なタイトルは、イギリスのグラフィックノベルのドラマ化だ。17才のジェームスとアリッサの逃避行を描いたもので、20分前後のエピソード全8話で描かれた。犯罪を繰り返しながら男女二人が逃避行するロードムービーと言えば、やはり名作『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde/1967)』トゥルー・ロマンス(True Romance/1993)』を思い起こす

『このサイテーな世界の終わり』は二人がティーンエイジャーなのがミソだが、メリッサが「これが映画なら、私たちはアメリカ人ね」と語ったように、環境に恵まれず大人や法に対して反抗的なメリッサと、サイコパスだと自己診断しているジェームズの旅は、反体制的な心情を描くアメリカンニューシネマ的な側面も持ち合わせている。メリッサの母親と義父はあの通り利己的で虐待体質で愛情が無いし、ヒッチハイクで二人を拾った男はチャイルド・マレスターで、モダンな家の住人は猟奇殺人者、それを嘘や隠蔽で守る母親といった具合に、非道徳的な登場人物に象徴される少しばかりの社会風刺だ。ジェームズやメリッサのうような青年少女が生まれてしまう原因は何かという考察も行われている。それと付随して、こんなサイテーな脇役たちは、二人が逃避行で重ねる罪を情状的に軽くする役割も担っている。

しかし、「このサイテーな世界の終わり」が描こうとしているものはそういった反体制的な社会風刺がメインではない。といっても、はっきりと「これはこうだ!」表現するのが非常に難しいドラマなので、回りくどく聞こえる事はご理解頂きたい。

ジェームズが猫を殺したり、アリッサを快楽殺人のターゲットにしていたことや、車を盗み住居侵入や盗みを繰り返していくこと、そして一つの殺人に関わる事、これらはものすごく誇張された行動だが、実はティーンエイジャーにとっては普遍的な、誰しもが向き合う青春期ならではの不安定な心の闇である。

メリッサは言う。「こう言う時大人はどうするの?」。彼らは未熟だし、感情を反射的な行動に移してしまう。でも車を運転したりセックスをしたり酒を飲んだり、大人のような振る舞いはできる。子供と大人が混在している不安定な年頃は道徳的能力を欠いているのに、大人と同じようなパワーを持ってしまっていて、自分が何を目的に生きて、そして何者であるかに悩む。そうした不安定な時期には共嗜癖共依存に陥りやすく、その中で行われる盲目的な行動がその後の人生に大きな影響を及ぼしたり、人格を形成したり、トラウマが生まれる。

確かに、ジェームズとメリッサの行いは、彼らの生い立ちに問題があったにせよひどく法から逸脱している。でも、ここまで行かなくとも、自分たちの思春期の恋愛にも通づるものがあったと思う。あの時の恋愛は大人になった今、自分にどんな影響を与えているか。何を不満に何に縋り付いて生きていたか。あの時の行動を今の自分も同じようにそうするだろうか。それは犯罪や悪の可能性を秘めていたのではないか。

10代の頃、大人になった今よりも生きづらいと感じてた人にとって、あのむず痒い記憶に触れてくるのようなドラマであることは間違いない。

『僕らを見る目』解説・考察・レビュー

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1989年に起こった『セントラル・パーク・ファイブ』という冤罪事件を題材にしたミニシリーズだ。5人の少年たちが逮捕されレイプした罪で有罪となりそれぞれ6〜14年服役した。その後にすでに終身刑となった男がこの事件について自供し当時回収された犯人のものと思われるDNAと一致、5人は無罪となり釈放される。

 

彼ら5人のうち4人がアフリカ系、一人がヒスパニックである。違法な尋問によって嘘の自供を強いられ、白人の刑事や地方検事によって仕立て上げられたストーリーの中で彼らは20代を失ってしまう。

人種差別、白人の権力層、矛盾する立法、合同判決の悪、米国の刑務所システムの粗悪性、性同一性障害に対する嫌悪感いわゆるトランスフォビア、重犯罪者の社会復帰、その他多くの複雑なトピックに触れている。

それ故に4話構成計5時間のミニシリーズとしたのは必然的な構成である。彼らいかにしてスケープゴートとなり、服役から仮釈放までどんな苦悩があり、そして真実が明らかになるまでのプロセスは、到底映画の2時間ほどの時間制限では語ることができないのは、観てみれば深く理解できる。

 

非常に高い水準で表現する役者陣の演技力もさることながら、5時間という枠の中で徹底されているのは“人を描く”に尽きる。彼らがどんな日常にいたか、自白を迫られた時それぞれがどんな反応見せるか、家族はどう考えどう対処しようとするか、これらについて説明ではなく徹底して感情的に描かれ時間をかけることで、これでもかと言うくらいに観客を引き込む。

それらは濡れ衣を着せられた少年たちだけでなく、冤罪作った中心人物のリンダ・フェアステインは特に悪役として徹底的に悪として描き切る。事実を淡々と描くのではなく、ドラマティックに強く感情移入するよう作られていることは言うまでも無い。

 

『僕らを見る目』の中で、劇中を超えた次元で話さなければならない要素がある。それがドナルド・トランプの存在である。当時からアメリカの不動産王として多くメディアにも露出し影響力のあった彼は、「セントラル・パーク・ファイブ」事件を背景に4つのデイリー紙に広告を出し“彼らを処刑しろ、死刑を復活させろ”と発信する。この事実については、トランプの最初の政治的行動とも言われ、その発言は事件に大きく影響を与えている。過去に当事件を扱う作品は多くあったものの、今になってNetflixからリブートされるというのは、今だからこそ大きな意味があるのだろう。

今、何故か?と考えればこのドラマ化がドナルド・トランプをターゲットにしていることは間違いない。中心の5人にとって彼は悪魔でしか無いし、そう描かれるのだが、実際にはドナルド・トランプのこの発言で強姦、強盗、殺人が著しく減少している事実もある。当時の殺人は今の9倍であった。それらは支持派から言わせれば多くの“黒人やラテン系を救った”とも言えるだろうしオバマNetflixと数百万ドル希望の契約をしていることからドナルド・トランプに対して人種差別主義者というイメージを増幅させ、民主党候補を立てる目的としたプロパガンダ的な側面も読み取れそうな気もしてくる。

 

とはいえ、作品クオリティが非常に高いため、そういった政治的な意図は置いておいても、ストーリーや演技に純粋に魅了されるし、最も有名と言われるこの事件がNetflixという現代的なツールで知らない世代に語り継がれていくだけでも大きな価値がある。その時、若者はトランプに対して何を思うのだろうか。

当作品が公開されすぐさまリンダ・フェアステインは再びバッシングを受けたが、それよりももっと有機的な議論がある。

 

ブラックミラー シーズン5『待つ男』考察・解説・レビュー

 

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ソーシャルメディアが持つ危険性とは何か。デジタルコンテンツ時代に起こりうる問題は、現代では周知のことすぎて"テクノロジーがもたらす予期せぬ危機"とまでは言えず、他エピソードと比べて斬新な切り口ではない。設定が2018年とされているので、とりわけリアルタイムな問題提起である。

事件の情報収集は警察よりもソーシャルメディア経営陣が常に一歩先を行っていて、電話の細工や、蓄積されている膨大なユーザーデータ、デジタルテクノロジーによって、現場の警察官やFBIよりもカルフォルニアのオフィスにいる彼らの方が状況をいち早く把握し、犯人の行動を制御している。

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Twitterの創設者ジャック・ドーシーを風刺的にビリー・バウアーとして描いており、また登場するソーシャルメディアTwitterFacebookを組み合わせたようなもので、Facebookなどに見られる個人情報問題等も企業側から描かれている。その中でも一番の盛り上がりを見せる、ビリー・バウアーが使う『神モード』は、我々にそれを使ってほかに何ができるかを想像させる。SNSへの依存など、デジタルコンテンツ消費時代の危険性をふんだんに盛り込み、我々が住む社会はすでにシリコンバレーによって描かれたディストピアかもしれないということであろう。

最近米ナスダックで、とりわけ時価総額が多い企業をまとめて呼称されるFAANG(ファング)という言葉があるが、これはFacebookAmazonAppleNetflixGoogleの頭文字をとったものだ。これらの企業は本社をカリフォルニア州のサンフランシスコとサンノゼ周辺のシリコンバレーに置いている。だからITの聖地として、シリコンバレーとは象徴的な場所であり、こういった危機感を語るのに『待つ男』で登場するスミザリーンというIT企業も、当然ながらカリフォルニアに本拠地を持つという設定は外せない。

 

 

 

誰もがお気付きだろうが、上記で書き連ねたことは何一つ新しくない。正直、うんざりするぐらい聞き慣れた今時の問題提起といった感じだ。このuberスタイルでドライバーをするクリストファーが、なぜIT企業スミザリンのビルの下で客を待ち続ける理由、ビリー・バウアーに言いたいのこと、人質をとる理由、これらについて、大したギミックがあるわけでもないのに40分近くダラダラと見せられる。人質に取られた青年がインターンだとわかると人質にも同情してしまうため、全く緊迫感が生まれないし、銃が本物だ偽物だの騒ぐくだりや、スナイパーの発砲などで徐々に緊張感を高めようとしているが、非常にチープ。あんな近距離で外すスナイパーにもうんざりする。

 

娘を無くしたお母さんの最後のくだりについては、GoogleFacebookなどが個人情報やプライバシー、パーソナルなデータを取り扱う上で、どれほどの絶対的なパワーを、今も この瞬間もデフォルトとして所持していることについて再認識させるのには一役買っている。

あのお母さんが24時間ごとに何千通りのパスワードを試し続けているその盲目さは滑稽で、一般人が無意識にしてしまっていることを揶揄したいのだろう。

だからと言って作品として面白いかは別の話だ。

そもそもこの人質事件を起こしたクリストファーの過去にある交通事故とは相手の飲酒運転のせいではなく、スミザリーンを見ていた本人の過失であり、彼がビリーに話す依存性が高いだの批判は全く説得力が無い。婚約者がリベンジポルノや誹謗中傷などて病み自殺した、とかならまだしもソーシャルメディアそのものは因果関係ではないから相当バカバカしい。

 

クリストファーは、ビリー・バウアーから何でも力になると言われ、求めたのはグループカウンセリングで出会った女性が知りたがっている自殺した娘のソーシャルメディアのパスワードを彼女に開示すること。サブプロットとして描かれるこの女性の話は、必ずメインプロットとどこかで交わる必要があるが、彼女と娘の死について深く触れないためサブプロットとは言えない不十分なものになっている。となると、これが主人公にとってそんなにも重要なポイントだったとは言えず、ドラマにオチ付けさせるため、後付けしたようにしか見えなくなるのだ。それなのに、自分の脇見運転で恋人を事故死させたクリストファーよりも、理由もわからず娘が自殺しSNSアカウントの中に答えを求めている彼女のほうがまだドラマになりそうな気がするからこちらをイラつかせるには十分である。

 

そもそも人質がインターンであった理由も物語には直接関係が無い。上層部と面識がない、電話が無い、人質としての価値に欠けるなど、それらは主人公に困難を与えているかのように見えるが、インターンが心優しいキャラクターで黒人(登場人物のなかで彼だけが黒人である)であることから、彼に対して同情してしまうような作りになっており、ただただ薄いプロットになんとか肉付けしたようなものになっている。物語の推進力が落ちまくっている。

最終的に主人公が何かを乗り越え何かを得ることはなく、自らの起こした事故についての責任転移でたくさんの人が巻き込まれただけで、ただ滑稽であるだけだ。何を見せられているんだという気分である。正直、カウンセリングで出会った女性がパスワードを手にした時、自殺した娘のアカウントには何かクリスと関連性でもあったのかと予感したが、パスワード入力、エンターキーポチでエンドロール。それっぽくすりゃいいと思うなよ、しかも1時間越え。

深夜帯に若いアイドルと駆け出しの俳優がやるような日本のドラマみたいなクオリティであった。

 

 

『リム・オブ・ザ・ワールド』駄作だったで終わらせないでよ。解説・批評・レビュー

 

 

『金持ちの言葉だ、あんたは関係ない』

 

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子供達が主人公なら外せないアイテムって言ったらやっぱり自転車。それは単なる小道具でなく、物語の中で子供達に与えられるエンパワーメントのメタファーである。ジョージ・A・ロメロが社会の混沌や人間の性を暗喩するゾンビというギミックを生み出したように、子供達がシュウィンのヴィンテージローライダーやBMX乗るのはスティーヴン・スピルバーグが生んだ子供達の自由のシンボルなのだ。

つまりどう考えたって『リム・オブ・ザ・ワールド』は現代版『グーニーズ』をやりたいのだろう。加えてマスタング・マッハ1やHIPHOPライクなadidasのセットアップなど様々なポップカルチャーを取り入れ幅広い層へのヒットを狙っている。

とはいえ同じNetflixオリジナルフィルムでこれより前に『ストレンジャー・シングス』という大傑作があるので、比べてしまえばこちらの評を下げたくなる気持ちもわかるのだけど、確かに中途半端なスピルバーグ感はあれどこんな子供達の冒険はやっぱりワクワクさせてくれるから温かい気持ちで見るのはどうだろう。

 

管理下に置かれた擬似的な冒険キャンプから、地球外生物の侵略が起きた途端に、子供達の目に移る世界が、一気にオープンワールド化する数分間なんて映画の中にまた一つ至福のひとときがあるとすればここです!と言いたい。冒険キャンプの場所「リムオブザワールド」がタイトルの割に舞台としては最初だけって感じがするが、ジュラシックパークライクな壮大な入り口に見せかけておいて、蓋をあければそこから一気にオープンワールド化するからワクワクがある。彼らが出会えた場所だしそれだけでタイトルとして文句は無いのだけど。ジェンジェンがいつまでもパンフレットを持っていることに深さは感じないが。

そもそも子供達の冒険に整合性のとれた行動や的確な因果関係に基づいた判断など期待していないし、「あっちじゃね!よくわからないけど絶対そう!」みたいな漠然としていて、かつ揺るぎない自信が子供時代を思い起こすノスタルジーなのだ。

NASAの施設を目指すとか、USB一つで世界を救うだとか、確かにチープで釈然としないけれど、それをリアリティに欠けるとか思ってしまったら、それってドゥニ・ヴィルヌーヴの映画を観る時と同じ目線で語ってませんかと言いたくて、こんな子供達目線のロードムービージュブナイルならば、目的意識がハッキリさえしていればそのクオリティは正直お任せって感じだし、その行く先々で出会う景色、光景が楽しめればいいと思う。一通りエピソードを終えればパパッと何十キロも進むので、冒険な感じが削がれてしまい、そこはもうちょい上手く編集してよと思ったが。

不意に集められた彼らは少しずつ暗い一面を持ち合わせていて、どこか個性的。分かり合えそうになかったのに、致し方なく行動を共にするうちに、割とすんなり“いつメン”になっていくのが子供の頃の友達とか仲間ができる感覚ってこんな感じだよねって共感できたら、そこがミソだと思う。あんなバカやったし、あんな気持ちになった瞬間があったし、今でもアイツらに会いたいし、って自分の記憶に触れてくるような感覚を覚えたら、それだけでいい映画なんじゃないかって思える。やれ予定調和だの展開が読めるだの、それでいいじゃないですか。ポップコーン食べながら観れるキッズ×コメディなんてそれくらいがちょうどいい。

エイリアンと戦うとか、マスタングを乗り回すとか、荒廃した街を冒険するとか、誰もいないショッピングセンターとか、子供の頃の夢物語を本当に映画が好きな人がそのまんま映画にしたらこういう感じで、子供の想像なんて大げさで荒唐無稽でしょって、そうやって見れたら名作にはランキングしなくても、なんかよかったなって思える映画なんじゃないか。

しかしダリウシュのギャグは好きだった。

「俺の服は服屋畳みしろよ」

「何畳み...?」

「金持ちの言葉だ、あんたは関係ない」

 

これ是非ギャグで使わせてもらう。

シュガー・ラッシュ:オンラインが彩る現代的な論争 批評・レビュー・考察

ポスター画像

 

ヒロインのヴァネロペはアドレナリン依存症で、広く知らない世界と刺激を求めていて欠乏感を感じている。一方主人公のラルフは、一作目で恵まれなかった自身の境遇に変革を起こし悪役としての仕事にもやりがいを見つけ夢の日々を送っているが、ヴァネロペに異常に依存している。

そんな中、ヴァネロペのホームゲームであるシュガー・ラッシュの筐体が壊れたことがきっかけで二人はパーツを手に入れるための旅へと出る。

 

と、あらすじや展開に関してはインターネットに溢れた他の記事を参考にしてもらって個人的な感想と考察のみ書いていく。

 

言わずものがな、父親にとって自分の子供が自分自身で外の世界に飛び出していくことについて共鳴的な象徴として描かれている。二人がぶつかり合い、わかり合うシーンで語られるセリフはほとんど親離れ子離れについてそのまま応用できるものだ。そのメタファーとも言えない明らかなメッセージ性は、嫉妬の仕方や解決するための強行的な手段が非常に男性的な思考プロセスであって父親と娘という姿に強く結びつく。

子供を映画館に連れて行ったお父さんが、ラストのヴァネロペと通話するシーンなんかはそのまんま何十年後かの自分と子供と重ね合わせて見てしまうんだろうと思う。

とはいえ、トイ・ストーリーのウッディとアンディの役割を思い出したら、やっぱりピクサーってすげえなと思う。トイ・ストーリーにアンディのお父さんがいない理由はウッディが父親としての暗喩であったわけで、ウッディがアンディに対して思う思いや行動はあまりにも感動的で普遍的だったからだ。だから今になってヴァネロペとラルフの関係を通して親と子供を語られることについてあまり興味はない。

 

とにかく気になったのはスターウォーズからマーベルスーパーヒーロー、ピクサーキャラクター、ディズニープリンセスまでカメオ出演するこのビジネス的手法。もう5年後くらいには“複数の作品の登場人物が一同に会す”ことをアベンジャーズ手法とか呼ばれそうな気もしなくもない。Fast and the Furious技法でもいいしレディ・プレイヤー方式でもいい。ん?よく考えたらどれも違ったパターンで、これはこれで考察したい気もしてきた。ただ今作は同じ世界に存在する理由として、インターネットだからという本当に安易な発想のもとで、あれもこれも登場させているから浮かぶ疑問『一つ一つのキャラクターに対して本当に愛があるのか?ただのビジネスではないか?』ってのは、大好きな大好きなトイ・ストーリーのバズが見世物的に登場したのが悲しかったからである。それに様々なキャラクターを同じ作品内で登場させるのはフランチャイズとしてのキャラクターの重要性をかなり意識してのことだと思うし、大人の思考プロセスが垣間見えるのは面白くはない。ただ、ディズニープリンセスが『自分自身を見つけられる場所は水がある場所で顔を写すの』と話すところは、ディズニープリンセスステレオタイプ的なジョークで少しいい気分になった。3歳児くらいの見た目のヴァネロペをずっと見せられているから、魅力的な女性が10人くらい一気に登場したのが目の保養だったというのも、このシーンにSEIYUの皆様のお墨付きマークをつけたくなった理由である。

 

アーケードゲームの住人がインターネットの世界へ飛び出すという設定で、インターネットが視覚化されて描かれるが、多数の実名企業のサインボードが並び、楽天なんかも並んでいた。とはいえ無限の可能性を秘めているようで制限され、解放されているようで企業統制されていることについて表現されていて、ディープウェブ(ダークウェブ)の存在や迷惑なポップアップまで擬人化されていて、複雑な表現をしようとしているように見えてデジタル世代には理解するに容易い。とはいえゲームのキャラクターのラルフがいったいどうやって動画投稿するか、足場が崩れるのはプログラム的にどういった作用が起きたか、などそういったリアリティの追求はもはや不毛の域で、そこが子供向けなんだなと思わせてしまう、ピクサーと線引きしたいポイント。

こういったプログラムを視覚化したり擬人化したりするものはどうしてもマトリックスを思い出してしまうが、マトリックスって本当にすごい。あれから25年立つのに今だに比較され考察され称賛されリピートされている、マジで未来人が作ったんじゃないかマトリックス

 

 

そして、シュガー・ラッシュ:オンラインがどこへ向かったのか。これは現代社会でも議論される保守的なものと革新的なものの共存と、その間とはなにかというところだと考える。インターネットが古典的なものを存続、あるいは継承させる橋渡しになっていることはもちろんだし、これから起こる革新的な技術や時代の進化が必ずしも我々が待ち望んていたものではないかもしれないということ。現代的な論争を彩った映画のように思えた。

ここまで言わずに我慢したが、非常につまらなかった映画であった。