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『この世界の片隅に』が纏う生身の感覚。考察・レビュー

劇場公開を見逃した。というより、見送った。

あろうことか日本の長編アニメに無知なあまり、映画ファンとしてご法度の<先入観で価値を決めつける思考不足>で、いつかのソフト化で観ればよいと見送ってしまったのだ。

この世界の片隅に』が劇場公開された頃、ちょうど『君の名は』ブームに重なっていた。少し調べていればどれだけ劇場で見るべきだったかわかるはずだったが、『ジャック・リーチャー』や『ジェイソン・ボーン』『10 クローバーフィールド・レーン』で頭がいっぱいだったその頃、口の中がアメリカ映画になっており、『君の名は』(内容に批判的ではないが手放しで称賛もできない)のような、<みんなが良いと言えば良いもの>という批判できぬ風潮、全国的な同調圧力だろう、という先入観で<今年の日本の長編アニメ>として一緒くたにし、『世界の片隅に』を見送るという非常に無知極まりない愚行に陥った。というか近年は少し批判したら世界を敵に回してしまうようなダメと言えぬ同調圧力が凄まじい流行り方の映画が目立つ。

 

そして2018年某日。公開から約2年。Netflixに新作映画がたくさん追加されていたこの時、『この世界の片隅に』も追加されたことを知る。ただ、それでも同時に追加されたジョセフ・ゴードン=レヴィットの『スノーデン』を先に見たのだが。それに加えAmazonの『高い城の男』見たり『中間管理職 トネガワ』を読んだりと、一通りリストを消化下あたり、箸休めにさて次は何を楽しもうかと悩んだ時“5分だけ見て決めるか”という、あれほどの名作に対して失礼極まりない...正に愚の骨頂な態度で『この世界の片隅に』を再生した。

 

たった5分で引き込まれたのは言うまでもない。戦時中は知らない。戦後間もない国の雰囲気も知らない。高度経済成長期も教科書の中の話、バブル期の実感も無い。そんな90年生まれが心苦しくなるほど“あの時”感を抱く。ノスタルジーでもヒストリーでもない、あの時。

 

東日本大震災は21歳の頃で、東京とは言え、確かに経験者だ。だから“あの時”を語れる。YouTubeに溢れる映像や、毎年ニュースで繰り返される“震災の記憶”とは少し違う。

あの時の感じ。例えば何度も何度も繰り返されるCMの心地悪さ、普通を装いながら、どこかぎこちないやり取り。電車で向かいに座っている人も、なんだか他人じゃないような感覚、日本全体が暗いムードで、言葉を選びながら過ごしていた、震災時の空気感。

こういったあの時感はどう語っても、その時を生きていなければ肌に感じることは難しい。

 

難しいはずなのに、『この世界の片隅に』は戦時中の空気感を、肌に感じるように表現していく。

人前で泣くことが反戦になるから、隠れて泣くのか。戦争が正義だと信じていたのか。憲兵隊のやりとりは何だかスズと同じように騙されて、蟻の列が砂糖まで繋がっているような気がして、もう爆弾は落ちないから魚も浮かないと冗談めかし、防空壕の中でキスをする瞬間もあって、戦死をおめでとうございますと言って...。

文にするだけなら、今を生きる若者として想像できない感覚なのに、感傷的に誇張されることなく、ごく自然な日常として描かれていく。あの時こうだったと、その時生まれていない自分も語れるような気がするほど、異常と日常の感覚を狂わせる。

 

アニメだとしても、劇中の出来事はどうしたって僕らの生きる現実と地続きの世界である。故に、戦争で何が起きたか知っている僕らは、彼女たちの身に起きる未来を待つ事しか出来ず、居た堪れない気持ちで見守るしかない。

『向こうは空爆が少ないから、広島へ帰んしゃい』

出来る事なら画面の中に飛び込んで叫びたい。行っちゃダメだと。

 

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スズはどんどん大切なものを失っていった。絵を描くことも、スズの子供的な一面を支えるあの子も。スズほど明るく生きる才能に溢れた人を、あんな風に感情的に独白させてしまう戦争は...確かに残酷だ。残酷なのはわかっている。誰もが小学校から勉強してきた。大人になっても戦争の悲惨さを伝える番組や映画も幾度となく見てきた。そうじゃない。戦争が残酷だとか、必死に暮らしてた人がいるとか、そういうありふれた形式(一般的で画一化)は、もはや現在では若者にとって他人事だ。伝言ゲームの激化し、あらゆるコンテンツが個人の時間を奪い合う現代に、2時間の時間を費やし身を乗り出して感じようとする姿勢を作り出すには高いハードルがあるが、戦時中の空気感を生身で体感したかのよう感覚が、上映たった5分で脳内に染み渡る。