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『不器用で』書評(解説・考察・レビュー)

『不器用で』 ニシダ著

テレビをほぼ見ないから、ラランドがどれくらいテレビ業界で売れているのかイマイチ把握してないが、サウナ室のテレビでラヴィットに出ているのは見たことがある。そこでニシダという男が面白かったか平凡だったかなど全く記憶に無く印象にも残っていないが、それよりもツキの兎というラジオ、これが面白くて必ず聞いている。ラランド2人がほぼフリートークを繰り広げるだけのラジオ。サーヤのほうが『東大医学部は頭悪い...!!」をネタにしていて、シビれた。

その程度でしか知らないラランドのニシダが小説を書いたと知って、無性に読んでみたくなった。どうやら好評らしい、ということだけ知って、実は短編集ということも知らずにamazonで注文し、翌日届いた段ボールと封筒の中間みたいな質感のパッケージを破り、手に取ったのは昨日の話。誤って本の表紙まで破ってしまってもいいくらいに、雑に開封した。『不器用で』というタイトルを見て、ああそうですか不器用そうだもんなと軽くニシダの引きつった笑顔を想像しながら、頭の中で上から目線な揶揄を飛ばしたが、今となっては謝罪したい。『モード後の世界/栗野宏文』みたいに大層なタイトルつけて、エッセイだかエピソードトークの寄せ集めみたいな、本棚に置くことが恥ずかしくなるような本はいくらでもあるから、思い込みで揶揄してハードルを下げたい癖がついてるのかもしれない。お金を払っているのだから、失敗じゃないかなと恐る恐るパラパラっとめくって中身を覗き見した。なんだか結構文学的な雰囲気だから早速読み始めた。実は読む前に便意を催していて、それでも読み始めるとトイレに行くのを制してまで、読み続けてしまった。

純文学は、言語化できていない感情や感覚をストーリーを通して表現してくれる。『不器用で』というタイトルをどんな意図で設定したかはわからないが、確かに主人公全員が不器用には思える。しかし、彼らは根本的な素質が不器用というよりは、人生において誰しもに降りかかる、不器用な瞬間を切り取っているようだ。そしてその不器用な瞬間に、バタフライエフェクトみたいに世界線が変わったことを予感させる、余韻と含みがある。「テトロドトキシン」なんかは特に象徴的だったように思う。“消極的自死”みたいなパンチラインインパクトを与えるのだけど、あんなふうに不意に、不意な人と不意な会話をする、それが結構な外的刺激でずっと頭にこびりついていることが恐らく誰しもにある。だから、読み終えてみれば、あのパンチラインよりも最後の二人の生産性の無い会話のほうが感覚に残っている。そんなものが生き方や考え方を直接的に変えるかは別として、ほんの小さな出来事が実は結構その後を変えていた、それは自分で認識できていなくても、案外それこそ人生の妙なのかもしれない。「テトロドトキシン」が最後の会話で急激な変化の自覚を促したのに対し、「焼け石」は自覚しない過程の末に起こる変化、そしてそれこそが不器用。滝くんがタバコの煙を、滝くんがサウナマットを一度にたくさん...その一つ一つの小さな出来事を噛み砕こうとする、まだまだ大学生らしい美沙という女性。オンラインミーティングでair podsをつけたまま——みたいな描写は麻布競馬場っぽさもあったが、まだまだ感情的で少し社会生活という意味で未熟な滝くんとの対比は、しっくりくる。不自覚に惹かれていく様と、意識しまくっている滝くんとの行く末は『ちょっと思い出しただけ』みたいな恋愛になりそうな雰囲気まで感じてしまうのは、大人になりつつある二人を結構リアルに、でも説明しすぎずに表現できているからだろう。「濡れ鼠」で強調されるのは主人公のまとまっている社会人感である。一方で、自宅を基本にパートナーとのまとまっていない生活感の対比、この歪さはなんなのか。表面上の問題はいくらでも挙げられるが、根本はそこではない。秀一は“歳の差についての風当たりはまだ強い”と言っているが、もっとも秀一こそが歳の差について固定概念を持っている。年上としてこうするべきだ、こう言ってはならないと何度も言い訳にする。最後の二人の会話この隔たりを気持ちよく解消する。「LINEのアイコン誰と行ったの」「浮気してるの」「だって、好きだから」と、まるで年甲斐も無く感情のままに吐露する。“歳の差”という事象を借りて語られているが、なんとなくまとわりつく人と人との隔たりみたいなものは、誰の人生にも往々にしてある。そういったものは案外、自分が持つ表面上の意識の根本を探ると、実は自分のトラウマや固定概念に起因している、そんなふうに思えた。

ところで、読み終えた後にひとつ考えこんだ。本著全体を通して、ニシダという人物がどんな女性観を持っているか、そんなものがボヤボヤと見えてくるような感覚だ。しかし、こうして文章を書いてみてもそれが何かまとめることができない。でもニシダ氏が持つトラウマや体験が反映されていることは間違いない。芸術家は敏感に反応し、人が感じないことを感じて、ごく普通のことが苦痛だと感じる。芸術たる所以は弱さの表現では無いかと考えこんでいると、急な便意が襲ってきた。そういえば昨日の夜から出していない。