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モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

ストーンアイランドとニューバランスの考察で脱ニワカ

『オレは、ストーンアイランドを着ている』

そう言わんばかりに左腕にコンパスのロゴを掲げたサブカルHIPHOP愛好者は、少し体を右に向けてInstagramに写る。supremeなんて、郊外の自称オシャレヤングパパのイキリアイテム化しているし、今イケいるのはストーンアイランドだ、見たいな空気感が流れてもう長い。今更、ストーンアイランドってなんだ?ってググり始めた人に届けたい脱ニワカのための記事を書いてみようと思った。

 

ストーンアイランドの変遷

1982年、イタリア北部の街ラヴァリーノで設立したストーンアイランド。ストーンアイランドを最初に支持したのは、80年代のミラノで『パニナロ』と呼ばれた若者たちだ。彼等は、50年代のアメリカと60年代のモッズをミックスし、イタリアのデザイナーレーベルのアウターでまとめていた。フィラ、セルジオ・タッチーニ、ストーンアイランド...。一方80年代のイギリスでは、サッカーチームがヨーロッパトーナメントで一貫した成績を収めていて、ユースカルチャーはサッカーと音楽と共にあった。熱心なサッカーファンは、サッカー観戦と共にヨーロッパ中を旅行していたが、彼らがイタリアで見たのは、ストーンアイランドを纏う、パニナロのエキゾチックなファッションスタイルだった。英国へ持ち帰るとサッカーテラス⁽¹⁾はたちまちストーンアイランドで埋まった。自分たちのグループを象徴するユニフォームとして選ばれた。イギリスにストーンアイランドが渡ったのだ。

その後長い間、ストーンアイランドはマイナーレーベルだったが、カナダのMC、ドレイクとイギリスのグライムMCのスケプタの新たな友情が始まると、ドレイクはストーンアイランドを強くプッシュした。特にストーンアイランドとシュプリームのスウェットシャツはすぐにドレイクのInstagramにポストされ、瞬く間にストーンアイランドは世界中の目に留まり、リバイバルを成功させた。

 

⁽¹⁾英国でサッカースタジアムのテラスは主にゴール裏のスタンド席を指す。比較的安く、サポーター同士で自由に集まれるため若年層が多く、ユースカルチャーの象徴的な場所とも言える。

new balanceとのコラボレーション

さて、ストーンアイランドの歴史をざっくりと振り返ったところで、2021年3月に長期パートナーシップを結んだ、stone island×new balanceについて触れたい。2023年1月5日にドロップするnew balanceの574legacy×ストーンアイランドだ。モデルは2022年7月に発売された『574 legacy』。従来の574よりもソールは厚みを増して、ミッドソールとアウトソールはフレアに広がるデザイン。各部ディテールがアップデートされたこのモデルは900番台をやり尽くして、327も2002もxc72も履いた、10年前は1400や1300をよく履いたけど...みたいな人のツボを抑えるに違いない。いや、もっと正確には『これが今一番調子いいニューバランスだぜ(コラボしてるし)』である。

シュータンには目一杯のストーンアイランドの方位磁針のロゴがセットされ、「俺が履いているのはストーンアイランドである」と語るに十分すぎる出来である。アッパーのナイロンに見える部分は、ストーンアイランドらしいハイテクなマテリアル⁽²⁾に違いない。過去に3度、ニューバランス とストーンアイランドはタイアップしているが、今回が最もハイプビーストであることは間違いない。恐らく価格は3.5万だと予測できるので、二次流通は5万円を超えるだろう。

 

⁽²⁾ストーンアイランドの原点は繊維の技術。創業者のマッシモ・オスティは4万を超えるマテリアル(生地)を開発・研究し、代表的なものに『感熱セーター』『液体反射ジャケット』などがある。

 

過去のnew balance × stone island

TONE ISLAND × TOKYO DESIGN STUDIO NEW BALANCE FUELCELL RC ELITE SI ECRU/RED  ¥35,200 

2021年の第一弾、FUELCELL RC ELITE SI。ノーマルのRCエリートも3万弱だが、こちらは正規価格は¥35,200だ。前足部に窒素を混入させたフューエルセル構造のクッションとカーボンプレートで異次元の反発性を持つ。2021年10月に発表されリリースは同年11月5日だった。そもそもストーンアイランドは機能性ウェアのブランドだ。クラシックなモデルではなく、ニューバランスが現在も忘れることなくクリエイトし続けるハイエンドランニングシューズを選ぶことは自然である。

 

Stone Island × TOKYO DESIGN STUDIO New Balance FuelCell RC ELITE v2 ¥35,200 

第二弾も同じくRCエリート。第一弾からはモデル名が変更されているが同じモデルだ。ニットアッパーに、M576を彷彿とさせるニューバランスのクラシックカラー、バーガンディーミックス。RC ELITEであることは変わらないが、ニューバランスのレガシーを彷彿とさせるカラーであることは間違いない。

new balance Furon v7 ¥35,200 2022年11月21日

初のフットボールコレクションである。冒頭で書いたように、ストーンアイランドとサッカーは深い繋がりがある。カラーはストーンアイランドのアーカイヴのカモフラだ。

 

 

そして今回のM574 LC。

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Stone Island × New Balance 〈574 Legacy “Steel Blue”〉U574LGST 

 

2022年7月に発表されたU574LGをベースにした今回のコラボレーション。ストーンアイランドコラボ発表前に、果たして574LG注目していたスニーカーフリーカーはどれくらいいたか。そもそも、574は一部UK製はあったものの、ほとんどが1万円弱の流通モデルで、マス向けライフスタイルスニーカーなんてイメージが強い。574LGが発売しても、当然フォルムは574であり、ソールのアップデートには大した関心も示さず、「なら他のニューバランスを買うよ」と言う人も多かったのではないか。

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ここ何年かのニューバランスブランディング戦略はNIKEになりつつある。574は“legacy”という上位互換の称号を与えられ、その付加価値を絶対的なものにするストーンアイランド。900番代のブランドコラボも最近は頭打ちしている印象もあった。今後80年代クラシックのアーカイヴがピックアップされていく流れの決定的な一足ではないか。

シドの人生最大のトラウマとウッディのエゴ。考察・解説


我々が忘れていることが一つある。それは、彼に人生最大のトラウマを与えてしまったことだ。彼が持つ創造性は失われ、有望な未来のストーリーテラーは、ごみ収集員として再登場する。

 

シドを悪者と理解するようにできている。

トイストーリーのシドと言えばシリーズで最も悪名高き悪役である。シドは、おもちゃに爆薬を取り付け破壊し、おもちゃを解体し、それらを合成したミュータントを作り上げる。彼の唯一の友人である飼い犬のスキッドは暴力的で、それをわかっていながら人形たちをおもちゃとして与える。おもちゃを愛し、生きているかのように大切に遊ぶアンディとは対象的だ。そして我々観客は、ウッディたちの目線でトイストーリーの世界を覗き見していることで、シドが悪い人物であると簡単に理解してしまう。

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シドは残酷か、ストーリーテラーか。

特にウッディらにとっては、シドの遊びは残酷だ。さらに持ち主がおもちゃを大切にするアンディであればなおさらだろう。しかし、シド自身は、おもちゃを苦しめている自覚は無い。シドにとって紛れもない事実は、おもちゃ無機物だということだ。時に医者で、時に研究者で、科学者にとなる。シドが創造するストーリーの中で、おもちゃは小道具でしか無い。普通の子供なのだ。おもちゃは、考えないし、感じない。

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ウッディの脅し

シドの家に迷い込んだウッディは絶望的な状況から脱するために、禁じ手を使う。それはシド(人間)の前で、生きた姿を見せてしまうことだ。これにはシドも喚き叫び恐怖する。それ以来シドはおもちゃを怖がった。これほどまで人生に影響を与えるトラウマは無い。そして、同時にウッディがシドから奪ったものは創造力である。

思えば、シドは科学者、医者、研究者になりきっておもちゃを改造していた。確かにアンディがおもちゃの世界を想像して遊ぶのとは違うが、シドにはシドなりの創造力があった。それは他の子供と何ら変わりはない。おもちゃは、シドにとって子供がそれぞれ自分の想像する世界を創るためのプロセスに過ぎなかった。おもちゃを憎んでいるわけでもなく、狂気性や破壊的衝動があるわけでもなく、宇宙飛行士、科学者、医者...憧れる世界を表現する子供の姿の一つである。そして、アンディ家のパーティーにたくさんの友達が集まっているのに対して、シドに友達がいる描写は一切無い。家庭環境も健全には見えない。孤独に、創造する、シド。

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大学生とゴミ収集員という皮肉

シドがここで創造することを辞めてしまった先に待っているのは何か。ゴミ収集員である。大学生になるアンディと、ブルーカラーのシドとは何とも皮肉である。ウッディは運命を変える力を持っている。シドの家に迷い込んだのは不幸な運命だったかもしれない。それに逆らい、もう一度バズと共にアンディのもとへ帰る姿はヒーローだ。しかし、ある視点から見ればウッディのエゴとも言える。変えたのは自らの運命だけでなく、シドの人生も変えてしまったからだ。誰かにとって大切なことで、誰かにとって大切なことを犠牲にできるか。シドが根っからの悪党でないからこそ、悲しさを覚えるのだ。

 

おもちゃが生きていることを知ってしまったシドのトラウマ。それでもおもちゃのロッツォを手にとりトラックにくくりつけたのは何故か。冷静に考えて、おもちゃに苦しい思いをさせたら、トラウマが蘇るはずだ。もしかしたら、彼はトラウマ故に、目の前にある死にゆくおもちゃを放置することができないのかもしれない。自分だったらそうだ。この世界で、唯一自分だけがおもちゃが生きていることを知っている。そして、おもちゃが捨てられていたら、見て見ぬ振りできるか。

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ウッディのエゴ

シドに『おもちゃは大切にしろよ?』とウッディは言う。悪意があったわけでも無いシドに、おもちゃがしゃべるという恐怖と同時に与えたこの言葉は、ウッディのエゴではないか。

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トイストーリー2にて、ウッディは希少なヴィンテージ人形だったことが明らかになる。さらにジェシーとプロスペクターのら3体が揃うと最も価値があり、博物館で永遠の命(破棄されない)を手に出来る。ウッディは迷う。一度は博物館行きを了承したが、バズたちが助けに来ると、考えを改めアンディの元に帰ることに決める。ここで、一度も箱から出された事のないプロスペクターが立ちはだかる。プロスペクターにとって、ウッディの存在は自分の博物館行きを左右する。是が非でもウッディを留めたいのだ。ここでも描く視点の妙が発揮されている。私たちがスルーしているのは、プロスペクターが誰にも愛された事が無いという事実である。ウッディがいくら子供に遊ばれる事の大切さを説いても、プロスペクターには理解が出来ないのだ。争いに勝ったウッディは、プロスペクターを見ず知らずの女の子のリュックに入れてしまう。彼女がおもちゃでどんな遊び方をするかもわからないはずなのに。

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おもちゃはこうあるべきである、持ち主はこうあるべきである。ウッディは、自分の思想や価値観に絶対的な自信を持っている。アンディの一番のお気に入りだから、ずっとリーダーだった。時にヒーローだった。だから、ウッディの考えや行いは全て正しいか。

シリーズはトイストーリー3で完璧な着地を見せたはずだった。

蓄積したウッディのエゴへの回答

こんなに綺麗に終わった3部作に続きなど必要なのか。トイストーリー4で見ることができたウッディは、私たちが知っているウッディでは無かった。劇中で一度も持ち主から愛されないのだ。そして自分が何者であるかを見失い苦悩している。

我々人間は、自分が何者であるかいつだって迷う。同時に、こうあるべき自分の姿、理想の未来象も持ち合わせている。しかし、そうはなれないと現実に折り合いをつける時が来る。それが、ウッディに来るとは考えもしなかったが、よく考えてみれば自分にだってそんな苦悩が突然降りかかるとは予想していない。

子供に愛され、遊ばれることが本当の幸せ。持ち主に尽くす事がおもちゃの役目。トイストーリー4はウッディが積み重ねてきた経験や思い出によって、凝り固まってしまった思想や価値観からの脱却がテーマになっている。

いつか無くなると知りながらも、しがみついていた、おもちゃのあるべき姿。もうウッディにはシドにしたことと、同じことを繰り返せないだろう。プロスペクターにも、ロッツォにも。

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白鳥とコウモリ 書評・考察・解説

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『白鳥とコウモリ』——

 

「光と影、昼と夜、まるで白鳥とコウモリが一緒に飛ぼうって話だ——」

 


作中で、中町巡査は五代にこう話す。

タイトルの“白鳥とコウモリ”とは、美令と和真であると当てはめれられる。至ってシンプルで、明白な比喩だ。倉木達郎の供述が嘘であり、真犯人は別にいたことが判明すると、息子の和真は“加害者家族”では無くなった。それと同時に、白石健介が過去に犯した殺人が明らかになれば、美令は被害者家族から、加害者家族になる。立場が入れ替わるのである。果たしてどちらが白鳥か?コウモリか? こたえはどちらもである。二人は白鳥でありコウモリなのだ。二人とも“光と影”を持つ。光なしに影は生まれず、影が無ければ光の存在意義は無い。さらにお互いに光と影として、あるいは影と光として機能する。つまり、この事件が意図するものとは、表裏一体であることの複雑さである。絶対的な悪と絶対的な善というものは無い。人間の意識とは主観的であり、そして相対的である。どちらか片一方から見れば、真実は一つなのに、善と悪どちらにでも転がっていく。それは、時に不可抗力だ。 倉木達郎を、白石健介を、誰もが言語道断だと非難したか。していない。そして事情も知らぬ無関係の世間というものが白石美令をバッシングしているというのは、ある意味皮肉に映っている。 だとすると白か黒かを裁く法律や裁判とは、非常に不確かなものかもしれない。長い時間をかけて絡み合った複雑な事実を、どう白黒はっきりさせるのか。やったやられたを証明するだけである。そこに“時効”が絡むとさらに、裁くとは何か?とういう命題が生まれてしまうのだ。 やはり、検事、弁護士は事務的なのである。目の前の材料をどう処理するか、である。そういった描写が印象強く描かれている。

その複雑さの正体に迫ろうとした二人を待っていたのは、迷宮だった。和真と美令は、明らかにしようとする。真実が明らかになっていくにつれて、美令に暗い影が落ちていく。昼と夜。この事件の真相にたどり着けるのは二人しかいなかったことがわかる。五代や中町には感じ取れない違和感が複雑さの正体を明らかにしていくのだ。 東野圭吾は、読者の考察に任せる前に、中タイトルにある中町のセリフで核心的な部分を提示する。こういう説明的な段落を排除していくと350ページ超で完結できただろうとも思わずにいられない。ミステリーファンの評価がイマイチなのは、語り過ぎているからだろう。

「このまま二人でどこかに消え去れたなら、どんなにいいだろう」

加害者家族と被害者家族という大きな壁を挟んだ関係性の中で交わされる言葉は、全て事件についてのことである。ぎこちなく、硬い印象のままである。でもどこかお互いを気にしていて、お互いを信頼している。そこはかとなく漂う、そんな雰囲気。ついに美令が手を握ったのは、とてつもない絶望の中で唯一心を許せるとすれば、隣いる和真だけだった。どう考えても浅はかな恋愛感情では無い。何かに怯えた人が取る、本能的な行動だったかもしれない。和真は思った。「このまま二人でどこかに消え去れたなら、どんなにいいだろう」——これもまた恋愛感情が動機とは言えない。言ってしまえば、二人は突然人生の歯車を止められた状態である。なんとか動かすために、悲痛な現実に打ちひしがれながら、歩を進める。いっそのこと、人生ごと乗り換えてしまえば——全てを捨て、違う人生を歩めば暗闇から解放されるだろうか?——和真の気力は限界に来ていて、自分の人生から逃げ出したい。そして誰よりも理解者であろう、隣の女性は、同じ絶望を味わっている。和真がエリート広告マンで、美令は美人だという紹介がある。年齢の近い二人がどうも、恋愛関係に落ちるだろうかと感じながら読み進めていた読者は多いと思う。ミステリーファンとしては複雑だろう。重いテーマを扱い、人間の複雑さや、理不尽な結末を伴う世界観に、恋愛関係が入り混じった瞬間に拙劣になってしまう。恋愛描写は時に登場人物を都合よく動かすことができる。

推理をする張本人たち同士が現在進行形の恋愛を挟んでしまうと、物語の緊張感を欠いてしまう。二人の空間は落ち着ける場所だからである。こういう危惧をした読者と、これは恋愛では無いと考察した読者と二手に分かれるのでは無いかと感じる。

Netflix『グッド・ナース』解説・考察・批評・レビュー

実話映画をどう見るか?

実話モノ映画を考察する時、テーマはどこにあるかを考える。多くの場合は事件そのものより、事件の根底にある社会的問題を問うのがベターだ。単純に事実を再現しているだけであれば映画としての創造性や意義は必要なく、ドキュメンタリーの仕事だからだ。例えば、Netflixオリジナルドラマとして公開された『僕らを見る目』は“セントラル・パーク・ファイブ冤罪事件”を題材にしながら根深い人種差別問題で表面を作り、政権批判を内包していた。あるいは、事実を基にしたシリアルキラー事件を描いた名作、『ゾディアック』(2007年/デヴィット・フィンチャー)では、犯人がまだ捕まっていない事件に、映画として“どう結末をつけるか”がテーマとして描かれる。『グッド・ナース』は、チャールズ・エドモンド・カレンの起こした殺人事件を描く。Netflix版“チャールズ・カレン”は、この事件をどう描いたのか考察していく。

チャールズ・カレンの半生と動機

こういった異常殺人や連続殺人を犯す背景には、必ず幼少期からの家庭環境が何らかの影響を及ぼしていることは間違いない。例によってチャールズの半生も、決して健全で幸福だったとは言えない。末っ子として生まれたチャールズは生後間も無く父を亡くすと、続いて子供時代には姉のボーイフレンドからからいじめを受け、9歳の時には薬品による最初の自殺未遂を行なった。高校時代には交通事故で母も亡くし、その後すぐに8人兄弟だったうち2人も亡くなっている。高校を卒業して海兵隊へ入隊するも、ここでも仲間からいじめを受けると、異常行動が目立つようになり注意を受けて自殺未遂を図る。海軍の精神病棟に何度か入院し、最終的には除隊となる。また、癌との戦いに敗れた兄を長い間介護もしていた。その後に結婚をし、二人の子に恵まれるが、チャールズの異常行動は妻によって告発され、飼い犬への暴力、娘の本を燃やす、娘をベビーシッターに預けたまま1週間も迎えに行かなかったなどの理由により離婚となる。

こうした彼の半生を見てみると、2つのことが読み取れる。それは、不遇な経験は不可抗力にして起き、そして彼は多くの場合に自殺を選んでいることだ。これにはチャールズがメディカル・シリアルキラーとなった理由が垣間見える。彼が行なった連続殺人の現場は病棟である。被害者はほとんどが回復が見込まれている患者だが、病室に訪れる殺人の脅威には立ち向かえない。つまり、チャールズは誰かの生と死を選ぶことができるのだ。救うことも、殺すこともできる、このコントロール感覚は彼の不遇な人生と対照的である。彼はできるから殺した。彼自身にそれ以上でもそれ以下でもなかったのかもしれない。命の尊さなど、とうの昔に排除された世界で生きてきたチャールズが、400人の殺人をほとんど覚えていないというのは、一切共感などできるわけが無いが、線で繋がるような気はしてくる。映画では動機は語られないが、実際には法廷で「患者が苦しみを終わらせ、人間性を奪われてしまうことを阻止した」と語っている。しかし、多くの犠牲者は回復が見込まれており、この理屈は通らない。アメリカで精神科医は“自分が正しいことをしていると確信するための正当化”と解説するが、そんな正当化すら本気で言っているのか怪しい。何故ならこのメディカル・シリアルキラーは、直接犠牲者に外傷を与えない点滴という方法、さらにインシュリンという特性から、投与から死亡までに時間がかかる。まるで実感の薄れるような殺人。人を殺すことや死体に快感があったり、残虐性を持っていない。また、連続殺人によくある若い女性とかブロンドヘアーとかカップルと言ったようなカテゴライズされた犠牲者像も無い。自分と最も遠い存在の神にでもなったような気分だったのでは無いか。そして彼が与えたのは遺族の悲しみだ。彼が見たかったのは、不幸に嘆く遺族だったのかもしれない。

グッド・ナースはエイミー視点で描く

チャールズの半生を基に考える動機を前提に、では映画としてどう描いたのかを考えてみたい。この事件から背景にできることは3つある。「劣悪な家庭環境が生まれる社会への問題提議」「医療機関の隠蔽・システム、制度上の欠陥」「社会保障とシングルマザー」である。グッド・ナースがとりわけ実話モノとして高評価なのは、シリアルキラーの幼少期の経験を描いて狂気性を訴えるような、いわばありふれたプロットでもなく、医療機関と検察と警察の権力間の攻防でもなく、病気を患ったシングルマザーの視点でサスペンスを作ったことである。事実が明らかになっている実話ベースのサスペンスというのは、視聴者の興味を継続させるのが難しい。それを実現しているのは、映画に重要な”足かせ”である。

主人公には必ず何かしらの足かせがある。思うようにことが運ばないからこそ、緊張感が生まれる。彼女にたくましい夫が居て、健康体であったらどうだろうか。グッド・ナースにおいての見せ場はほぼ消失していたに違いない。実話映画を作るとき脚本家はどこに注目するだろうか。ここに手腕があったと言える。また、それを支えるのは演技と演出である。それは冒頭3分で発揮される。逮捕劇より数年前のとある病室で、心肺停止に陥る患者を取り囲む看護師、医者たち。この冒頭3分である。その後ろで、茫然と事態を見つめる一人の男。彼は一言で言って無表情だが、誰が見ても、彼が何をしたか理解する。まるで想定していたかのように落ち着いている目線、どこか他人事のような横顔に、ゆっくりとズームしていく。これだけで、この映画が何を見せたいかがわかる。演技と演出だ。聞き取るのが難しいような呟くようなセリフ、微かな息遣い、動揺を隠すような強張った表情、狂気的な取り調べ、ベッドで母親を見る娘の眼差しまで。この題材から何ができるかを、最高の形で完成させた映画だと、言い切りたい。

 

 

 

 

 

ロバート・グラスパー『BLACK RADIOⅢ』トラックメンバー

 

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A1   In Tune
Bass Clarinet – Marcus Strickland
Bass, Strings – Derrick Hodge
Featuring [Ft.], Written-By, Voice [Spoken Word] – Amir Sulaiman
Keyboards – Robert Glasper
Trumpet – Keyon Harrold
Written-By – Robert Andre Glasper*
A2   Black Superhero
Bass – Derrick Hodge
Drums – Chris Dave
Featuring [Ft.], Vocals – BJ The Chicago KidBig K.R.I.T.Killer Mike
Keyboards – Robert Glasper
Turntables – DJ Jazzy Jeff
Voice [Kids' Voices] – Josephine HodgeRiley Glasper*
Voice [Spoken Word] – Christian Scott aTunde Adjuah
A3   Shine
Bass – Burniss Travis II*
Featuring [Ft.], Vocals – D SmokeTiffany Gouché*
Guitar – Isaiah Sharkey
Piano, Drums – Robert Glasper
Saxophone – Terrace Martin
Trumpet [Muted] – Keyon Harrold
Turntables – Jahi Sundance
Written-By, Keyboards – Justin Tyson
 
B1   Why We Speak
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Vocals – Q-Tip
Featuring [Ft.], Written-By, Vocals – Esperanza Spalding
Guitar – Isaiah Sharkey
Keyboards – Robert Glasper
Written-By, Bass – Burniss Travis II*
B2   Over
Bass – Burniss Travis II*
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Vocals – Yebba
Guitar – Isaiah Sharkey
Keyboards – Robert Glasper
Turntables – Jahi Sundance
Written-By – Abbey SmithRobert Andre Glasper*
B3   Better Than I Imagined
Bass – Derrick Hodge
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Vocals – H.E.R. (2)
Featuring [Ft.], Written-By, Voice [Spoken Word] – Meshell Ndegeocello*
Keyboards – Robert Glasper
Turntables – Jahi Sundance
C1   Everybody Wants To Rule The World
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Vocals – CommonLalah Hathaway
Guitar – Isaiah Sharkey
Keyboards – Robert Glasper
Turntables – Jahi Sundance
C2   Everybody Love
Bass – Derrick Hodge
Featuring [Ft.], Vocals – Musiq SoulchildPosdnuos
Guitar – Isaiah Sharkey
Keyboards, Co-producer – Robert Glasper
Programmed By [Additional] – Jay Cooper (5)
Turntables, Co-producer – Jahi Sundance
C3   It Don't Matter
Bass – Pino Palladino
Drums – Chris Dave
Featuring [Ft.], Vocals – Ledisi
Featuring [Ft.], Written-By, Vocals – Gregory Porter
Keyboards – Robert Glasper
D1   Heaven's Here
Bass – Derrick Hodge
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Vocals – Ant Clemons*
Keyboards, Co-producer – Robert Glasper
Turntables – Jahi Sundance
Written-By, Synth, Co-producer – Bryan-Michael Cox
 
D2   Out Of My Hands
Bass – Derrick Hodge
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Written-By, Vocals – Jennifer Hudson
Keyboards, Co-producer – Robert Glasper
Synth, Co-producer – Terrace Martin
D3   Forever
Drums – Justin Tyson
Featuring [Ft.], Keyboards, Vocals – PJ Morton
Featuring [Ft.], Vocals – India.Arie
Keyboards – Robert Glasper
Organ – Cory Henry
D4   Bright Lights
Co-producer – Terrace Martin
Drums – Justin Tyson
Keyboards, Co-producer – Robert Glasper
Vocals – Ty Dolla $ign*

maxell UDⅡ カセットテープの解説と安い買い方

 

 

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カセットテープ黎明期のロングセラー

1983年に日立マクセルのUDシリーズがモデルチェンジした。ノーマルは『UDⅠ』ハイポジは『USⅡ』となる。当時定価500円〜650円程度が相場だったハイポジ46分で、このUDⅡは480円。ハイポジ初のアンダー500円で性能も良く、何よりゴールドが強調されたパッケージはカッコいい。特に当時の若者にヒットし、モデル切り替えが頻繁だったカセットテープ黎明期に4年も販売された超ベストセラーである。

ロングセラーだけあって、割と出回る玉数も多く、高騰し続けるメタルテープと比べて、ハイポジなので比較的相場も安定している。1500〜2000円ほどが未開封の相場だ。アンダー1500円を見つけたら即買いすべきである。

黎明期を支えたという意味で是非持っておきたい名作だし、手に入りやすいという点も含めると、カセットテープコレクション入門としてベストかもしれない。

 

どう安く手に入れるか?

ただ解説しただけでもつまらないので、安く手に入れる方法の一つを買いておきたい。

究極、コレクションとは資金との戦いになるわけだ。欲しいモノならいくらでもあるので、限られた資金でいかに多く集められるかである。「あぁ、100億でも持っていればなぁ」と悲観するのは早い。いくつか安く手に入れる方法はある。

その一つ、『メルカリ新しい順』である。何コイツ今更なことをと思う方は申し訳ない。でも、まずこれだろう?ハードオフだって近年の相場を鑑みて、大したことないテープに爆値をつけている。昔のように足で探してジャンクボックスから未開封テープがゴロゴロ出てくる時代じゃ無い。

なので狙うはカセットテープ情報弱者である。カセットテープは未だに家にあったいらないものを処分ついでに出品という人多いのだ。二束三文でしか売れないでしょうってことで相場も調べずメタルテープ5本が数百円とかマジでたまにある。

しかしながら、ウォッチャーも多くいて、そんなものは数秒で売れてしまうのがザラである。

つまり理想は新しい順で更新し続け出品された瞬間に購入である。

これには相場の瞬間的な判断と、購入の迅速な決断が必要なので過去のカセットテープ各種についての知識もある程度必要で成り立つ。

こういった相場無視の処分スタイルは、体感値として午前中の出品が多いように感じられる。

 

何が書きたかったのか

カセットテープ1本で書けることは無いかなと考えた結果である。ライバルを増やしたく無いが、頭にあることを言語化せずにいられない、秋の夜長であった。

 

何故サウナは若者に受け入れられたか?という考察

ミーハーを考察する記事を書いている途中で、サウナの流行とは何なのか?を考えはじめたら、先にこっちを書きたくなった。

2020年代の幕開けと共にコロナ時代に入ると、若者だって予防・免疫なんて言葉を嫌でも耳にし、口にするようになっている。多分、間接的に健康でいることへの関心は高まっていて、若者なら寝不足で“飲み・食い”して思い出を作るのがなんぼでしょってのが、どうやらうまくハマってない。いや、渋谷や新宿ならそんな若者はいくらでもいるが、ファッション的な感度が高くてサブカルチャー好きで経済的にもまぁまぁ余裕がある20〜30代こそ、サウナとかスパイスカレーとか言っている気がする。ミーハーの話になりそうだが、サウナはどうしてユースカルチャー化したのかを考察したい。

 

“サ道以前、サ道以後”

まずは流行っている理由について、上澄みの部分だけ先にピックしておくと『サ道』『サウナイキタイ』の二つがブームの大きなきっかけだったことは間違いない。

サ道はサウナをテーマにしたエッセイである。やがて漫画化され、さらにドラマ化となる。

一気に認知度を上げたのはドラマ化(Netflix,2019)だろう。

この若年世代への火付け役となった『サ道』のドラマ版は、『孤独のグルメ』のようなスタイルで主人公の独白と共に全国のサウナをめぐる。

訪れるサウナをレビューしながら、サウナ→水風呂→外気浴というルーティンから、汗流しカットやおしゃべりなどのマナーにも触れ、how to サウナそのものだ。さらに“ととのう”というサウナ特有のリラックス状態の言語化も達成し、これはサウナを知らなかった層への究極のリーチ方法になったと言える。

『サウナは汗かくところ』みたいな漠然とした認識から、“サウナとはなにか?”のアンサーとして決定的なものとなった。

サ道以前、サ道以後と言われるほどに影響を与えたのだ。

“ととのう”というキラーワードは、漠然として良くわからなかったサウナにシンプルな目的意識を生み、あれこれどんな効能や医学的効果があるとか、そういった説明を省いて「おまえ、ととのうって知ってる?」と、それだけで広まる。発明である。

しかも、確かに“ととのう”というものはある。自分が知らなかった種類の快楽がそこにあった。やましくもないし、如何わしくもない。確かにあるから、誰かを誘いたくなる。

「おまえ、サウナ行ってる?え?ととのうって知らないの?」

 

そうして、サウナはたちまちユースカルチャー化してきた。

 

2018年にオープンしたwebサイト『サウナイキタイ』はサウナ情報をまとめたサウナポータルサイトである。サ活に片足だけ使っただけのミーハーを、一気にサウナ愛好家へと導くため、マイナーメジャー問わずとてつもない情報量で大量の玄関口を用意している。ユーザー評価もわかりやすく、UIも使いやすくデザインも現代的。長きに渡りおじさんカルチャー止まりだったサウナが、なんだかクリエイティブに思えてくるのは、塊根植物ブームの火付け役となった『BOTANIZE』のように、渋い文化もクリエイターが手掛ければ、“いまツウなもの”化していくのだ。

他にも若者の入口として多かったと思われる、フリークスストアのサウナ関連アイテムの参入もある。サウベニアというサウナ館内着ブランドを展開し、極楽湯や黄金湯とコラボしたアイテム等を展開している。Twitterで少し検索してみたら、「フリークスのサウナウェア、めっちゃととのう。サウナ行ってみようかな」なんて読んでしまって結構引いたのは言うまでも無い。

SNSとコロナ

SNSが若い世代にもたらした価値観の変化は”ノームコアとは何だったのか。 - スグループ”で書いたが、サウナブームにはノームコアという概念が密接に関わっているように思える。記事の中ではキーワードとして「こうでなきゃだめという同調圧力、こうあるべきという固定概念からの解放」、そして「もっと自由であるために、人と違うことを探すのではなく自分にとっての普通を探す」と書いた。この記事では価値観の変化を真面目に考察しているが、サウナのユースカルチャー化という面においてはもう少しライトだ。

『自分にとっての普通が世間的には少数派であるが、一定水準以上の認知度があるものにオシャレさを感じる』という傾向があるように思える。

簡単に言うと、“生きていく上での自分らしさや個性”みたいなウエイトのある葛藤から、マイノリティっておしゃれだよねって感じのライトな領域である。

また、サウナは銭湯に行く程度の難易度だからこそ敷居が低く『自分にとっての普通化』しやすい。

サウナのようなクローズドなカルチャーは、まさにそれに当てはまるのではないか。23区に住んでいても、その辺のサウナが爆混みするような状況でもない。だけど、にわかに流行っているよねという話はよく聞く。藤原ヒロシのように新しいモノを一早く掘ってそれが5年後に流行るみたいなことはできなくても、『知らないの?俺は知ってるよ』みたいなことが現在進行形でできるのだ。さらにコスパもいい、情報も揃う。健康にもいい。

SNSは個性という概念を塗り替えた。自分の個性だと思っていたものはSNSで検索すればいくらでも同じような人がいて、自分よりも極めていたり自分よりも困っていたりする。自分の個性だと思っていたものなんて、なんでもない。でも、それで自己評価を下げるのではなく、そういったコミュニティーの中に浸かってしまえば途端に気持ちが良い。

若い人であんまりやっている人は少ないけど自分たちにとっての“普通”としてライフスタイルに取り入れてしまえば、そういう仲間がいれば、それってオシャレじゃない?

 

ノームコアという概念踏まえると、全国的に大ブームになるようなものは生まれない時代である。局所的(場所ではなく層)な流行というのが、世代・趣向・性別・ライフスタイルごとに発生している。言い換えれば同じカルチャーを好む者同士は、同じようなライフスタイル、仕事や生活圏であることが多いのではないか。

 

次から次へとユースカルチャーしていく古い価値観

日本におけるサウナの起源は1956年の銀座6丁目「東京温泉」。思えば純喫茶や塊根植物のような文化は、現代のクリエイターたちによってブラッシュアップされ再提案されている。サウナは”オロポ”に始まり“サ飯”というゾーニングも提案され始めている。集まって騒ぐより、黙ってととのうのはコロナという観点からある意味で言うと、追い風だったのは間違いないだろう。ソロキャンプブームと掛け合わせたテントサウナ。若者文化からはほど遠いスナックがフックアップされそうな流れもある。思えばシン・ゴジラだってそうではないか。カセットテープもサブカルチャー化している。昭和レトロ自転車のジュニアスポーツやロードマンも注目されるかもしれない。

ある程度は歴史に裏付けされた文化でなければ、リブート的再構築は成功しない。そして時代とのマッチングも重要である。人々が感じていることと景気。サウナは2010年代以降SNSの発展と共にサウナーたちのコミュニティを少しづつ拡大してきたが、その成長度と時代がまさに今ドンピシャだった。