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自動車歴史で最もひどい50台(All Time American Worst Car)を全て解説。そして考察。

アメリNBCが2005年に行った『All Time American Worst Car 50』という、自動車歴史で最もひどい50台を選定する企画。この50台を日本語で解説する記事があまり見当たらないため、自身の積み上げた本・雑誌や英語圏のサイトなどを参考に解説してみることとした。これは自らの覚書でもあり、暇つぶしである。

いよいよ調べを進めてみると、想像以上に膨大な時間と労力費やす。いったい何のために、さほどPVもないこのブログために、と挫折しそうになる時もあった。しかし、この50台が巻き起こした失敗の数々は、その時代背景や企業理念などが色濃く読み取れる。自動車史に、より詳しくなった達成感がインセンティブである。

 

No.50

1978 ダッジ チャレンジャー

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伝説のマッスルカーの名を身につけ復活を遂げた’78チャレンジャー。

しかし、それまでのチャレンジャーとの共通点は名前のみで、実際は’77 三菱 ギャランのOEM車である。よってエンジンは2.6リッター4気筒で77馬力というチャレンジャーの名に相応しくないパフォーマンスが不人気の理由だ。

当時ダッジには利用可能なV8エンジンがなく、ハイパフォーマンスではなくパーソナル・コンパクトラグジュアリーカーという新たなカテゴライズとして売り出しされたものだった。とはいえ、それが果たしてチャレンジャーブランドなのか疑問も残るが、高性能なステレオやデジタル表示、メモリーシートなど利便性と豪華さ追求し、品質が悪かった70年代のアメリカ車と対象に日本らしい高品質さが垣間見える。

やはり、チャレンジャーの名とはギャップがありすぎたパフォーマンスの悪さとスタイリングは当然のようにワーストカー入りを果たしてしまう。名前さえ違っていたら名車として語り継がれたかもしれない。

 

 

No.49

1993 フォード アスパイア

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歴史を掘ってみると、フォード・マツダ・起亜自動車の三角関係が見えてくる。

80年代、マツダの親会社はフォードであり、マツダは起亜と技術提携を結んでいた。オート三輪から始まり、ファミリア、ボンゴなど起亜が生産したマツダ車は多くある。

さらに起亜はフォードのパートナーでもあった。

 

1986年、起亜産業(現在の起亜自動車)が自国内でプライドという車を販売していたのが始まりである。このプライドをマツダの協力によって日本フォード・フェスティバとして販売する。さらに起亜によって生産された左ハンドルのフェスティバは、フェスティバは5として世界各国のフォードディーラー向けに輸出される。

 

そしてフェスティバ2代目として登場したのが今回のモデル。起亜からはアヴェラという名で販売され、北米市場向けが『アスパイア』だ。同じく起亜が生産している。

先代のフェスティバ5は3ドアハッチバックブリスターフェンダーが特徴だった。ランチア・デルタやアウディ・クアトロ、ルノー5、ホンダ・シティなどを彷彿とさせるデザインで人気を博した。モデル末期にはドイツ・スカラ社がデザインした限定車も登場するなど名車としての位置付けを確立している。

しかし、この事実上二代目のアスパイアはクーペデザインに変更した結果、その質感の低い大味なスタイリングと、さらにリアシートが使い物にならず販売は低迷する。

当時はオプションとしてAT車が選択できたが、性能がひどく時速100kmまで16秒という遅さに加え、パワステMT車のみ。2010年のモナッシュ大学の中古車安全性評価では星1つという査定評価を得た。先代から一転、不人気車の代表格の仲間入りとなってしまったアスパイア。フェスティバの歴史は、その後のデミオマツダ2へとつながっていく。

No.48

1989 フォード・サンダーバード

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こちらは’78 ダッジ・チャレンジャーと同じようにサンダーバードというブランドを壊してしまったため、低評価されている一台である。

サンダーバードに限らず、アメリカの1990年代はマッスルカーを殺した10年と呼ばれている。90年代に入るとアメリカ自動車メーカー各社は大きくて箱型のデザインから、丸みを帯びた空力形状となる。デザインはNew edgeとカテゴライズされ、洗練された次世代のスタイリングは高級グランドツーリングカーや、ファミリカーにはマッチしても、じゃじゃ馬で筋肉質なマッスルカーには、このNew edgeは受け入れられない。

60年代から70年代前半までのマッスルカーとしてビックネームだったモデルは、いくつも90年代に復活したが、必ずデザインで低評価されている。

どれも丸くて重くて遅い。’95 シボレー・モンテカルロ、‘93 シボレーカマロ、’93 ポンティアック・ファイヤーバード、’94 フォード・マスタングなど...。例は尽きない。

このサンダーバードもそのうちの一台である。90年前後と言えば、日本では日産のZ32やトヨタの70スープラが280馬力に達し、安全性から馬力に自主規制が設けられた時代である。対して、このサンダーバードはマッスルカーの名を受け継ぎながら、わずか230馬力、そして重さは1.8tである。さらに痛々しいほどレスポンスの悪いと言われるオートマチックミッション。

とは言え、当時カーオブザイヤーも受賞しており、評価されていた一面もある。

選出されたワーストカーの中では比較的マシな境遇だ。熱狂的なカーファンにとっては残念な後継車であるが、当時の環境保全、コスト削減、ヨーロッパ車・日本車などと競合する上で、消して順調な経営状況ではなかったアメリカ車が、コアファン向けの伝統的なマッスルカーを復活させるよりもパーソナルラグジュアリーカーとして提案し、ターゲットを広くすることが生き抜く術だったのかもしれない。時代性が色濃く出ているこの年代のアメリカのフラッグシップ。30年の時を経てもはやヴィンテージとも言えよう2021年現在、車好き界隈では、その存在に少しづつ気になり始めている雰囲気がある。なんせ'93 フォード・マスタングですら50万円くらいで買えるのだから。90年代に、復活に失敗したビッグネームを持つ後継車たちは、近い将来ヴィンテージとして注目されるかも?

 

No.47

1987 スターリング・825

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スターリングというブランドは、英国オースチン・ローバー・グループ(ARG)による米国向けブランドだ。中身はローバーの800シリーズにバッチを付け直して米国で販売していた、というものだ。この『All Time American Worst Car 50』はアメリNBCの企画であるため、よってスターリングの名で選出されている。そしてこの825というセダンはアメリカ市場最も最悪の車として認知されている。

この825には姉妹車車としてアキュラ・レジェンドがある。今なお最悪の車として語り継がれる825に対して、日本製であるレジェンドは販売初年度にトップランクを獲得している。

当時ARGはホンダとパートナーシップを結んでおり、米国で収入性を改善したいホンダとジャガーと同じ成功を収めたいARGは、高級セダンの開発を共同で開発しスターリング・825とアキュラ・レジェンドという姉妹関係が生まれたのだ。

この栄光と失脚、分かれ道を探ってみると、このモデルはホンダがパワートレイン、ARGがフレームとサスペンションの開発という分担がされていた。その他空調やシートフレームなどの共通パーツはあるものの、サスペンションのチューニング・インテリア・板金に関しては両社別々の道を歩み、825はARGが持つイギリス工場、レジェンドはイギリス工場でも生産されたが、品質を好むアメリカ市場向けは日本の工場で製造された。

そうして販売された825はとてつもない数の不良が発覚する。特に問題視されたのは電気系統である。燃料計不備、グローブボックス固着、ステアリング中心のずれ、クルーズコントロール不正確、ドアモールが取れる、アライメントの崩れ、サンルーフが開かない、フロントガラスワッシャーが機能していない、ライトが壊れている、トランクが緩む、シートが調整できない、パワーミラースイッチ故障、ブレーキ警告灯が点灯、グリルが落ちる、キー入力チャイムが断続的に発生など、およそ3万キロ走っただけでこれほどの不良が発生する。また825のインテリアは木で作られていたため腐食とクラックが入ってしまうなど、主にルーカスインダスリーズに外注した電気系統と、内装に関わる不良で、見た目は同じでもこんなにも違う車に育ってしまったのだ。対してホンダは電気系統もホンダ製であり、トラブルとは無縁だった。

1年後にレジェンドは7万台売れ、825は2万台。さらに825は低迷し、その後827を発表するが全く売れずに最終的に大値引きオファーをするも低迷は続きスターリングブランドはARGによって廃止され、幕を閉じた。

兄弟とは時に、正反対の性格持つという言葉に心当たりがある人も多いだろうが、825とレジェンドは栄光と失脚を地で体現してしまった歴史に残るトラブルカーである。

中古車市場で最も見かけないブランドである。

No.46

1957 ルノー・ドーフィン

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戦後の消費者の生活水準の向上に対応できる車としてドーフィンは登場した。この年代のアメリカ車を見れば一目瞭然、比べてチープな造りである。時速100kmまで32秒かかるたった32馬力のドーフィンは、そのスピードはカレンダーで測定できると揶揄されたほどである。特に錆に弱いことが問題で、1年経てばフロントエンドは錆び付いてしまったため、多くの購入者にとって悲惨な結果になったという。

しかし、売り上げは記念碑的セールスで10年間で200万台が販売されている。この時代の人々は、たとえそれがどんな問題があろうとも、とにかく車を欲しがっていたということがわかる。

 

No.45

1983 プリムス・カラベル

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プリムス・カラベルは、それまで売れ行きの悪かったクライスラー・Eクラスの兄弟車として販売された。プリムスは1928年にクライスラー社によってスタートした販売ブランドであり、その後ブランド廃止の2001年まで膨大な車種をリリースしてきた。

 この車を読み解くには、クライスラー社が1970年代に経営難に陥り、再建を目指して開発した“Kカー”というキーワードが鍵である。読み解くというのは何も謎深いわけではなく、歴史埋もれたというか、言い方を変えれば、誰も覚えていない不人気車のその最たるものという意味で、詳細がマイナーな内容であるということだ。

 Kカーとはクライスラー社のFFプラットフォームである。80年代は特に欧州や日本のコンパクトカーが市場を席巻しており、米国自動車ビッグ3もダウンサイジング化を図るに伴って開発された。クライスラーは1981年に登場したコンパクトカー『ダッジ・エアリーズ/プリムス・リライアント』皮切りにあらゆる車種の後継モデルに採用し、このFFプラットフォームを、それまでの5リッター越え・全長5メートル越えのフラッグシップセダンにまで採用し、エンジンも直4にダウンサイジングするなどし、これにより経営危機回避には貢献したものの、膨大な数となったKカーの中には鳴かず飛ばずの車種も多く、この年代のアメリカ車は軒並み低評価である。

 その中でも、最も埋もれた存在のカラベル。全長4.1mで直列4気筒2.2リッター。エントリークラスセダンとはいえ、アメリカらしからぬ迫力の無さで、そもそも売れなかったクライスラー・Eクラスと車は同じであるわけで、プリムスブランドにしたところで売るはずもなく、「Caravelle」という名は15世紀にポルトガル人が使用していた帆船「Caravel」にちなんでいるがスペル間違いをしており、揶揄される対象となってしまっている。

 

No.44

1982 シボレー・カマロスポーツクーペ

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第3世代のカマロにはスポーツクーペ、ベルリネッタ、Z28という3のグレードが導入されており、この第3世代のカマロと言ってまず想像するのはZ28だろう。Z28には5リッターV8エンジンが標準装備されており、カマロの名に恥じないエンジン、そしてスタイリングは高評価でカーオブザイヤーも獲得している。そんなZ28でさえパワー不足には批判があった。馬力は145psである。さらに重量は1.5トン弱と、当時アメリカ車を圧倒した 日本車や欧州車のコンパクトなスポーツクーペに比べ大きく重い。

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 対してベースグレードのスポーツクーペはエコノミークラスユーザー向けに提案されたグレードで、パフォーマンスよりもスタイルが優れた安価な2+2を探しているユーザーにアピールするために作られている。そのためポンティアックモーター部門によって開発された2.5リッター4気筒エンジンを搭載し馬力は90ps程度しか無い。ちなみに、ほぼ同世代の1981年登場した3代目セリカは重量1030kgに対し直列4気筒で170psである。日本車がいかにコンパクトで優れた運動性能を発揮していたか、比べると一目瞭然である。

No.43

2003 シボレー・SSR

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シボレーはこのSSRを「世界初のコンバーチブルピックアップトラック」と呼び、レトロなスタイリングは1947-53年の戦後間もないピックアップトラックのアドバンスデザインに倣っている。Super Sport Roadstarというだけあってエンジンはスモールブロック5.3リッターV8 スモールブロックLSエンジンを搭載し、300馬力を発生させ、2005年にはエンジンをLS2エンジンえと変更し390馬力までパフォーマンス向上している。ちなみにこのLS2エンジンはC6コルベットなどと同じエンジンである。

 なぜワースト入りしているかというといくつかの要因がある。そもそもモーターショーで公開された初期プロトタイプは6.0リッターV8エンジンを搭載しており、生産の段階ではダウングレードになっていたことが最初のつまずきである。

 さらに0-60マイル(97km)で7.7秒というパフォーマンスは、トラックとしては悪い数字ではないが、積載量は560kgとピックアップトラックとしては使いようがなかった。1995年のハイエースでも1250kgである。加えて、見た目と空気力学のために配置されているトノカバーは重く、実用性は著しく低下している。つまり、スポーツとトラックの融合を試みたものの、どちらも中途半端になり誰得状態となった車なのである。

 その後の生産最終年の2006年には、当初コンセプトだった6.0リッターのLS2エンジンに変更し60マイルには5.5秒で到達するパフォーマンスに向上している。しかし、販売の減少は止まらず、生産中止となった。ちょっとした荷物を移動したり、外気を楽しんだり、力強い走りを楽しむには適していたが、実際のピックアップトラックのような使いやすさを求めるならばお門違いなSSR。とはいえファッション的なピックアップトラックは、ファッション的なアウトドアブームに程よくマッチするような可能性も匂わせている。SSR ver.2 としてEVと掛け合わせた500psのスポーツオープンピックアップ、もしかしたらヒットするのでは?いや、これもまた誰得だ。

 

No.42

1974 フォード・グラントリノ・エリート

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70年代半ばは、シボレー・モンテカルロポンティアック・グランプリ、ビュイックなど中級のラグジュアリークラスに人気が高まっていた。このセグメントで競合するため、1976年に販売開始されたフォード・グラントリノ・エリート。

 当時オイルショック直後で新車開発の予算は大幅に削減されており、ゼロから開発する代わりにとった方法は1974年のマーキュリー・クーガーのバッチを付け直しただけだった。

 フォードにはいくつかのブランドがあるが、高級車部門としてリンカーンがあり、フォードは大衆車である。この価格差を埋めるため中価格ブランドととしてマーキュリーは存在しており、その中でも最も有名なラグジュアリーカーのクーガーをそのままセルフコピーしたのである。

 クーガーは第2世代までマスタングとプラットフォームを共有し、パフォーマンスカーとして評価されていた。1974年に第3世代なると、クーガーをパフォーマンスカーセグメントから外し、パーソナルラグジュアリー市場に移す。当時は排ガスと安全基準が厳しくなったため、パフォーマンスに振り切ることができなくなっていた。とはいえ、依然と同じようなパフォーマンスが機能しなくても、より贅沢なものを持っているという付加価値を与えることで車を売る。そうして盛り上がったパーソナルラグジュアリークラスというセグメント車は室内装飾やオペラウィンドウ、ベンチシートなどが追加されパーティーでラグジュアリーな1台となる。しかしフォード・グラントリノ・エリートは、フォードという販売チャンネルのため安価する必要があった。削られたのはその豪華さである。クーガーに見劣りする豪華さと、パフォーマンスの悪さ...。下の写真は1974年のマーキュリー・クーガーである。この時代しか無い豪華さは、今見れたら相当な迫力だと思う。エリートはどうだろう?

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No.41

1981 Maserati Biturbo

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 1976年にマセラティを買収したデ・トマソが送り出した1981 ビトゥルボは市販車で初となるV型6気筒ツインターボを搭載し、内装も高級である。しかしながら、ダウンマーケットのファーストステップとして販売したこのビトゥルボはBMW 3シリーズのように小さく、それまでのスーパーカー専業マセラティのイメージとは乖離していた。

 低価格で人気のあるものにするために、品質と構造の妥協が行われたことは言うまでもない。V型6気筒とはいえアメリカで販売された時には排出制限のおかげで196馬力という物足りなさ。さらに「漏れる、燃える、折れる」の三拍子揃った粗悪な作りに、内装のレザーまで3年程度でひび割れしてくる。またこの時代のイタリア車特有の、保護処理がされていないメッキパーツはすぐに錆を起こし、腐食まで起こす。

 今だから乗りたいヴィンテージイタリア車なんて特集にもたまに登場するが、そもそも世界一壊れる車としての称号をほしいままにしたビトゥルボに、まともな中古車個体など存在しないのである。とはいえ、嫌われた車というよりは、むしろ関心高い車であることも事実である。80年代のイタリア車、マセラティからデ・トマソが送り出したスポーツ・クーペ。車好きの夢と記憶が詰まった一台である。

 

No.40

1976 シボレー・シェベット

 

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 オイルショックの中、シボレー・ベガで開拓された小型車市場をさらに細分化する、より経済的なモデルとして生まれたシェベット。都市部の住人や初めての車の購入者にとって理想的なこのモデルは1.4リッターSOHCエンジンを搭載していた。

 当時GMの企業平均燃費は業界最悪で、大型車の販売はすぐに枯渇し市場シェアは42%に低下、戦後最悪だった時代。このシェべットはその危機を救い、その後10年生産されることとなったが、ワーストカー入りの要因はなんだったのか。

 シェベットに採用されたのはTプラットフォームと言う、後輪駆動サブコンパクトカーの車両フレームである。これは日本のいすゞとドイツのGMオペルの技術支援を受け開発されたものだったが、シェベットが生産されることには10年前のプラットフォーム。つまり低価格化のために有り合わせの安い素材で生産された消耗品というイメージとなってしまった。当時はより車内効率が良い前輪駆動のプラットフォームが求められており、時代遅れのフレームに後輪駆動、さらにシェベットは重くパワーがなかったので、とても洗練されたモデルとはいえずワーストカー入りとなる。

 石油危機と排ガス規制は多く70年代のアメリカ車を苦しめたことがよくわかる。

No.39

1980 シボレー・サイテーション

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 1980年、ホンダ・アコードVW・ラビットなどの前輪駆動のコンパクトカーセグメントに競合するため、シボレー初の前輪駆動(Xプラットフォーム)となるサイテーションを販売開始する。室内スペースは確保でき概ね好評だったこの車も、欠陥により最大規模のリコールを起こす。なんとリコール内容は“ボンネット下の火災”。これに関連するトランスミッションホースを修理するために対象となったのは22万5千台。また米国運輸省道路交通安全局によればXプラットフォームはパワーステアリングの問題により激しいブレーキをかけると車両が制御を失う傾向があるとも指摘した。