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モノとポップカルチャー、それっぽく言ったりたまに爆ディス

崎山蒼志/五月雨《誰かが言葉にできずにいること》レビュー・考察・

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芸術家は弱い。敏感に反応し、人が感じないことを感じ、ごく普通のことが苦痛だと感じたり、傷つきやすい。これらが慢性的だ。そうした弱さは理性の及ばぬ領域にある。これは本能的で、言語という知的能力を失い、なんとも言い難く言葉にできずにもがく。

芸術家はこれを精神表現、芸術とする。芸術表現の術を持たぬ人、あるいは芸として精神表現するに至らない、いわるゆ普通の人が偶発的に<自らの弱さの居所を探す>とき、それを正確に表現する芸術に出会えると、人は救われる。人は第一に極めて個人的なことを芸術に期待している。芸術家たる所以は、弱さの表現であり、それがどれだけ普遍的で個人的かに尽きる。

 

崎山蒼志が、16歳でどれだけ人生経験を積んでいるかは重要では無い。彼の身の回りの出来事、社会、自分の心に、敏感であるか?ということだ。彼の人生の中で起きた小さな出来事は個人的なことだが、自らの心が卒倒するような弱さの根源を、彼は普遍的かつ的確に表現する。

『五月雨』の歌詞の「あなた」は、崎山蒼志にとっての「あなた」ではない。彼が詩う、「意味のない<僕ら>」、にとっての「あなた」である。

年齢も経験も歌唱力も見た目も、なにもかも吹き飛ばして多くの人の心を掴む彼の音楽は、「僕ら」が言葉にできずにいる心の情況そのものであり、崎山蒼志は歌手でもシンガーソングライターでもなく、芸術家なのである。

 

洗濯機で枕を簡単に洗えると思った誰かへ贈るポエム。

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あの日は過去最高気温の記録を各地で塗り替えるほど猛烈な酷暑だった。2018年8月。その夏の良かったところと言えば、洗濯物がパリッパリに乾くことくらいだ。敷布団や、7月に買ったばかりの枕は天日干しを頻繁にして、直射日光最大出力の寝具ライフを送っていた。

9月上旬、ようやく残暑の影も潜め、雨の日が続いている。そろそろクーラーも付けず眠りにつける夜が来た。窓から微かに入り込む、穏やかな風を感じならが眠りについた。どうやら夜中から雨が降ったようで、開けっ放しにした窓から室内に響く、トラックが雨を踏む音で目が覚めた。少し秋の匂いがした。ここ一週間は雨が続いていて枕の天日干しもできていない。過ごしやすくなったとはいえ、ジメジメとした空気は相変わらずだ。ふと、枕は洗濯機で洗えるのだろうか、と考えた。目覚めたばかり、半ば寝ぼけた状態で枕の洗濯表示マークを見てみる。マークの意味をネットで調べると、どうやら洗えるみたいだ。

 

“なんだ、洗えるんだ”

 

この時を振り返り今はこう思う。

寝起きと同時に枕を洗濯機に放り投げスタートボタンを押す。はたせるかな、一抹の不安はおおよそ10分後に姿を見せる。あの時、まずは顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを食べ、考え疑うべきだったんだ。枕は洗濯機で本当に洗えるのか、とーー

 

<すすぎ>の段階で、異変に気がついた。それは洗濯機から出る音として聞いたことのない音。去年の夏の終わりに、親友と行く当ての無いドライブをした。数時間走り続けた末にたどり着いた、飲み込まれそうで真っ黒な波が打つ九十九里浜。あの時僕ら二人は、波が黒すぎることに驚いていて、荒れた波を眺め“飲み込まれそうだ”と呟いた。肌に纏わりつくベタベタとした潮風に背中を押されるようにして、10分足らずで立ち去った。洗濯機から鳴る異音は、あの荒波を思い出させた。木箱に小豆を入れて動かしたら、波の音がする。それは簡単なギミックだが、フォーリー・アーティストという存在の認知として一役買った。まるで関係性の無い物同士が、アイディア次第で同じような音を鳴らす。耳の職人、卓越した類推能力が成せる技だ。それが、我が家の洗濯機の中で起きているという事実だ。洗濯機の蓋を開ければ、枕の袋は破れ、透明なビーズが雪化粧のように洗濯槽に溢れていた。自分の愚かさに憤慨する余裕もない、針の筵のような気分だ。

 

もうだめだと思ったね、取り除けても、どこか内部のほうへ入ってしまっている分は、どうしようもない。詰まってオシャカさ、不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまったんだよ、と言い聞かせる他なかったよ。自分の行いを恨んでも、保障するのは自分さ、運のせいにしてごまかしたんだーー

 

「洗濯機 枕」と検索ボックスに打ち込むと、まず予備候補に出てくるのは「破裂」「故障」。検索ワードの候補は、検索件数が多いほど上位表示されるはずだし、即ち「方法」「やり方」は調べずに失敗しているようだ。同じ愚か者が世の中に多く存在する。「やってしまった」と気づいた頃に、多くは最後の砦の番人、ベストアンサーに縋り付くようだ。論ずる余地もなく、自分も同じ括りである。

Webに覚え書きされた愚か者たちの経験談は実に虚しい。結論から言えば、買い換える以外に無い。至極当然、ネットに溢れた同じ愚か者たちの覚え書きは、なんとも力の無いものばかりだ。

天に召された洗濯機は、4年前に購入した。洗濯機の寿命は平均8年と言われている。2018現在、人間の平均寿命は約80歳であることから、言い換えれば40歳程度で亡くなった、ということになる。働き盛りで、若すぎる死。

業者に頼んで、洗濯機ごと分解し修理することもできるようだが、3万円程度かかるらしい。そもそも3万円程度の洗濯機だ。治ったとしてもここから8年も生きるのか怪しいところ。多額な延命処置を業者にお願いすることは、できなかった。理屈だけで洗いきれない選択は、新しい洗濯機が居座る輝かしい光景にすすがれ、心の排水溝へと脱水されていく。それから2時間後。私は今、家電量販店にいる。洗濯機売り場の近くにある丸いテーブルで、担当のお姉さんと話している。配送の日程や、配送料、運び入れるマンションの動線などの確認だ。

 

「古い洗濯機はどうされますか?」

 

その刹那、息絶えた洗濯機の姿が頭に浮かび、あいつが4年前、新しい洗濯機として運び込まれた日のことを思い出した。あの時は極小のワンルームに住んでいた。上京して夢を追っていた自分にとって、東京の街を、部屋の延長にするかのように楽しんでいた。ある日、洗濯機の下に潜り込んだタオルがモーターに絡まり白煙が上がった。急いで電源を切ったが、もう動くことはなかった。そうして、おそらく東京で一番安い洗濯機があの部屋にやってきたのが4年前。ちょうど、数年間苦しむことになる大きな出来事があった時期だった。この4年間は自分にとってどんな時間だったろう。そんなことも考えてしまった。

一ヶ月ほど前に、自分の人生で大きな選択をしたところだ。それは夢を追うことを諦め、自分の人生に折り合いをつける、ということ。何故だろう、人生に何かあると洗濯機が壊れる。変なジンクスを持ちたくない。次の洗濯機はいつ壊れるだろう。その時、自分はどんな選択を迫られているのだろう。

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※2023 5月 追記

あれから5年...

2018年の出来事をブログに記してから、5年の月日が経った。あの時やってきた新しい洗濯機も6年目を迎えた。いまだ壊れる様子は無く、元気に仕事している。人生に、さほど大きな出来事もない。でも、不安や決断は音もなく突然降りかかることを知っている。大抵、準備も用意もできていない時に降りかかるから、人は悩む。雨に打たれる洗濯物と何ら変わりはない。

 

 

『この世界の片隅に』が纏う生身の感覚。考察・レビュー

劇場公開を見逃した。というより、見送った。

あろうことか日本の長編アニメに無知なあまり、映画ファンとしてご法度の<先入観で価値を決めつける思考不足>で、いつかのソフト化で観ればよいと見送ってしまったのだ。

この世界の片隅に』が劇場公開された頃、ちょうど『君の名は』ブームに重なっていた。少し調べていればどれだけ劇場で見るべきだったかわかるはずだったが、『ジャック・リーチャー』や『ジェイソン・ボーン』『10 クローバーフィールド・レーン』で頭がいっぱいだったその頃、口の中がアメリカ映画になっており、『君の名は』(内容に批判的ではないが手放しで称賛もできない)のような、<みんなが良いと言えば良いもの>という批判できぬ風潮、全国的な同調圧力だろう、という先入観で<今年の日本の長編アニメ>として一緒くたにし、『世界の片隅に』を見送るという非常に無知極まりない愚行に陥った。というか近年は少し批判したら世界を敵に回してしまうようなダメと言えぬ同調圧力が凄まじい流行り方の映画が目立つ。

 

そして2018年某日。公開から約2年。Netflixに新作映画がたくさん追加されていたこの時、『この世界の片隅に』も追加されたことを知る。ただ、それでも同時に追加されたジョセフ・ゴードン=レヴィットの『スノーデン』を先に見たのだが。それに加えAmazonの『高い城の男』見たり『中間管理職 トネガワ』を読んだりと、一通りリストを消化下あたり、箸休めにさて次は何を楽しもうかと悩んだ時“5分だけ見て決めるか”という、あれほどの名作に対して失礼極まりない...正に愚の骨頂な態度で『この世界の片隅に』を再生した。

 

たった5分で引き込まれたのは言うまでもない。戦時中は知らない。戦後間もない国の雰囲気も知らない。高度経済成長期も教科書の中の話、バブル期の実感も無い。そんな90年生まれが心苦しくなるほど“あの時”感を抱く。ノスタルジーでもヒストリーでもない、あの時。

 

東日本大震災は21歳の頃で、東京とは言え、確かに経験者だ。だから“あの時”を語れる。YouTubeに溢れる映像や、毎年ニュースで繰り返される“震災の記憶”とは少し違う。

あの時の感じ。例えば何度も何度も繰り返されるCMの心地悪さ、普通を装いながら、どこかぎこちないやり取り。電車で向かいに座っている人も、なんだか他人じゃないような感覚、日本全体が暗いムードで、言葉を選びながら過ごしていた、震災時の空気感。

こういったあの時感はどう語っても、その時を生きていなければ肌に感じることは難しい。

 

難しいはずなのに、『この世界の片隅に』は戦時中の空気感を、肌に感じるように表現していく。

人前で泣くことが反戦になるから、隠れて泣くのか。戦争が正義だと信じていたのか。憲兵隊のやりとりは何だかスズと同じように騙されて、蟻の列が砂糖まで繋がっているような気がして、もう爆弾は落ちないから魚も浮かないと冗談めかし、防空壕の中でキスをする瞬間もあって、戦死をおめでとうございますと言って...。

文にするだけなら、今を生きる若者として想像できない感覚なのに、感傷的に誇張されることなく、ごく自然な日常として描かれていく。あの時こうだったと、その時生まれていない自分も語れるような気がするほど、異常と日常の感覚を狂わせる。

 

アニメだとしても、劇中の出来事はどうしたって僕らの生きる現実と地続きの世界である。故に、戦争で何が起きたか知っている僕らは、彼女たちの身に起きる未来を待つ事しか出来ず、居た堪れない気持ちで見守るしかない。

『向こうは空爆が少ないから、広島へ帰んしゃい』

出来る事なら画面の中に飛び込んで叫びたい。行っちゃダメだと。

 

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スズはどんどん大切なものを失っていった。絵を描くことも、スズの子供的な一面を支えるあの子も。スズほど明るく生きる才能に溢れた人を、あんな風に感情的に独白させてしまう戦争は...確かに残酷だ。残酷なのはわかっている。誰もが小学校から勉強してきた。大人になっても戦争の悲惨さを伝える番組や映画も幾度となく見てきた。そうじゃない。戦争が残酷だとか、必死に暮らしてた人がいるとか、そういうありふれた形式(一般的で画一化)は、もはや現在では若者にとって他人事だ。伝言ゲームの激化し、あらゆるコンテンツが個人の時間を奪い合う現代に、2時間の時間を費やし身を乗り出して感じようとする姿勢を作り出すには高いハードルがあるが、戦時中の空気感を生身で体感したかのよう感覚が、上映たった5分で脳内に染み渡る。

 

完璧すぎる快作ローガン・ラッキー 考察・批評

オーシャンズシリーズ(11,12,13)のスティーブン・ソダーバーグ監督最新作、「ローガン・ラッキー」。ソダーバーグの絶対に外さない構成力、編集力ーー編集を兼任する場合が多いーーで毎作一定水準を超えてくれる安心感もありながら、オーシャンズシリーズ以来のケイパー映画(チーム強奪)となる今作は、オーシャンズファンならば2018年公開「オーシャンズ8」よりも注目すべき作品といっても過言ではない。

 

オーシャンズシリーズよろしく、巧みに計算された綿密な強奪計画に加え、随所にギャグを挟みながら、テンポ良く展開させる。その重要なファクターとなるのがキャラクター造形だ。

 

絵に描いたようなブルーカラー感溢れる設定のジミー・ローガン(兄)と、精神不安定で義手のクライド・ローガン(弟のバーテンダー。以下クライド)は、そんな観客の第一印象に強烈なアッパーをかますかのように、マックス・チルブレイン率NASCARチーム3人を一掃する。ジミーの強靭な戦闘力もさることながら、まるで日課であるかのような手際の良さで火炎瓶作製から投下まで流れるようにこなすジミーにも心を掴まれる。

気になるのが、彼らが語る“ローガン家の呪い”だ。これだけ連呼するならば、その“呪い”がどこかのプロット上ーーあるいはストーリー展開上ーーで何らか影響を及ぼすに違いない。

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ダニエル・クレイグ演じる爆弾のプロ、ジョー・バングも最高のキャラクターだ。いかにも悪そうな見た目から、壁だろうがビルだろうがド派手に吹っ飛ばしてくれると思いきや化学反応を利用した爆薬で、さらには方程式を壁に書き連ね、全く似合わない偏差値で笑わせてくれる。そのくせ仲間へ渡す爆薬の説明書は“1を2に混ぜる、2を3に混ぜる、3を4に混ぜる、逃げろ”という見た目通りの大雑把さだ。緩急が効いていて素晴らしい。

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強盗・強奪映画は山ほどあれど、リアルでコミカルで効率よくテンポよく、そして地味に斬新なローガン・ラッキーの強奪作戦は見事に秀逸だった。POSシステムをダウンさせるのは初めて観た気がするが、標的となるレース上の収益を現金化するだけでなく、さらには販売情報管理が曖昧になったことから、強奪金を返却して自体を収束させるーー実際はピンハネしているため強奪成功、POSの件により損害金が不明確、さらにはサーキット経営者は盗難保険の悪用で一儲けーーことにまで繋がると一頻りの満足感がある。吸引機でお金を吸い上げる絵面もチープなギミックなのにバサバサと吐き出される絵面がこちらのストレスまで解消してくれるような感覚だ。

ラストでは、時期を見てお金を掘り起こし、ジミーのバーに集まり楽しく飲んでいるが、ジミーがお酒を注いだ一見さんはFBI特別捜査官のサラだった。最後に悲惨な目に合うローガン家の呪いは健在というオチでスッキリ着地。

 

 

 

 

さて、ここまでは割とライトな感想としつつ、映画職人ソダーバーグのもう一段階深いメタ的なところまで掘り下げたいと思う。

まずは刑務所についてだが、中で起きている事件・事故などをとにかく隠蔽しようとする所長の姿がしつこく描かれる。権力者、社会上層部が、既得権益やその地位を守ろうとするばかりに起きる事なかれ主義体質への社会風刺だ。

サーキット経営者が、犯人への処罰よりも保険金で儲かるならと告訴を取り下げるのも、然るべき処置と損得を天秤にかけてしまう点もそうだ。盗んだ側も捜査の手が及ばず、盗まれた側も得ならwin-winで良いのかもしれないが、こういったパターンは、類推するとフォードピント事件や三菱リコール隠しと、根源的な思考回路は変わりない。

所長も経営者も最終的には強盗を手助けする形となり、現代社会を皮肉る結果となっている。

 

劇中のテーマ曲、カントリーロードが物語るウェストバージニア州を舞台とした今作は、アメリカの激化する格差社会について考察されている。アメリカ企業では従業員とCEOの給料が一時500倍にも格差が広がったように、一部の金持ちとその他大勢の貧困層という構図は社会問題だ。中流階級でさえ、一度職を失えば一気に貧困層へと落ちてしまう。クライドはラグビー選手から怪我で引退、ジミーはイラクで腕を吹っ飛ばされバーテンに。田舎町で、NASCARサーキット上の下で作業したり、二人と対照的な人物として、キャラクターとしてセレブな元妻の夫や、所長などが配置されていたりと、これでもかと丁寧に格差社会を舞台にしている。

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弱いものが強いものに立ち向かうーーあるいは強かったが弱くなったところからの大逆転劇ーーのは映画の中ではそれが面白いのだから当然と言えば当然だか、なるべく登場人物を取り巻く状況に現実と重ね合わせることができるとよりロマンがある。落ちぶれた奴らの大強盗計画ほど面白いものはない。結局ローガン家の呪いでダメでした、とはならずあくまでもハッピーエンドとして終わるが、その呪いのオチどころも想像させるから上手い。映画のその後を想像すれば、所長も悪質な運営の仕方は公になり処罰を食らうだろうし、そこまで悪者じゃなかったが元妻の再婚相手も最新のマスタングをボロボロにされるというほどほどに抑えた仕打ちも

いい塩梅。

NASCARチームのオーナーのマックスも、落ちこぼすことなくオチをつけていて完成された脚本と編集だった。

 

綺麗に全てをまとめあげて、終わるべき所でサクッと終わる。完璧な映画じゃないか!

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この映画なんでダメなのか。映画『すべての終わり』レビュー・批評

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ネタバレでございます。

 

 

 

Netflixオリジナルフィルムとして7月13日に公開された『すべての終わり』。『ダイバージェント』のテオ・ジェームズやフォレスト・ウィテカーが出演、製作・製作総指揮には『デッドプール2』や『アトミック・ブロンド』のケリー・マコーミック、『アトミック・ブロンド』のニック・メイヤー、『その女諜報員 アレックス』のタイ・ダンカン、ポール・シフなど、編集には『IT イット』や『華麗なるギャツビー』からジェイソン・バランタインが参加している。

 

と、面々を見ると中々な良作が生まれそうであるが、実際に見てみると最悪の一言だ。

というかこの映画、企画は2011年に立ち上がっており随分と長い期間を経て公開に至っている。実はこの映画の脚本は2010年に“ブラックリスト”入りしていた脚本だったのだ。非常に優れた脚本なのに、中々映画化されなかったり企画が頓挫したりと眠ったままの脚本はハリウッドでブラックリストと呼ばれ、映画化が非常に難しい作品が多い。このブラックリストから映画化まで漕ぎ着けた作品は多く賞を受賞しており、ブラックリストに挑む製作陣という視点も見所の一つである。『スラムドッグ$ミリオネア』『ソーシャル・ネットワーク』『セッション』『レヴェナント:蘇りし者』『スポット・ライト 世紀のスクープ』などもブラックリストからの映画化で、特に映画不可能と言われた大傑作『プリズナーズ』もブラックリスト入りしていた脚本だ。

『すべての終わり』がこんなにも長い期間を経て世に出たのも頷けるが、この長い期間というのは非常に危険である。

マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケネス・ロナーガンは前作の『マーガレット』で、2005年に撮影終了したにも関わらず、製作陣側と折り合いがつかずに6年間も編集を重ね最終的には何が正解かわからなくなり意味のわからない作品と酷評されたのは有名なエピソードだ。彼はその時の自分を“間違っていた”と猛省したらしく、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』という傑作を生むのだが『すべの終わり』にも同じような匂いを感じざるを得ない。

脚本のリライトなのか、度重なる編集か。意味の無いシーン、無駄になったプロット、中途半端な登場人物のオンパレードだ。

 

映画の基本的セオリー“三幕構成”の二幕入る箇所は、おおむね全体の1/3程度で上映から30〜40分くらいの場合が多い。一幕で主人公の紹介や設定、時代背景、状況説明などを終えた後に非日常に突入する所からが第二幕である。この第二幕の入ったくらいで初めて登場する人物は物語上、重要なキーマンとなるのだが、本作の場合は女の子のリッキーだ。

リッキーはこの腐敗した街から逃げ出したい、対してウィルとトムは車の整備が出来る人材を必要としている。利害が一致し長い旅路を共にするのだから当然ここにドラマが求められるはずだが、リッキーは突然発狂し姿を消すと、なんとそれ以降登場しない。いったい彼女は何のためについてきたのか。

まず“世界終末化した状況からの脱出・解明”がメインプロットになるわけだが、サブプロットとしてウィルとトムの関係性のドラマがある。

例えばリッキーの存在が二人の関係を好転させるきっかけとなったり、二人がそれぞれに抱いていることの聞き出し役としても機能するであろう。それでなくても、ウィルとトムとの関わりによって成長したリッキーが終盤に登場して二人の手助けとなれば、少しは腑に落ちる。あんな風に全く使い物にならないし可愛くも無い女の子が、そのまま消えるだけなんてどうかしてる。

 

目玉の配役、フォレスト・ウィテカーだが、早すぎる。何が早いか。トムというキャラクターから、ただのフォレスト・ウィテカーになるまでだ。冒頭、トムが見せた娘彼氏ウィルへの厳しい態度はどこへ行ったのかと思うほど、普通にあれはフォレスト・ウィテカーだ。中の人が画面にいるだけだ。ウィルも早々に『いくぞ相棒!』みたいなテンションだから、サブプロットのドラマが崩壊。

おまけに、リッキーの失踪、トムの死、数々の困難を乗り越えてきたのにウィルの成熟度は変化しない。

なにより『クローバーフィールド』のように断片的に聞こえるラジオ放送などで混乱した状況で覆い被せ、真実にナビゲートしようとしているに何故かウィルはこれに関わろうとしないのだ。

例えばゾンビ映画は、ゾンビ化した“根本的な理由”に意味がない。終末化した世界の中での人間ドラマをメタファーとして描くからだ。だから根本的な解決は必要ない。

ただこの映画は終末化したところでコミュニティを作るのではなく、クロスカントリーロードムービーとなっている。つまりどこへたどり着くか。すなわち、たどり着いた先にどんな答えがあるか、が重要になるのだ。

ウィルは断片的な情報、目の前にある状況から世界に何が起きているか追い求めるべきなのに、どうして傍観ばかりしているのだと、嘆かずにはいられない。

ウィルの職業弁護士に意味も無く、その弁護士の唐突なドライビングテクニックや、元海兵隊とはいえ肋骨が折れ肺に穴を開け、挙句ギャンギャン走り回る車からの超高難易度な射撃を成功させるトムにも頭があがらないが、困難を乗り越えてたどり着くポーラ(ウィルの婚約者)のもとで起きるラストも本当に意味不明だ。

ご近所さんと呼ぶ男の家でかくまってもらっていたみたいだが、この男の中途半端すぎるサイコキャラは何だったのか。

それよりも映画も残り15分程度といったところで、突然の新キャラだ。意味ありげにポーラへの好意を感じさせたり、ウィルへの敵対心を見せたり、陰謀説を唱えたり、ウィルの車を物色していたり。さらには“森に子供がいる”というウォーキングデッドのシーズン2を見ているかのような安い誘い出しで案の定、ご近所さんはウィル殺害を試みるが、ウェスタン弁護士仕込みの早撃ちに合いあっけなく死亡する。この人物が何者だったのか、ポーラと何かあったのかは明かされることなく、そそくさとウィルの敏感なアンテナが世界の異変を感じ取り、迷いもなくポーラを連れ出し脱出。凄まじい土ボコリが襲いかかってくるのがわかると映画終了。

 

 

そして、Netflixそっ閉じ。

 

ガソリンを探して先に進むゲーム感、クロスカントリー的なのにキャデラックというギャップ、ガスマスク着用でのマッドマックスなヒーロー感など、面白くなりそうなピースが散らばっているのに、なんとなくで消化していくのが惜しい。

とにかく、傑作になりうる要素があるのに、ことごとくハズしてくる。予告編と内容が全く変わらない、言うなれば長編予告編である。

監督自身も本当に納得のいく結果だったのか疑わしい。

なんにせよ、大概こういう結果の次に撮った映画は、頗る面白くなって賞レースに絡んだりするから次作を楽しみに待っている!

トイ・ストーリー 謎の恐竜ワールド 考察 レビュー

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トイ・ストーリー 謎の恐竜ワールド」(トイ・ストーリー なぞのきょうりゅうワールド、英語:Toy Story That Time Forgot)は 2014年、ディズニーピクサーが共同制作したアニメーションである。 アメリカで、2014年12月2日にABCテレビスペシャル番組として放映された。日本では、2016年3月2日にDVDとBlu-rayが発売された[1]

トイ・ストーリー3』に初登場したトリケラトプスのおもちゃ、トリクシーが主人公。

 

ボニーは友達のメイソンの家に遊びに来た。メイソンはテレビゲームに夢中で買ってもらったばかりのおもちゃ、"バトルサウルス"で一度も遊んでいない。子供に遊んでもらったことのない彼らは、おもちゃ上の設定を信じて生きており、それを率いるのはクレリックだ。

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クレリック(The Cleric)

 

クレリックだけは自分たちが"おもちゃである"ということを知っていて、おもちゃたちを支配下に置くため、真実を隠している。

この独裁的な世界を変えるのがリーダー格のレプティラス・マキシマスとボニーのおもちゃトリクシーの出会いだ。特典映像の制作秘話でこう語られている。

"戦うことが全てだと信じて生きてきてが、心のどこかで疑問を抱いていたんだ。そこにトリクシーが現れた。トリクシーとの出会いが彼を変える。"

 

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レプティラスとトリクシー

 

 

子供に遊ばれたことがない寂しさ、キャラクターの設定を信じたままということ、過去の長編でプロスペクターやバズの姿で描かれてきたので、バトルサウルスたちがトリクシーをはじめとしたボニーのおもちゃたちに、"子供と遊ぶ幸せ"を教えてもらう展開になることは安易に想像できる。となると「また同じことを」と感じる人も少なくはないと思うが、初登場の彼らがどのようなプロセスでそこにたどり着くか?ということが今作の見所である。

 

『おもちゃの境遇』は長編3作を通して様々なパターンが描かれてきたが、バトルサウルスたちが今までと違うことは、子供に遊ばれることを知らずに設定を信じたままのおもちゃたちが莫大な人数のコミュニティであるということだ。一作目のようにバズ一人と向き合うだけでも長い道のりだったが、テレビ番組の21分という枠の中で彼らを変化を収めるために、「自分が何者なのか」とすでに疑問を感じているレプティラスや、支配者のクレリックが唯一真実を知っていてそれを隠していること、などで素早く展開させる。

 

とはいえ、レプティラスが自分がおもちゃだと悟りショックを受けるのは、レプティラス・マキシマスのパッケージの箱を見たからだ。二番煎じとまでは言わないが、大量に陳列されたバズ・ライトイヤーを見てしまうバズと同じ経験だ。それでも、全く否定はしない。パッケージはおもちゃの真実を語る唯一のものであるし、誰しもそこに行き着くまで同じ経験をして成長している。自分はおもちゃで、自分よりもっと大きなものがこの世界にたくさんあること、そしておもちゃが自分自身を知り成長するには、この経験を省けない。

子供の頃は、自分が特別で世界の中心だと思っている。でも、大人になるまでに気づく。世界の、ほんのちっぽけな存在で、社会の歯車である。それは悪いことではなくて、生きる意味や幸せはその中に生まれる。おもちゃにとって、パッケージが意味することだ。

 

トリクシーはレプティラスに"世界はもっとずっと大きいのよ あなたが誰だか教えてあげる いろんなものになれるんだよ 何になるかは持ち主の子供がきめるの 大切なのはいつも子供のそばにいること"とおもちゃの幸せの形を説くと、レプティラスは肩の荷が降りたように持っていた武器を手から離す。

これは大人になるということのメタファーだ。

 

この次のシーンが全てだ。ゲームの電源を切ったことで、机の下のレプティラスにメイソンの手が伸びる。この瞬間、レプティラスは無機物に切り替わり、おもちゃの表情に戻る。倒れかかったレプティラスの背中を支えたメイソンの手。レプティラスは初めて持ち主の手に触れる。おもちゃとしての最高の瞬間を迎えた。

この無機物と有機物とのスイッチングが、トイストーリーでもっとも美しい瞬間。トイストーリーで初めてウッディが動いた時におもちゃに吹き込まれた命は、こうして20年以上生き続けていることが嬉しい。

 

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トリクシーがおもちゃは何にでもなれると話した時、レックスは"アンディは僕を怪獣としてしか遊んでなかったよ!"と話した。彼らがアンディとの思い出を語るのは凄まじい幸福感に包まれる。このショットの右上に、ボニーがアンディからおもちゃを譲り受けた時の写真が飾ってあるのが見えて、ウッディやバズはたまにこの写真を見ながら昔を懐かしんだりしているかな?と、描かれない彼らの生活を想像させる小ネタが配置されているのも嬉しい。

 

最後にエンジェルキティが話したことを。

 

"広い心で世界を受け入れなさい"

"出来ないと言う概念は、自らを縛る足枷です"

"人に与える喜びは自らの身に帰ってくるよ"

 

 

 

 

ワイルドスピードのレオンの行方。戻るのか?

レオンの行方が気になる。

シリーズ1作目から3作目までに登場した、まだ無名に近かった役者を4作目にしてまとめて再結集する、巧妙な"なんかめっちゃアベンジャーズ感"の奇跡的なV字回復を経て10作目まで製作が決定している『ワイルドスピード(The Fast and the Furious)』シリーズ

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左(ヴィンス/マット・シュルツ)中(ドミニク・トレッド/ヴィン・ディーゼル)右(レオン/ジョニーストロング)

 

キャラクターは増える一方で、あのデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)ですらファミリー化し始めているので、もうどうにでもなれ感もあるものの、今日もまた、1作目のワイルドスピード(2001年/ロブ・コーエン)を見るたびに思う。レオン(ジョニー・ストロング※以下ストロング)はどこに行ったのだろう。とにかく事あるごとに"ファミリー"を連呼するドムは初期のグループメンバー、レオンに少しでも想いを馳せたりはしないのだろうか?

 

ファンならば、未だにその後の言及が無いレオンが何をしているのか?想像している人も少なく無いだろう。

試しに検索してみると、4作目の『ワイルドスピードMAX(2009年/ジャスティン・リン)』に登場するカーチューナーがレオンだとする内容がヒットするが、これは間違いである。ストロングは『ブラックホークダウン(2001年/リドリー・スコット)』以降、『ルール 無法都市(2010年/ウィリアム・カウフマン)』まで映画に出演していない。その間俳優業を休止、アーティスト活動に専念し3枚のEPをリリースしている。

(※これがレオンだと記述されているのは日本語圏のみで、ソースが知恵袋以外に無い。)

 

1作目以降、行方がわからないレオンはどこへ行ったのか?そしてレオンはシリーズに復帰するのか?

 

ここから海外メディアのストロングのインタビューを参考に考察していきたい。

 

ジョニー・ストロング本人はカムバックを望んでいるのだろうか? 実は、望んでないのだ。ジョニー・ストロングはワイルドスピードへの復帰を質問された時、信念として、"ただフランチャイズに参加するのではなく、演技よりもっと深い創造的なプロセスの一部になること"と語っている。ワイルドスピードは大ヒットを重ね、今や大きなビジネス事業となっている。その中で、ストロングは創造的で有機的な配役が求められるのであれば、復帰する意味もあると考えているようだが、現段階ではシリーズに対して前向きな姿勢では無い。"私自身が、本当に何かを意味するときのみ、プロジェクトに参加する。それ以外は時間の無駄"と語り、非常にアーティスト気質な人物であるようだ。莫大な金の動き、一流俳優が名を連ね、ドル箱シリーズとなった今、彼がワイルドスピードシリーズに参加する意味が無いと考えるのはレオンというキャラクター造形にある。

 

レオンというキャラクターについて

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ワイルドスピード1の『レオン』役についてこう語っている。

"レオンを理解すれば、彼が現れたのと同じように、彼が姿を消して前進するのが何故か理解できるだろう"

ワイルドスピード(2001年/ロブ・コーエン)にて、ミアとブライアンが二人で食事するシーン。ミアは彼らの生い立ちについてこう話す。

『ヴィンスはドムの幼馴染で、レティは10歳の頃から車フリーク、それで、16歳の頃に兄貴が目をつけた。ジェシーとレオンはある日現れて居ついてしまったの』

つまりヴィンスとレティは地元の長い間柄にあるが、ジェシーとレオンは、いわゆる流れ者的な設定だ。二人はヴィンス、レティ、妹のミアと比べると関係性は浅い。ストロングはレオンというキャラクターについて、"単にヴィン・ディーゼルの「ギャング」としてのウェイトを増やすだけのものだった、どこからも出現しなかった漂流者"と話している。ワイルドスピードという映画の中で、ドムは中心人物で、人望があり、リーダーだ。ドムのキャラクター造形の一環に、居着いては消えていくマイナーキャラクターは必要不可欠であり、シリーズ中には何人もいる。レオンもその一人だった。

レオンが消えた理由は?

 ワイルドスピード(2001年/The Fast and the Furious)劇中のセリフやストーリーから考察していこう。

ドム、レティ、ヴィンス、レオン、ジェシーの5人が初期ファミリーだ。腕っ節が強く感情的なヴィンスと、メカオタクで気が弱いジェシー。そしてレオンは中でも賢く後ろから見守るタイプで、危機的な状況に敏感である。ジェシーが無茶な誘いに乗った時も「相手が悪い、やめておけ」と忠告するのはレオン。

ジェシーが消えた状態で深夜の強奪を決行する。強奪に使用するシビックの隠し場所で、この時レオンは「ミアの言った通りだ、悪い予感がする」とドムに忠告するが、ドムはこれを「やめろ」とシャットアウトする。ここでドムへの不信感は徐々に形になっていく。この後ヴィンスは強奪するはずだったトラックのドライバーによる反撃で、レティはクラッシュして重症を負う。悪い予感は的中し、ドムへの不信感は確実なものになった。

 

そしてジェシーが殺される。この直前、ブライアンは「レティとレオンはどこに行った?」と聞くとドムは「二人は消えた」と答える。

おとり捜査の発覚、重症を負った二人の仲間、ギャングからの攻撃。悪い状況が重なり、レオンはドミニクのコミュニティに見切りをつけた、と見れる。ブライアンを連れてきたのはドムだし、まだドムに忠誠を尽くすなら行方知らずのジェシーの救出に同行するだろうが、それをせずに消えたということだ。レオンはまた、どこかへ漂流していったのだ。一人でやってるか、新しいコミュニティーを見つけているかはわからない。

一時は噂が立ったが...

ワイルド・スピード SKY MISSION(2015年/ジェームズ・ワン)の制作時期にレオンが戻ってくるのでは無いか?と話題になった。これに対して、ストロングは公式な回答をする。

"私には様々なプロジェクトがあるが、そのリストに「Fast and Frious」の名は無い"ときっぱり否定した。とにかく、ストロング自身にとって意味のある配役で、アーティストであることがストロングの信念。消費されていくマイナーキャラクターとしては復帰することは無い。

 

とはいえ

同じインタビューで、“もし戻るなら意味のあるキャラクター、そして悪役として戻るだろう”とも語っている。

消費されていくキャラクターという、ストロングの言うことがよくわかる。もちろん近年の作品も大好きだが、極めて即物的で規模を拡大し続けている近作に不安が募る。ドウェイン・ジョンソンジーナ・カラーノシャーリーズ・セロンジェイソン・ステイサムトニー・ジャーカート・ラッセルとキャスト陣もヴォリューミーに、舞台はLA、マイアミ、東京、リオデジャネイロ、ロンドン、アブダビ、空、氷上、あとは宇宙くらいしか残ってないような気がする。それでもあと2作品残っているのかと思うと、と戸惑いを隠せなくなる。海上とかやめてくれよ。(宇宙は達成された。*2022年追記)

 

拡大化を一旦落ち着かせて、少しシリアスになっていみてはいかがだろうか。エレナやデッカード・ショウの扱いについては酷評だっただけに、製作陣も完成度の高い話をそろそろ見たい。奇抜なアクションをするためのやっつけストーリーで、マイケル・ベイ化を止めて脚本に予算をかけてほしい。

しかしながら、唯一解決されてないレオンというキャラクターは、アイディア次第ではドラマティックな再活用ができるのではないか?レオンの復帰を望むファンは少なくない。彼が乗っていたイエローのR33型GT-Rもシリーズの象徴的マシン代表格だ。

ストロングが語る“悪役として...”。シリーズには、まだ次作が残されている。

 

 

参考サイト

 

www.manlymovie.net

www.actionfreunde.de

 

screenanarchy.com